グリーンアリーナの北側、城北通りに出ると、広島城の二の丸が見えてくる。広島城は太田川を中心とした、広い中州に作られた平城で、陸軍第5師団が置かれ軍との拠点となった。そのため天守と二の丸と中御門以外は軍施設とするために壊され、城内に軍施設が多いのが特徴である。

復元された二の丸表御門をくぐり、二の丸に入ると被爆樹のユーカリが枝を広げる。樹齢200年、二の丸が焼けた時に枯れかけたが復活したもので、枝ぶりは大きく、まだ細い葉や若い芽が自生している。寄ってみてみると、幹の爆心地側は焼けているのが分かる。堀を渡って本丸に入る手前には被爆樹のマルヤナギもあり、樹齢400年、堀に向かって枝を広く広げている。太い幹の中は空洞になっていて、樹皮だけで生きているという。

被爆時に鉄製の門が焼失、石垣に赤く焦げた跡が見られる中御門跡をくぐり、本丸下段へ入る。廣島護国神社の手前左、堀端の地下には、軍の通信所「旧中国管区司令部地下通信所」が設けられていた。壁の厚さは1メートルのコンクリート、土が盛られ目立たない外観。ここでは中国地方の通信を担当、比治山高校の女生徒が勤めていた。受けた情報を解析して警報や避難令などを発信。原爆投下の一報もここからだったという。原爆では60名の生徒、2名の先生が犠牲となっている。

廣島護国神社の前を過ぎ石段を登ると本丸上段で、かつて畳3000畳もの本丸御殿があった場所。ここには明治27年6月に設置され、明治天皇が日清戦争を指揮した「広島大本営跡」があった。原爆投下時に下段は全焼したが、大本営は倒壊したが炎上しなかった。なので瓦礫は、市民がバラックを立てる材料に持ち去ったという。チラッと見える広島城天守閣は、かつては連結式で漆喰に金の瓦などをあしらい、日本で五本の指に入る名城とも評されていた。

軍用水道が整備された記念に造られた桜の池を見て、裏御門跡から内堀を渡り、城外へ出る手前には旧廣島護国神社鳥居が立つ。一番爆心近くだった鳥居を移設。爆心直下ながら無傷な貴重な史跡である。