
てつのくじら館から道路に面して向かい側、赤煉瓦のアーチに沿い、長門型の戦艦「陸奥」の41センチ主砲を眺め、大和ミュージアムの正面入り口へ。正式名は呉市海事歴史資料館で、戦艦大和をはじめ呉市と海軍の歴史にまつわる展示を揃えている。入り口すぐの「大和ひろば」には、実物の10分の1、全長23メートルの、模型とはいえ小型船舶ぐらいはある戦艦大和が展示されている。ぐるりと一周見渡すと、主砲に副砲をはじめ、たくさんの高射砲に艦橋の細部、さらに甲板の手すりや柵にワイヤーの1本1本まで、細部も精密に再現されている。
大和の起工は1937年11月4日で、東京帝国大学工学部教授の松本喜太郎らを中心に、当時の最新鋭の造船技術が随所に用いられた。大和の建造で培われた技術は、日本の製造業に伝えられている。船の先端は球状の「バルバスバウ」という形状で、造波抵抗がそれまでの8%減に。50㎞先を探知できる測距儀は日本工学の製作で、現在ではニコンのカメラの距離計にその技術が伝えられる。偵察機を射出するカタパルトは新幹線の台車に、主砲を回転させるノウハウは、プリンスホテルの回転展望レストランに用いられている。
大和の戦歴は公試の後に連合艦隊に配属後、ミッドウェー、マリアナ沖、レイテ沖とある中、最も知られているのは撃沈された沖縄特攻。大和率いる第二艦隊第二水雷戦隊は、4月6日に徳山を出発、鹿児島県坊津沖で撃沈された。3332名の乗組員のうち、生還したのは273名のみ。無事だった駆逐艦ゆきかぜが生存者を収容、佐世保へと帰港し、生存者からその経緯が伝えられている。大和を引き上げるプロジェクトは何度も出ており、展示には沈没海域から回収された瓶やタイルほか、碍子、1.5m測距儀なども見られる。
展示は大和のほか、零戦と栄一型エンジン、人間魚雷「回天」試作型、潜航艇「海龍」の、特攻兵器が並んでいる。施設の前に広がる呉港と園地の、穏やかな平和な風景が対照的な眺めである。