
太田川にT字型にかかる形状から、原爆投下の目標になった相生橋を渡り、太田川の対岸へと歩く。途中に平和公園側に見える「平和の時計塔」は毎日8時15分にチャイムが鳴る仕組みで、途中のねじれは時間軸で戦争を表している。南北の軸線は時計塔も経ており、さらにグリーンアリーナへとのびている。
相生橋を渡った先、本川小学校にある「本川小学校平和資料館」は、昭和3年築、被爆しつつ残った校舎の一角を保存した資料館。当時は地上3階地下1階建で、太田川向きにL字型に建っていた。原爆投下時は強烈な爆風が、川から建物を襲った。本川小学校は爆心に最も近かった学校で、その距離わずか410メートル。市の小学校初の鉄筋建築かつコンクリートの壁が分厚く、爆心地近くながら残ったという。
地下の展示室で目を引くジオラマは、かつて平和記念資料館にあった、爆心地付近の模型を移設している。見ると爆心3キロ四方はほぼ全滅しており、建物は産業奨励館(原爆ドーム)などが残る程度。あたりには石柱や瓦屋根が展示してあり、熱線は瓦や石が溶けるほどなのが分かる。付近の建物や人は、一瞬で蒸発したという。ほか原爆ドームのかつてのバルコニーの石柱は、川から引き上げたもの。こちらも御影石が熱でザラザラになっている。
焦げ跡は主に、木造の箇所の裏側のコンクリートについている。内部で焦げているのは爆心ではない側なのは、逆側からの「戻り風」によるもの。吹き戻しの熱風が入ってきたため、反対側が高熱に晒されたからだそうである。当時の配電盤も、一部が溶けつつ残っていた。またこの学校では児童が二人、生き残っている。うち一人は登校直後に、地下の下駄箱へ靴を置き、階段を上る途中に被爆している。その階段の下に立つと、生死の紙一重さが実感できる。
1階の展示室で目を引くのは、被爆前後の周囲の写真。付近の建物で残っているのは、やはり産業奨励館とこの学校ぐらい。ほか戦後の校舎の写真では、壁がない教室で机を寄せ授業をしている様子も見られる。一通り見て校庭に目をやると、一角に慰霊碑が立つ。当時
学校は救護所でもあり、児童とともにそこでの犠牲者が慰霊されている。
再び相生橋を渡り、広島城方面へと向かいます。