海軍ゆかりの見どころで人気の呉市を訪れ、まずは実物の潜水艦を展示した「てつのくじら館」を見学した。ひき続き、通りを隔てて向かいにある「大和ミュージアム」へ。名の通り、戦艦大和を中心に、造船と軍港として栄えた呉の歴史と背景を紹介する施設で、平成17年のオープン以来入館者数は400万人に迫るという、呉の海軍ゆかりの見どころの中でも、ナンバーワンの人気施設である。
 エントランスをくぐると、ボランティアガイドの方から、まずは施設の概要についてお話を伺った。呉は明治期には呉鎮守府、後に呉海軍工廠が設置され、古くから日本一かつ世界屈指の軍港であり、造船が盛んな街だったという。その象徴といえるのが、呉で建造された戦艦大和。ゲートを抜けてすぐの大和ひろばには、ドーンとそびえる戦艦大和の巨大な模型が圧巻だ。
 ぐるりと一周見渡すと、主砲に副砲をはじめ、たくさんの高射砲に艦橋の細部、さらに甲板の手すりや柵にワイヤーの1本1本まで、細部も精密に再現されている。自分たちの世代なら、小学校の頃に戦艦大和のプラモデルを作った人もいるだろうが、これはスケールが違う。何と実物の10分の1、全長23メートルというから、模型とはいえ小型船舶ぐらいはある。

呉港に隣接する大和ミュージアム。いまでは呉の一大観光名所

 「大和の進水式は昭和15年8月8日で、翌161216日に完成しました。呉海軍工廠の技術を結集して造られた、世界最大級の戦艦です」と、ガイドの方が熱弁を振るう。話によると、戦艦大和の建造で培われた技術は、日本の製造業に伝えられ、現在でも様々な分野に生かされているという。
 たとえば、50キロ先を探知できる測距儀は日本工学の製作で、現在ではニコンのカメラの距離計にその技術が伝えられている。ほか偵察機を射出するカタパルトは新幹線の台車に、さらに主砲を回転させるノウハウは、プリンスホテルの回転展望レストランに生かされているのだとか。
 その大和の砲塔は、砲身20メートルで口径は46センチ、射程距離は42キロで、徳山で撃った弾が呉までとどいたという。「この規模の主砲を装備する場合、船幅が40メートル近くないと、発射の際の衝撃で艦の安定が損なわれるのです。大和は船幅が38.9メートルでしたからね」とのガイドの話。
 アメリカの戦艦でも、技術的にはこの規模の砲塔が装備できたのだが、アメリカの艦船は各地への移動にパナマ運河を通らねばならず、運河の幅に合わせて船幅33メートルが限界だったという。名実ともに当時世界一だった、大和の主砲の技術の利用先が回転展望レストランとは、のどかというか。

 

細部にわたってリアルに再現された、戦艦大和の10分の1の模型。甲板に乗組員まで立っている

 隣接する展示室「呉の歴史1」へ足を向けると、海軍工廠の設置により隆盛を極めた呉の、当時の様子が伝えられている。大正11年のワシントン海軍軍縮条約の影響で、呉は一時は不況に陥ってしまうが、新造船の数が制約された分、アメリカの物量に対し「造るなら大きく、良質なものを効率的に」と方向転換。これが、後の大和建造の理念へとつながっていく。
 「呉の歴史2」のコーナーでは、大和の建造に関する経緯や技術を紹介している。起工は1937114日で、条約が切れたのを期に建造計画がスタート。東京帝国大学工学部教授の松本喜太郎らを中心に、当時の最新鋭の造船技術が随所に用いられたという。船体の両舷は数重になっており、厚さ最大65センチの鋼板を用いた、簡単には沈まない構造。さらに構築には電気溶接とリベットを組み合わせるなど、特に船体強度を上げるための技術は惜しまなかったとされる。
 そして大和の建造は、極秘裏のうちに進められていった。建造現場である呉海軍工廠の造船ドックは、周囲に目隠がされ、造船も部分ごとに製造する「ブロック工法」により、関係者にも全貌が分からないようにした。まさに当時の日本の最終兵器、国防の最後の切り札的な艦船だったといえる。

 しかし大和の戦歴で最も知られているのは、皮肉にも撃沈された沖縄特攻だろう。展示によると、大和率いる第二艦隊第二水雷戦隊は、4月6日に徳山を出発したが、太平洋へ出た時点で連合艦隊の潜水艦に尾行されていた。天候を調査の上、雲が出るタイミングを見計らって総攻撃が開始。戦闘機180機、爆撃機75機、雷撃機131機の計386機もの攻撃に加え、魚雷を左舷中央に12本受けた。左舷を集中攻撃されたのは、武器庫があったためで、左へ10度傾いた時点で有賀艦長が退艦命令を出す。
 3332名の乗組員のうち、生還したのは273名のみ。ほとんどが右舷へ飛び込んだ者で、左舷へ飛び込んだ者の多くは、船の傾斜の関係でスクリューに巻き込まれたり、武器庫の爆発に巻き込まれてしまったという。艦隊も9隻のうち、大和を含む5隻が撃沈され、無事だった駆逐艦ゆきかぜが生存者を収容、佐世保へと帰港した。
 生存者のうち今も30名が存命で、そのひとりの話によると、当時、特攻時の乗組員の多くは、江田島の兵学校を卒業したばかりの新卒兵で、みんな海軍を志す以上は大和への乗船をあこがれていたという。展示には乗組員の遺品や遺書、さらに録音された肉声の別れの言葉が生々しい。


左上から時計回りに、映画「男たちのYAMATO」ロケセットで使われた大和の副砲、
アレイカラスこじまの潜水艦桟橋、入船山記念館の海軍長官の官舎、石川島播磨重工の造船どっく

 沖縄特攻の話のように、戦争にまつわる話は悲劇なのは認識しているけれど、呉の海軍ゆかりの見どころを見て回ると、不謹慎な表現かもしれないが活気や力強さを感じてしまう。てつのくじら館の潜水艦や大和ミュージアムの、巨大な模型。ミュージアム隣接の駐車場にある、映画「男たちのYAMATO」ロケセットの、天井を砲塔が突き抜けるほど巨大な実物大の副砲。自衛隊の潜水艦桟橋「アレイカラスこじま」で見られる、巡洋艦の前に停泊する潜水艦隊。戦艦大和を建造した石川島播磨のドックを始め、巨大なクレーンと造船所群を見下ろす「歴史の丘」。鎮守府長官の官舎である和洋折衷の瀟洒な邸宅が建つ「入船山記念館」など。考えてみれば、日本を代表する戦争教育の場である広島の近隣なのだから、広島とは別の視点で戦争を伝えていくのも、呉の目指すべき道かもしれない。

 日が暮れてから、市街を見下ろす灰ヶ峰より「クレ」と読める夜景を眺めて、本日の行程は無事、終了。仕上げはふたたび海軍グルメプラス瀬戸内の魚介で、お疲れ様会といきたい… というところで、呉の夜編は次回にて。(2009年3月26日食記)