
官庁街が近づいてくると、城郭の遺構らしい佇まいが見られるように。相生橋のたもとからは県庁通りへ入り、県庁の前からは、烏城通りへと入っていきます。内堀の対岸は下の段、さらに上方に本段奥の天守閣がチラリと見えます。内下馬橋で左右に内堀の水面を見ながら渡り、大手門跡へ。内堀を渡った先が下の段の入口になります。池田利隆が改修した石垣が見られ、自然石を使い上方ほど急傾斜。上に大納戸櫓が建ってました。池田忠継が改修した石垣は割石積みの石垣を被せてあり、あまり加工しない石を使用しています。月見櫓の石垣には犬島の花崗岩を使用、櫓は主に望楼に使われました。
月見櫓から回り込んだ先に、石垣の陰から天守閣が見えてきます。岡山城は1597(慶長2 )年に、豊臣家五大老の一人・宇喜多秀家が築城。 大坂城、広島城とともに、戦国期の後の近世の城郭の、典型的な造りです。建築には8年あまりを費やし、堀の代わりに旭川の流路を直し、本段の北と東面を守るための流れとしました 。また黒板の造りから「烏城」とも呼ばれます。廊下門は藩主の住居と、執務をする表書院の通路。中の段に上がったところには、宇喜多秀家時代の石垣が地下で見られます。表書院は、主に藩政の執務がされた建物。建物には60もの部屋が設けられ、藩主は南座敷で政務を行い、家臣の詰所や台所などもありました。
不明門は楼門形式の正式な登城門で、普段は閉じられていました。不明門をくぐり、本段へ上がった正面に岡山城天守閣が。戦災での消失ののち復元、天守閣のつくりは三層六階で、屋根には金のシャチホコなどを配置。織田信長の安土城天主閣を模したとの説もあります。帰りは西寄りの石段を下ると、廊下門の前を通り中の段へと降りられます。