毛越寺は850(嘉祥3)年に慈覚大師が東北巡業の際、この地に差し掛かると霧に覆われ進めなくなった際、白鹿が去ったとともに現れた白髪の老人のお告げで堂宇を建立したとされる。広大な境内にはかつては金堂円隆寺をはじめ、嘉祥寺、講堂、常行堂、経楼、南大門などの堂宇が立ち並び、その前庭に大泉が池を中心とする浄土庭園が配されていた。堂塔伽藍は消失したが、現在は当時の土塁や建物の基壇、礎石などを残してあり、平安時代の伽藍様式を知るうえで貴重な遺構となっている。「寺」とあるがここも跡で、庭園のような寺跡を巡る散策となる。

池の端にあった当時の伽藍復元図によると、島を挟んで橋がかかっていた。現在は島も橋もなく、本堂に参拝してから、南門跡より大泉が池のまわりを巡りながら拝観する。池に張り出すように松が生える「築山」は、右手にある毛越寺の代表的風景・出島石組と対象的な位置にあり、大小の岩で海岸の岩山の景観を表現している。木の根や散策路の中央にはだかる大樹、蓮池などを見て、開山の円仁をまつる開山堂へ。ここが庭園の西端になる。

季節には見事に咲き誇るあやめ園、西奥の嘉祥寺跡や講堂跡を見て、本堂からちょうど正面になる金堂円隆寺へ。ここは基衡の勅願寺で、毛越寺の中心的伽藍。その先端の池端には、かつて鐘楼と経楼があった。玉石を敷き詰めた池への入水路「遣水」は、曲水の宴の舞台ともなる小川。その先は大きな茅葺の常行堂が目を引く。常行三味の修法を行う堂宇で、昭和50年に設けられた鐘楼では願掛けの鐘撞を受け付けていた。

東門跡を過ぎて洲浜までくると、庭園の東の外れになる。海岸線の砂洲の優雅な美しさを表現していて、あたりからは手前に芝が広がり、松の幹の間から池を臨む、変化に富んだ眺めも楽しめる。塀越しには先程訪れた観自在王院跡との間の、玉石の境界も見ることができる。本堂手前の南岸には、築山と左右対象の位置に出島の石組と池中立石が続いている。荒磯を現した造作で、これらを加工玉石も合わせ計算された配置といえる。

雨が強くなってきたが、ほかの史跡も巡りましょう。