上杉神社への参道を進むと、右手に「最初の」上杉鷹山像が現れる。鷹山は17才で米沢藩主となり、以後「生涯を学問」として藩の繁栄と民のために尽力した人物。藩が窮地に陥った際、米沢の織物を産業に発展させるなど、困窮している頃に再建したため、地元では景勝以上に知名度があるとも。凶作にはもみを備蓄するなとして備え、天明の大飢饉でも藩では餓死者を出すことなかったという。ほか、大倹約令を出したり興譲館を創立したりと、産業教育の祖ともされている。

像は正座して米沢の連山を遠望しており、たもとにはケネディ大使のコメントを記した案内版も見られる。また上杉鷹山像の背後は公園になっていて、花壇や像などが並ぶ。その中でも注目は、ダラスの碑。上杉鷹山が開設した藩校・興譲館で明治4~8年の間に教鞭をとった人部で、彼が米沢で食べた牛肉が、食用としての米沢牛のはじまりとされている。地元では「米沢牛の恩人」と称されているとも。

貿易商だったダラスは興譲館の任期が終了して横浜へと戻った際、みやげに1頭持ち帰った米沢牛が評判が高かったのが、米沢牛が世に出たはじめとされている。後にダラスのお抱えのコックだった萬吉が、米沢に最初の牛肉店「牛萬」を開店したほか、添川村の生産者がダラスによって横浜の牛肉問屋と契約するなど、次第に米沢牛がその評価とともに広まっていった。俗に、米沢・松坂・近江の「日本三大和牛」の産地は、いずれも蒲生氏の領地だったといわれる。この碑が、倹約の上杉鷹山像の後ろにあるのが何とも面白い。

松岬神社はもとの直江屋敷、その後景勝屋敷となった場所に立つ小社で、大正12年に米沢藩の初代藩主である上杉景勝ほか、上杉鷹山、直江兼続らを合祀する。境内には鷹山が治広(次期藩主)に与えた「伝国の辞」の石碑が建つ。上杉鷹山像のすぐ隣にある小さな社で、昭和13年には直江兼続も合祀され、「天地人」ゆかりの社となっている。

では、堀を渡り上杉神社へ参りましょう。