
地元神奈川の知人同士で、金~土曜の1泊で近場に出かけることになった。仕事を終えて夕方に東京を出て、遅くならない時間に宿に着けることを考慮、箱根やら熱海やら湯河原やらを検討した上、選んだ宿泊先は小田原のやや手前の国府津である。
知らない人は「こうづ」という読み方も分からないかもしれないこの地、湘南西部の風光明美な海岸に面し、文人墨客が数多く訪れて明治から昭和初期には保養や静養で知られた場所だ。もっとも現在は東京駅からの通勤圏でもあり、夕方に東京駅に集合するとちょうど帰宅ラッシュの最中。そこで保養地への旅らしく、1時間ちょっとの電車の旅に東海道線の2階建てグリーン車をおごることに。
この日お世話になる「国府津館」は、国府津駅から国道1号線を挟んで徒歩2分とすぐ。明治20年に新橋からの鉄道が開通した後、明治21年創業の老舗旅館である。国府津海岸に面した立地から多くの著名人が訪れ、幸田露伴、徳田秋声、柳田国男、太宰治らのほか、館内には渋沢栄一や西園寺公望の書が額に飾られている。通されたのは太宰治が泊まった部屋で、翌日庭に出てみると、本当にすぐ目の前が国府津海岸。庭越しに雄大な相模湾が広がり、漁船がぽつぽつと浮かんでいるのも見えた。
相模湾は湘南海岸の穏やかさから、レジャーの海のイメージがあるけれど、実は漁業が盛んな海でもある。湾に棲息する魚介は 1600種以上、年間の水揚げ量が2万トンと豊かな漁獲の所以は、水深1000メートルの海底谷を有する日本有数の深さにある。特に平塚から小田原にかけては海岸から一気に深くなっていて、この湾に相模川や酒匂川、さらに黒潮の分支流が流れ込むことで、湾の海水が攪拌されて様々な水温の海域が生じ、深度や水温ごとに種類豊富な魚介が棲息する環境が形成されている。
国府津館はそんな相模湾に面しているだけに、料理に使う魚はほぼ全部、小田原市公設水産地方卸売市場から仕入れた地魚だ。一番の入札権を持っており、早朝にご主人自ら市場入りして、入港した漁船から真っ先に仕入れているという。それだけに、夕食の卓に並ぶつくりの盛り合わせには、定置網に1~2本入ればいい方という希少なヤガラの刺身がありビックリ。超ウマヅラのユーモラスな見た目に対して、食味は極めて淡泊と品がよく、料亭では高値で取引されるローカル高級魚。澄んだ白身のはかない旨みが、サラサラと舌に心地よい。
ほか、やや厚めに切ってあるワラサは、サクサクと軽快な歯ごたえが軽妙で、舌に転がした分だけ脂があふれ出てくる程良さがいい。ワラサは出世魚であるブリの成魚ひとつ前の呼称で、かつて相模湾は定置網でブリがよくとれたのだが、今はイナダやワラサクラスは網に入っても、ブリは滅多にお目にかからないそうである。
「その日仕入れた魚の中で、いちばんイキのいいのをメインの料理にする」との宿の方針通り、続いて出てきたのが本日の主役である、活け造りのカワハギだ。大きさ 30センチ弱のいい型で、透けるような透明感あふれる白身はモチモチ、ムチムチと魅惑的な口当たり。そしてカワハギで絶品の部位であるキモは、「海のチーズ」のような豊潤さに絶句。上品な白身とインパクトのある部位の、コントラストのある食べ比べが楽しい。
続く焼き魚は「スミヤキ」という、ローカル魚らしい聞き慣れない魚。カマスの一種であるクロシビカマスの別称で、名の通り真っ黒な魚体とギラリとした大きな目が独特な風貌らしい。箸をかけるとこちらは名に反してきれいな白身で、脂がジュクジュクほとび、トロリ、ネットリと柔らか。特に皮の部分がジューシーで一段と旨い。小骨が非常に多くてやや食べづらいが、その手間も旨さなのがローカル魚らしさかも。
これら相模湾の魚介の多くは、定置網漁で漁獲されたものである。相模湾の漁獲量の半分を占める主要な漁法で、サバ類、イワシ類、アジ、カマス類ほか、ソーダガツオ、カワハギなどが主な漁獲。網は岸から100メートルほどと比較的近い、湾が深くなる手前にかけられ、深部から浮いてくる魚を捕える。網揚げは夜中の2時に出漁して行われ、未明の4時半ごろから小田原漁港へ帰港して水揚げされ、6時半からの競りに備える。
ここまでの料理でも、相模湾の豊饒さに充分満足なのだが、「今日は魚は少ない方」とご主人。今年は夏の猛暑で海水温が高めなのが一因で全体的に漁獲が少なく、網に魚が多くかかっても、商品価値のあるものが少ないこともあるらしい。
つくり、活け造り、焼き物、揚げ物と相模湾の地魚料理が進み、地魚料理のトリの小鍋はキンメダイのしゃぶしゃぶだ。キンメダイは伊豆の稲取が名物で、伊豆半島沿岸の伊東~稲取付近でとれたものが大振りで身が太く、脂がのっている。この宿で使うのは釣りキンメで、網でとったものが押されたりこすれたりして身が傷むのに対し、一本ずつ釣り上げてていねいに扱うから質がいいのが特徴だ。
ダシを張った小鍋に添えて、キンメの切り身が数切れと、野菜は白菜やエノキではなく薄切りのズッキーニとニンジンが添えてあるのがユニーク。しゃぶしゃぶ用に薄切りにした切り身は皮のところが鮮やかな紅色で、身の濃い桜色が食欲をそそる。
仲居さんの指示に従い、先に野菜を入れて、続いてキンメをダシに2、3回軽く泳がせてひと切れ。するとまわりがホクホク、中は半生でシャッキリ。脂が加熱で活性化してトロトロの甘さなのに対して、身は意外にさっぱりしており、しゃぶしゃぶのおかげで食感も味も重層的に楽しめる。
翌朝の朝食も、自家製のアジの干物や朝取れのメジナの煮付などがずらりと並び、お馴染みの魚、思わぬローカル高級魚、そして初対面のご当地魚と、相模湾のお魚を2食かけて食べ尽くした気分である。東京から国府津はグリーン車利用でも、普通電車でわずか2000円弱。伊豆や箱根に比べて交通費を料理代に使えたと思えば、近場のローカル魚「プチお大尽」紀行も、なかなか悪くないかも。