松山を後に、瀬戸内海を悠々と航行していたフェリーが、狭い海峡「音戸の瀬戸」を過ぎたとたんに風景が一変した。右手には日新製鋼の赤茶けた製鉄所の広大な敷地が広がり、その先には海上自衛隊の潜水艦や艦船、呉港が近づくと石川島播磨のドックに整備中の巨大なタンカー。まさに元軍港、造船の町ならではの重厚な風景を甲板から眺めているうちに、呉港のターミナルが近づいてきた。

 下船して時計を見ると、時刻は17時過ぎ。まだ日が沈んでおらず、本格的に飲み始めるには少々早いようだが、四国でのひと仕事を終えたので軽く打ち上げたいところだ。案内に従い、ターミナルビル3階の食事どころ「椿庵」へ足を向けたところ、ちょうど営業を始めたところらしい。ほかに客はおらず、窓際の特等席へ腰を下ろすと呉湾内を行き交う船や江田島の島影を望む絶好のロケーションだ。

 さっそくビールだ、とメニューを開けると、「海軍さんのビール」の文字が目に入ってくる。呉の地ビールで、本場ドイツの技術を取り入れた酵母入り、非熱処理が特徴の、なかなか本格的なビールで期待が持てる。3種類の中からピルスナーを注文して、店の人に何かこの土地ならではの肴はないか尋ねたら、「タコと肉じゃが」との返事。瀬戸内の早潮にもまれ身の締まったタコは分かるが、呉と肉じゃがにどんな因果があるのだろうか。素朴な惣菜で一杯もいいなと、地ダコの天ぷらと肉じゃがを注文することに。

 窓の外に巨大タンカーやクレーン、自衛艦、その向こうに海軍兵学校がある江田島が見える夕暮れの港を見ながら、まずはビールをぐっと一杯。ラベルには旭日旗が描かれ、「帝国海軍呉鎮守府發」との文字がクラシックなデザインだ。麦の味がしっかりした、昔ながらのどっしりした味わいでなかなか飲みごたえがある。すぐに運ばれてきた地ダコの天ぷらを1,2つ口の中へ放り込むと、パチパチ、プツプツと歯ごたえが抜群。やや衣が厚いが、タコの甘い香りがたっぷりあふれてビールとの相性もぴったりだ。タコの中で特においしいのは吸盤。パチッ、とした食感についつい箸がとまらなくなってしまう。

 ビールが半分ほどなくなったころ、例の肉じゃがが登場した。なぜ呉で肉じゃがなのか? 実はビール同様、肉じゃがも呉の海軍とのゆかりが深いのだ。一説によると、当時海軍大佐だった東郷平八郎が、かつて留学していたイギリスのポーツマスで食べたビーフシチューをつくらせた際、シチューなど見たこともない調理員がつくりあげた料理が起源という。旧海軍のレシピ「海軍厨業管理教科書」には、肉じゃがの原型である「甘煮」という料理がのっており、現在の呉の肉じゃがはこのレシピ通りに再現されている。ちなみに同じく軍港があった京都の舞鶴も肉じゃが発祥の地を主張、ことあるごとに呉と議論を重ねている。「くれ肉じゃがの会」のHPによると、呉はジャガイモはメークイン、ニンジンやグリーンピースは入れないのが特徴なのに対し、舞鶴は男爵、ニンジンやグリーンピース入りと、スタイルまで異なるのだとか。

 運ばれてきた肉じゃがは見た目、つゆも野菜も肉も黒っぽく、しっかり染みているよう。主役は肉とジャガイモだからか、糸こんにゃくは少な目でこま切れ、この店ではニンジンも入っているが、細かく刻まれ脇役風である。まずはやはり、ジャガイモからひと口。よく煮えていて口の中でほろりとくずれ、メークインの特徴である、ねっとりと粘りがある食感が実に心地よい。色の割にはあっさり味で、ちょっと甘みが強いようだ。店の人によると、みりんや砂糖を多めに使って甘みを強調しているのも呉の肉じゃがの特徴で、ライバルの舞鶴のはしょっぱいのだとか。試しにつゆを飲むと激甘!これが海軍流の味付けなのだろうか。

 肉じゃがでさらにビールが進み、お代わりしたいところだが、まだまだ夜はこれからなのでここは1本で我慢。わずかな残りを飲み干そうと瓶を上げたら、ラベルの戦艦大和のシルエットの向こうを、本物の自衛艦が横切っていった。(2005年6月17日食記)