
再び内堀端の遊歩道へ降り、水鳥が憩うのを見ながら、御殿があった二ノ丸に復元の多聞櫓を見て櫓門から城内へ入る。岸和田城は楠木正成の一族・和田高家が築いた城で、そもそも「岸」という地名の場所を「和田」氏が治めたことが、地名の由来という。戦国時代〜桃山時代には、豊臣秀吉が紀州征伐の際に入城。家臣の小出秀政が5重天守の本格的城郭とし、城下町も整えた。江戸時代は静岡県岡部町が発祥の武将・岡部宣勝以降、13代に渡り岡部家が城主を務めた。別名の千亀利(ちきり)城は、機織りに使う同名の道具と、城の縄張りの形が似ていることからついたとか。
櫓門から石段を上り、本丸に入ると枯山水庭園「八陣の庭」が広がる。天守が再建された昭和28年に、作庭家の重森三玲により作庭。中央の「大将」の石組を囲むように、天陣・地陣・竜神・虎陣・風陣・雲陣・鳥陣・蛇陣が配した造作は、諸葛孔明の「八陣法」をモチーフにしている。天守閣から俯瞰して見るのを意識した、立体的な庭園だ。天守は当時は5層だったが、江戸時代末期の1827年に落雷で焼失、再建され現在は3層になっている。
天守閣の周囲を一周すると、白亜の天守は壁面が眩しく、屋根まわりの装飾もきらびやか。塀には鉄砲狭間が再現され、石垣の古いものには刻印も。地元の泉州砂岩は剥離するため、当時の刻印は残っていないのだとか。小天守も鯱鉾や屋根部の装飾などが施され、多聞櫓と角櫓とともに、往時の本丸の様子が伝わるよう復元されている。