
毛越寺からは毛越寺通りをやや戻り、東北銀行のところを折れていく。細い道だが並木とカラー舗装で遊歩道のようになっていて、沿道の店舗や民家の前には花が目立ち、眺めながら歩ける。散策ルートではないので人気がなく、静かな近道である。途中、発掘調査をしている空き地を見かけ、かつての都の名残がまだ埋もれているのを実感する。県道を越え踏切を渡り、古い民家やホーロー看板や花を見ながら路地を先へ。平泉駅からの「中尊寺通り」も過ぎると、「伽羅御所跡」の看板に出くわす。
ここはこの先にある政庁とした柳之御所を設けた事で、秀衡と泰衡が居所とした場所である。御所の名は建物が中国風(唐)とか、伽羅の木を用いていたとか諸説あり、このあたりが藤原氏平泉の要衝だったことが伺える。いまは民家と田んぼしか見られず、芭蕉が奥の細道で「秀衡のあとは田野になりて…」と詠んだ風景なのかもしれない。
先へ進み坂を登ると、左手に緑の土手が見えてくる。登り切った左手の広大な園地が、平安時代の末期の12世紀に奥州藤原氏が政治を行ったとされる「柳之御所」の遺跡である。「吾妻鏡」に記される平泉館と推定され、発掘調査で堀や園地、掘立柱建物、井戸などの遺構が見られるようになっている。右手はすぐに北上川の土手で、緑の芝生に建物の区画が示され、やや高い位置に礎石などが並ぶ。
入るとすぐ左に柱が復元されている付属建物、馬を繋げておいた厩、ブロックをそれらしく並べ位置を示した廊下、中心建物の前にあった金鶏山を望む池と並ぶ。先へ行くと儀式や宴会が行われた中心建物の、東西2棟の柱の位置も示されている。西は11×14m、東は25m四方もあり、規模からしても格式ある式典が行われたことが想像できる。また西の端には無量光院へ繋がる通路跡があったとされ、伽羅御所も含めた当時の連携もイメージできる。
中尊寺の道中にも史跡が点在、めぐりながら行きましょう。