
近頃、ボクシングで例の3兄弟についての話題が絶えない。世界チャンプの座へ異常なまでのこだわりをはじめ、エンターテイメント性が少々行過ぎた試合の演出、高飛車で横柄な態度、それらを容認する後ろ盾のTBSの過保護さなど、是非があれやこれやと論じられている。実力云々についてはここで論じるつもりはないが、強烈過ぎるキャラクター、一家総出で演じるサクセスストーリーなど、様々な意味で異色のボクサーといえるだろう。異色ボクサーといえば、かつてトンカツ屋に勤めていた世界チャンプがいたのを覚えているだろうか。WBA世界ミニマム級元王座の星野敬太郎で、世界王者でありトンカツ屋の料理長。「トンカツボクサー」との愛称で活躍し、防御に長けたテクニカルなスタイル、一度引退した後に32歳で再び世界チャンプに返り咲き、晩年は引退宣言と撤回を繰り返して周囲を騒がせるなど、当時は話題性では3兄弟にひけをとらない個性派ボクサーだったようである。
その3兄弟の次男坊の試合を夜中の録画で見て、再び判定に頭を抱えてしまった翌日、夕方からの仕事前に遅い昼食を頂こうとやってきたのは、その星野氏が腕を振るっていたトンカツ屋の『美とんさくらい』。京急上大岡駅のターミナルビル地下にあり、何度も前を通ったことがあるが、そこはチャンプ料理長が腕を振るう人気店だけに、いつもお客でいっぱいだった。この日は平日の15時過ぎとあり、店には数組のお客がいるのみ。お姉さんに案内され、丸太を生かしたカウンターの片隅に腰掛けて店内を見回すと、店名の大看板に木のテーブルが配置され、木調の落ち着いた雰囲気である。そして厨房では奮闘する星野氏、の姿はなく、現在はここはやめてしまい岐阜県でボクシングジムをやっているとのこと。大きな丸太の板に書かれたサインが残っていて、壁に掲げられているのが目を引く。
壁には星野氏のほかにもボクサーやレスラーのサインがいくつも直に書かれ、格闘家の間でもこの店が評判だったことをうかがわせる。中ほどにはプロレスラーの小川直也の色紙もあり、あの不気味な「目ヲサマシテクダサイ」のセリフ付きイラストが店内を見下ろしている。サインだけでなくメニューのほうも、格闘家監修のオリジナルがちらほら。WBC世界スーパーフライ級チャンプの徳山昌守監修の「チャンピオンとんかつ」は、豚ロースにキムチのはさみ揚げ。また小川直也監修のその名もズバリ「小川直也丼」は、豚肉にネギ、胡麻油にキムチ入りと、いずれもスタミナ・パワーともに満点といった感じである。ひと通りメニューを眺め、頼むのはやはり、料理長チャンプオリジナルの品にしたいところ。その名も「チャンピオン丼」というのがあり、お姉さんに聞くと「豚肉を13種の香味野菜で炒めたものです。真ん中に赤玉の君がのり、好みで辛味噌をつけて召し上がってください」。値段は同じままでご飯を大・中・小と選べる仕組みで、名前からしてボリュームがあることを想定し、とりあえず中にしてこれを注文することに。
この店、いわゆる格闘マニア御用達の量と安さで勝負の店というわけではなく、トンカツ屋としての実力は、横浜では知られた存在だ。上大岡をはじめ、横浜市南区に3つの店舗を構え、揚げ物を中心とした定食や一品料理を幅広く揃えている。中でもこの店の一押しは「釜焼きトンカツ」。カツを油で揚げるのではなくオーブンで焼き上げ、ハーブ塩など3種の塩から好みで選んでつけて頂くものだ。オーブンのおかげで余分な脂が落ち、あっさりと軽い仕上がりになるのが特徴で、ほかにも薬膳とんかつや、鉄板で焼き上げるみそとんかつなど、トンカツへのこだわりは半端ではない。「スタミナ」「ジャンボ」と冠した品だけでなく、ヘルシーな品も揃っているのが、ある意味アスリート向きか? オーブンを使っているせいなのか、厨房からシャーッという油の音があまり聞こえてこないのが、何だか不思議だ。
やや待ってから運ばれてきた丼はやはり大きめで、やや遠慮してご飯を中にしたけれど、チェーンの豚丼の並みの2つ分以上はある。そして上にはご飯を覆い尽くすほどたっぷりの豚肉にネギ、のり、刻みしょうがと、以前帯広で食べた豚丼に近いよう。中央に落とされた卵の黄身が、見た目に鮮やかだ。まずは肉をそのまま一切れ、口に運んでみると、ショウガのみじん切りがたっぷり入っているため、かなり爽やかな食感。そして「かき混ぜて食べるとおいしいですよ」とのお姉さんのアドバイスに従い、黄身をつぶして辛味噌をぶちまけて、とにかく混ぜ合わせてからご飯と肉を一緒にひと口。するとやや甘めの味付けに辛味噌が後からピリピリと効いてきて、これは飯が進む。肉は薄いがホクホクとしていて、かみ締めるといい味が出てくるのはさすが、トンカツ専門店の豚肉だけある。柔らかな味噌味豚肉のおかげでご飯はスルスルと進み、これなら大でもいけたかも。
食べ終わるまで1ラウンド3分ノックアウトとはいかなかったが、息をつく間もなく一気に食べ終えて終了のゴング、ではなくごちそう様。見た感じは普通にショウガ焼き丼風なのに、食べてみるとボリュームはあり味わいも複雑なこの料理、氏のボクシングスタイルと同様に老獪な技巧を兼ね備えた味、といったところか。料理長チャンプのオリジナルメニューを満喫して店を後に、お茶を買おうとコンビニにちょっと立ち寄り。そういえば例の3兄弟の長男は「騒動の前」まで、ここのコンビニ弁当のイメージキャラクターだったな。(2006年9月29日食記)