
広島城から城南通りを広島駅方向へ、広島電鉄白島線を超えたところ、広島女学院の塀には「原爆の絵碑」がある。当校出身の絵本作家・森本順子氏の「わたしのヒロシマ」からの絵を掲載、7枚の絵が当時の様子を伝えている。
レンガ柱の藤棚をさらに広島駅方向へ。幟町公園の交差点の南側には「カトリック幟町教会平和記念大聖堂」がある。原爆の被害後に犠牲者の慰霊と世界の平和を祈念して。ドイツ人司祭のラッサール(のちに帰化して愛宮真備)が主導、世界中からの浄財を元手にしており、村野藤吾が意思に賛同して設計、丹下健三が設計の平和記念資料館とともに、戦後広島の代表的建造物となっている。
建物はバシリカ教会堂というつくりで、左右には花弁型の丸屋根の小聖堂と洗礼堂が付属する。外装は被爆地広島の川砂から作った煉瓦を積み、和の要素も入れているのも特徴。梅の花や松をイメージするような、透かし飾りもあしらわれる。高さ45メートルもの鐘楼が、存在感を見せている。堂内は正面にキリストの壁画が配され、簡素ながらステンドグラスも多くきらびやか。寄進されたパイプオルガンも見られる。外観は東方面に奥行きがあり、裏側から見るのも見事だ。
さらに先の「日本基督教団 広島流川教会」には、もとは三越の向かいを電車通りから入ったところにあり、被爆後こちらに建てられた二代目の建物。設立当初から女子教育を手掛けており、広島女学院はその流れの学校なので平和教育に現在も定評がある。入口にある初代の建物の「1927」とある定礎板、被爆した十字架と鐘が、被爆の史跡である。
原爆投下の当時は鉄骨の建物のみ残骸が残る状況で、こちらも中国新聞の写真に写っている。十字架は被曝した建物の木材で作られたもので、破壊された建物でのミサでも使われていた。こちらに移転した当初は、被爆者に黒焦げの十字架は当時を思い出させるなどでしまわれていたが、この場所での再建後に礼拝堂に掲示された。
礼拝堂から見ると、白壁に黒焦げの十字架だけが配され、強く印象づける。かつての建物にはステンドグラスもあったが、礼拝堂には設置せずあえて十字架だけにしたそう。手前右の壁面の鐘は、素性は不明だが被爆をくぐり抜けたもの。8月の平和の日の礼拝に、鳴らされるという。
京橋川を渡れば、広島駅はすぐ。