
先日、「旅で出会ったローカルごはん」の本の表紙写真などをお願いした、カメラマンの管さんの事務所で打ち合わせ後に飲んでいた際、たまたまいらした管さん知り合いのカメラマンの方から、個展の招待状を頂いた。その方の父親、管さんの大先輩でもあるそうで、酔っ払って威勢がよかったのもあって(笑)、ぜひお邪魔します、と返事をした。個展当日は自身の銀座での仕事が立て込み、行けそうか少々怪しい雲行き。でも酒席の勢いの約束を守らぬは不義理甚だしい、との矜持を曲げず(大げさな…)、管さんとともに事務所で飲んだ相棒とともに、夕刻の新宿御苑駅へと降り立ったのだった。
個展の主題は大雑把に言うと、現在の東京を様々な角度から写したものだった。中でも商店街での買い物風景や生活感あふれる町屋、賑わう縁日など、東京の下町風景・庶民の暮らしが印象的だ。一巡して会場を後にするともう黄昏時、御苑周辺の繁華街も賑わいを見せ始めている。すると、「どうですか、そば、食っていきませんか?」と相棒。小腹も空いたことだし、ちょいとそばでもたぐっていくか、とは、懐かしの江戸情緒ある写真が食欲にも影響したか… と思ったらそうではなく、単にこの近辺で仕事をした際によく寄ったお気に入りの店なのだとか。そばもいいけれど、時間からしてそば屋特有のアテで軽く一杯、締めはザルで、なんてのもそそられる。こちらのほうが江戸情緒というか、池波正太郎の世界に魅せられたようである。
二つ返事で誘いにのって、新宿通り沿いにあるその『手打ちそば志な乃』という店へと向かう。店頭には屋号が染め抜かれた暖簾がかかり、ショーケースにはずいぶんと年季の入ったサンプルが、値札もなく2、3並んでいる。店内は数脚のテーブル席にわずかばかりの小上がりと、小ぢんまりした雰囲気。食事時にはちょっと早いせいかお客は2、3組だけで、テーブル席のひとつには新聞や雑誌が山積み、もうひとつのテーブルでは何と、店の子供が画用紙を広げてお絵かきに熱中している。客席の奥には厨房とは別に炊事場のようなコーナーがむき出しになっていて、おばちゃんが湯を沸かしたり片付け物をしている様子。新宿界隈の繁華街にありながら、絵に描いたような「町のそば屋さん」といった感じで、さっきの個展に出てきそうな、東京レトロの世界が展開している。
新聞と週刊誌が山積みの席の隣にふたりして落ち着くと、なじみである相棒のオーダーはそば・うどんの「合い盛り」に決まりのよう。自分も品書きを見たところどれも1000円以上と、そば屋にしてはやや高めだ。東京でそばの老舗や名店と呼ばれる店では、シンプルなざるやもりでも結構な値段をとるところがある。つなぎなしの十割そばや、希少な国内産そば粉を売りにするなど、その分味はいいのだろうが、そばはやっぱり庶民の味覚のイメージ。1000円以内の手軽な値段でさらりといきたいものである。店の雰囲気とは対照的に、ここも「名店」なのかな、と思う一方、店に貼られた「新そば」の貼紙に期待して自分は「ざる」を注文した。
そして忘れちゃいけない、お楽しみのそば屋酒だ。板わさに卵焼き、鴨ぬきや天ぬき(鴨なんばんや天ぷらそばの麺なし)といった、そば屋ならではのアテを期待したが品書きにはなく、とりあえず「賀茂鶴純米」を常温で注文。するとおばちゃん、徳利とともに「つまみにどうぞ」と、かりんとのようなものを皿に大盛りで運んできてくれた。これがカリッと香ばしく、「賀茂鶴」がどんどん進んでいけない。おばちゃんによると、つまみの正体は生そばを揚げて、塩をふったものという。ほかにも品書きにない酒のアテがいくらかあるらしいが、「これはサービス」との言葉にありがたく甘えて、生そば揚げを肴にひたすら杯を重ねていく。
老舗や名店のそばといえば、値段の高さもさることながら、ほんの数箸たぐると食べ終わってしまいそうな「小盛り」もまた特徴なのだが、運ばれてきたそばを見て驚いた。大柄のせいろから、今にもくずれ落ちんばかりに山盛りなのである。横から見てもこんもり盛り上がっているぐらいで、老舗や名店ではなく一般的なそば屋と比較しても、軽く1.5~2人前はありそうだ。これなら値段にも納得、いやそれ以上の満腹感間違いなし。やはりそばは庶民の味方、こうでなくちゃ、と感激し、さっそく山盛りのそばに突撃だ。量もさることながら、そばがしっかりと太めで、たぐると歯ごたえが強めで、パキパキとした食感。固いというのではなくしっかりと腰があるといった感じで、太い分そばの香りや甘みもしっかりと味わえていい。店では自前のそば畑を持っており、自家製のそばの実を曳いたそば粉を素材に、ご主人自ら手打ちで仕上げているという。粋なお江戸のそば切りというより、農村の日常食「田舎そば」といった感じだが、なかなか悪くない。見た感じ薄い色のつゆはやや甘めで、そばの風味をしっかり支えているといった感じ。たっぷりのネギに大根おろし、ワサビが薬味に添えてあり、いろいろ試しつつ大盛りのそばを平らげていく。
味と香りがいいそばは、酒のアテにももってこい、と、ざるそばをたぐりつつ「賀茂鶴」の杯もグッ。広島県屈指の酒どころ、西条に蔵元があり、純米ながらキリッと角のたった、切れ味の鋭い酒だ。香ばしい生そば揚げと、もったりしたざるそばと、食感と風味が対照的なアテを楽しみながら徳利をさらに追加、仕事がある相棒にも構わずどんどん勧めてしまう。そのうち大盛りのざるそばがすっかり片付き、徳利をもう一本いきたいところだが、そば屋で長っちりの酒は野暮というもの。締めくくりのそば湯をつゆに入れ、残ったネギとワサビを入れて飲み干したところで店を後にする。仕事が残っている相棒は足早に地下鉄の駅へ、自分は徳利2本で自重したおかげで、まだまだ飲み足りない。新宿通りを10分も歩けば、そこはネオンきらめく新宿3丁目。粋なそば屋酒のあとは、ここらでじっくりと腰をすえて飲みに走るとするか。(2006年11月29日食記)