東京-鹿児島 東海道・山陽・九州新幹線大リレー~「のぞみ」から「みずほ」へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

しばらく前に、東京から稚内まで丸1日かけて鉄道で旅をしたことがあった。
東北新幹線、東北本線と津軽海峡線を直通する特急電車、そして北海道を貫く2本のディーゼル特急を乗り継ぐ楽しい道のりで、車窓も変化に富んでいた。

たった1日で、東京から北の最果てまで行けるようになった、という驚きを伴う達成感にも浸ることができた。(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11197082092.html)


一方で、東京から西へは、早くから新幹線が通じていたので、九州南端の鹿児島まで1日で到達するのは別に意外でも何でもなく、北へ行くほどの魅力は感じなかった。

それでも、平成23年に九州新幹線鹿児島ルートが全線開通してからは、乗りたくてしょうがなかった。

北海道と違い、新幹線だけで東京から鹿児島まで行ける、そのスピード感を味わってみたかった。




平成10年に、東京発西鹿児島行きの寝台特急「はやぶさ」で22時間かけて出かけた記憶が、未だに鮮明である。

決して飽きはせず、昼間も寝台に横になれたから、全然疲れない贅沢な時間を過ごしたけれども、その長い長い旅の実感はよく覚えていて、昨日のことのように脳裏に甦る。

東京を18時に発車し、翌日に終点西鹿児島へ着いた時には、冬の陽は西へ傾きかけていた。


あれから15年が経過し、大きく進化した鉄道の有り様を実感したくなった。

平成25年3月初旬の日曜日に、福岡で仕事が持ち上がり、土曜日も午後に時間がとれたので、前泊で出かけることになった。

絶好の機会と捉えた。


妻に見送られて自宅を発ち、都営大江戸線を御徒町駅で山手線に乗り継いで、東京駅へ。

山手線車内の電光掲示板を見ると、首都圏では、強風でダイヤが乱れている路線が結構見受けられた。

東京の空は青く、燦々と日光がビル街の窓に煌めいていたが、冬型の気圧配置が近づいているようで、雛祭りの前日というのに、日本各地では下り坂の天気予報が報じられていた。

こちらの前途が平穏であるよう、祈らずにはいられない。



ごった返している東京駅で、僕が目指すべきは、東海道新幹線「のぞみ」233号新大阪行きである。

ホームに駆け上がれば、車両は最新鋭のN700系だった。


昼過ぎまで仕事をしてから自宅に寄ったので、発車ぎりぎりの時刻となってしまい、週刊誌と缶コーヒーを片手に客室に飛び込むと、席に腰を落ち着けてくつろぐ前に、するすると隣りの車両やホームの雑踏が後ろへ流れ始めた。

定刻15時00分きっかりの発車である。


新大阪までは、グリーン車を奮発した。
もちろん、出張費には含まれないけれども、妻が、

「少しは贅沢してらっしゃいな」

と差額を出してくれたのである。



品川駅の停車で一息つくと、「のぞみ」233号は、品川区と大田区の雑然と密集した街並みの上を、するすると高架橋で越えていく。

東急大井町線と下神明駅付近で交差するあたりは、かつて大井町に住んでいた僕にとって、こよなく懐かしい景観だった。

大井町駅前に建つ阪急ホテルが、居並ぶ無数の屋根の向こうに小さく顔を覗かせている。
あの街で、僕は大学時代を過ごしたのだ。

陽光が川面に跳ねるように煌めいている多摩川を渡ると、「のぞみ」は、旅の序曲を終えて、ぐいぐいと速度を上げていく。
次の新横浜は、結婚まで妻が住んでいた街である。
式を挙げたのも、駅前のホテルだった。
翌朝にホテルの部屋から見下ろした新横浜駅を発着する新幹線の姿を、僕は一生忘れることはないだろう。
様々な思い出が脳裏を駆け巡る、僅かばかりの停車時間だった。

相模野を駆け抜けて、住宅地よりも田園の比率が高くなる頃に、丹沢の山々がぐんぐん右手から車窓に迫ってくる。
最高時速270kmで疾走する午後の東海道は、太陽がまぶしいくらいの晴天だった。


口寂しくなれば、喫煙室で一服つければいい。
座席に座って、ぼんやりと景色を眺めているだけで、身体は目的地に向かって大変な速度で移動していく。

新幹線の旅は味気ない、と言われるけれど、そのような筈はない、というのが僕の持論である。
日常の生活から離れて、たとえ窓越しであっても、普段は目にすることのない異質な世界に触れることが出来るひとときは、新鮮な体験のはずである。
要は、そのことを敏感に感じ取ることが出来るのかどうか、と言う感受性と想像力の問題だと勝手に思っている。

我が国の先人たちは、有史以来、余すところなく狭い国土をきめ細やかに利用してきた。
国土が均一化されてしまった、と嘆かれながらも、よくよく観察すれば同じ光景が繰り返されることは決してなく、人々が織りなす生活や歴史に思いを馳せるだけでも、車窓風景に飽きは来ない。


ワシントンとニューヨークの間で利用したアメリカ版新幹線とも言うべき「Acela Express」は、何十分も光景が変わらない大陸風の車窓であることに目を見張らされたが、我が国では、そのようなことはあり得ない。
国土の狭さと人口密度の高さを反映しているのだから、誇れたことではないのかもしれないけれど。

東京から何百kmと走り続けても一向に人家が途切れない東海道メガロポリスとは、誠に凄まじいものだ、と思うけれども、逆に、いじましさに胸がつまることもある。
在来線では敵わないような短時間で、日本列島の半分以上に当たる長い距離を移動できる折角の機会である。
人間の営みを懐に包み込みながら見守り、育み続けてきた僕らの国土の、優しく自然豊かな表情を映し出す車窓と、世界に誇る新幹線の乗り心地を、存分に楽しむ旅にしたいと思う。


16時41分に、「のぞみ」233号は名古屋駅に滑り込んだ。

高層ビルが建ち並び整然とした桜通口と異なり、新幹線のホームがある太閤通口は、予備校や家電量販店の看板が目立つ煩雑な街並みである。
ガラスを湯気で曇らせている立ち食いのきしめん屋に寄ることが出来る停車時間があればいいのに、と慌ただしい新幹線の旅を恨めしく思う駅でもある。


晴天の名古屋を出ると、たかだか10分も経たないうちに、分厚く垂れ込めた雲が空を覆い、車窓が寒々と暗くなった。
濃尾平野を抜けつつある「のぞみ」233号の両側から、伊吹山系と鈴鹿山脈の山並みが、のしかかるように近寄ってくる。
視界の中を、何やら細かいものが無数に舞い始める。

まさかの雪であった。

猛スピードで国境を駆け抜けていく新幹線ならではの、陽から陰への見事な演出だった。
映画を鑑賞しているかのような、目まぐるしい舞台の変化である。
窓ガラスを、幾筋もの水滴が風に震えながら横に流れている。
関ヶ原から米原にかけては、北陸の入口なのだ、と改めて思う。

江戸時代の旧東海道は、名古屋から真西へ向かって輪中地帯と鈴鹿山脈を越え、三重県の亀山へと抜けていたと聞く。
そのルートは地質が悪く、東海道本線や新幹線は、米原へと北に大きく迂回する経路を選んだ。
その代償に、東海道新幹線は、開業以来この区間で雪に悩まされる結果となったのである。


降雪は徐々に激しくなり、積もるほどではないにしろ、吹雪と呼んでもいいくらいの勢いになった。
「のぞみ」233号の速度は衰える気配を見せず、遅れる心配はないようだったが、次の乗り換えに余裕がある訳ではないので、少々気を揉みながらの雪見となった。

さすがは新幹線で、晴天の訪れも瞬く間であった。
伊吹山を眺めてから後の、近江路の南半分は、雲間から陽が射し始めた。


琵琶湖の南端を過ぎ、音羽山トンネルと東山トンネルを続け様にくぐり抜けると、速度がぐいぐいと落ちていく。
視界が開ければ、タイムスリップしたかのように古い街並みが周囲に開けて、京都に到着する。

なのにあなたは京都へ行くの
京都の街はそれほどいいの
この私の愛よりも──

思わず古い歌が心に浮かぶ。
妻にこのような歌を聞かされたら、どうしよう、と思う。

新幹線の停車駅の中では、京都の街の情緒は、群を抜いていると、いつも思う。
京都駅を発車した直後に見える、東寺の五重塔の遠望も良い。


淀川に沿った平地に広がる、大都市近郊らしく雑然とした風景の中でも「のぞみ」233号の勢いは衰えない。
新型車両になって騒音が減弱されたととは言え、沿線の人々はうるさいのだろうな、と恐縮するほどである。

だが、これはラスト・スパートで、日本語と英語の乗り換え案内が流れる中を、左手の奥に林立する梅田のビル街を望みながら、「のぞみ」233号は、定刻17時33分に、黄昏が迫る新大阪駅21番線に到着した。
乗降口を出ると、冷たい空気が鼻をくすぐって、僕は思わずくしゃみをした。
大阪がこれほど寒いとは意外だった。


隣りのホームには、往年の最速列車である500系新幹線が、静かに発車を待っていた。
我が国で初めて時速300km運転を達成した名車で、僕もそのスピード感溢れる外見が大好きだった。
ところが、経済性に優れたN700系の登場により、各駅停車の「こだま」に格下げとなり、編成も短く切られてしまう。
運転されるのは、列車密度が少ない山陽新幹線だけという体たらくである。
憧れていた列車だっただけに、まさに栄枯盛衰、ものの哀れすら感じてしまう。

発着するホームも、改札から最も離れた隅っこの20番線に追いやられている。
毅然と発車を待つ女性駅員さんが、なかなかの美人だったから、という訳ではないけれど、500系の「こだま」755号に乗って、

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

と呟きながら、山陽道をのんびり行くのも一興か、と思う。

しかし、この日の本来の目的に勝る魅力はなかった。


コンコースに降りると、新大阪駅の電光掲示板に、ぎっしりと出発列車の表示が並んでいる。

これまでは、東海道・山陽新幹線の東京、岡山、広島、博多といった主要駅の名と、「のぞみ」「ひかり」「こだま」の3種類の列車名しか表示されていなかったが、今では「みずほ」と「さくら」が加わり、熊本、鹿児島中央といった九州の駅名が掲示されるようになった。
新しい時代の幕開けを目の当たりにしたようで、訳もなく嬉しくなってしまう。


コンコースで幾許かの買い物を終えて、階段を駆け上がった僕が目指したのは、「みずほ」607号鹿児島中央行きである。
この列車が今回の旅の主役である。
山陽・九州新幹線を直通する新しい列車に、どうしても乗ってみたかった。

九州新幹線から山陽新幹線に直通する列車につけられた「みずほ」「さくら」といった愛称は、東京と熊本・長崎を結んだ往年のブルートレインの愛称である。
東京を発着する寝台特急が廃止されて久しいが、山陽・九州新幹線の速達型列車の愛称として蘇ったのだ。
電光掲示板に輝く「みずほ」の文字を眺めるだけで、往年の鉄道ファンとしてはワクワクしてしまう。


先程500系「こだま」を見送った時には、このような隅っこのホームに追いやられて、と哀れを感じたのだが、「みずほ」607号の発車も同じ20番線だった。
つまり、あの美人の駅員さんに見送っていただけるという訳である。

うらぶれた雰囲気だった「こだま」の発車光景とは異なり、「みずほ」の先頭車の前では、何組もの女性客が、車両と一緒に記念撮影をしたり、華やいだ空気が流れていた。
女性駅員さんが、ニコリともせずに眺めている。


定刻17時59分を迎えると、鹿児島中央行き「みずほ」607号は、するすると滑らかに新大阪駅のホームを離れた。
30分にも満たない乗り換え時間の合間に、大阪の街並みは、とっぷりと日が暮れていた。

東京駅から九州新幹線に乗り入れる直通列車はない。
九州新幹線に乗り入れる列車は、全て新大阪駅発着であるのが現状である。
今回の旅では、博多まで「のぞみ」で行って乗り換えるか、早々と新大阪で乗り換えるか、大いに迷ったけれども、本州から鹿児島まで直通する列車に乗ってみたいという願望が勝った。

 
「みずほ」をはじめ、九州新幹線の車内は、新八代-鹿児島中央間の部分開業で登場した800系車両の時代から、普通席でも左右2列シートという豪華仕様である。

800系のシートは和風でやや固めだったけど、九州新幹線用に改良したN700系の普通車シートはフカフカで、グリーン車と言っても通じるくらいである。
編成も「のぞみ」の半分の8両だけであるから、定員が少なく、指定席が確保しにくいとも聞いた。
新大阪で「みずほ」に乗り換えることに決め、指定席券を手に入れられた時には、小躍りする思いだった。

東海道新幹線の区間では車内改札がなかったけれども、「みずほ」では、女性の車掌さんが改札に回ってきた。
僕の乗車券を見て、一瞬、のけぞるような素振りをしたように思えたのは、気のせいだったのか。
1枚の切符に「東京-鹿児島中央」と大書され、「のぞみ」233号と「みずほ」607号それぞれの発着時刻や座席番号、値段が細かく記載されているのだ。

九州新幹線が開業して以降、東京から鹿児島まで直通する物好きな客は、どれくらいいるのだろう?
車掌さんに聞いてみたい、と思うが、何となく気恥ずかしくて聞きそびれた。

山陽新幹線は海岸沿いに並ぶ市街地を避けて、背後の山の中ばかりを走るため、トンネルが多い。
トンネルに挟まれている新神戸の駅は、既に暗闇の底に沈んでいたけれども、その後も轟々と響く走行音だけが耳をついて、トンネルの中を走っているのか、外に出たのか定かでない。


昔、岡山の手前の西大寺付近で、高架橋を疾走する新幹線を見かけたことがあった。
黄昏の中を、一筋の矢のように走り去る長大な列車のパンタグラフから、線香花火のような火花が盛んに散っていたのを、今でも鮮やかに思い出す。
あの時は、大阪と岡山を4時間あまりで結ぶ高速バスに乗っていた。
新幹線だったら1時間程度なのかと、その韋駄天ぶりに改めて驚嘆した覚えがあるが、今の「のぞみ」や「みずほ」は更にスピードアップして、新大阪から岡山まで50分とかからない。

岡山では、瀬戸大橋を渡って高松、松山、高知へ向かう特急列車の乗り換え案内が流れ、旅情をそそる。


九州新幹線のN700系は、東海道山陽新幹線のN700系と、車内の構造が多少異なっている。

客室の外の車端部分は、なだらかな曲線を描く通路になっており、JR九州の在来線特急でも見られる優しげなデザインだった。
壁も木張りを思わせる暖色系で、無機質な「のぞみ」とは一線を画している。
喫煙ルームがあるのは「のぞみ」と同じだが、通路の片側だけの「のぞみ」と違って、両側に設けられている。
多目的ルームは、トイレだけでなく、おしめ交換など色々と使える広々とした造りだった。


どこかの作家が、海外の豪華列車と比べて、日本の新幹線ほどシモの世話に配慮している列車はない、と書いていたことを思い出す。

その極め付きは、男性専用のトイレではないだろうか。
立ちション用の便器を備えた列車が、他のどの国にあるだろう?
別にN700系の専売特許ではなく、初代の0系から設置されており、初めて新幹線に乗った幼少時に、頗る感動した覚えがある。
今では在来線特急にも普及しているけれども、新幹線以外は和式のポットン便所だった昔から、新幹線は男性用便器を備えていたのだ。


「みずほ」は、漆黒の闇をついて、最高時速300kmで、ひたすら西を目指して走り込む。

この時間を、僕は1人で過ごすことが苦手だった。
望んで1人旅に出てきたのに、なぜか人恋しくて堪らなくなってしまう。
隣りの空席に妻が一緒だったら、と思う。

闇に包まれた疾走で時間の感覚が麻痺したのか、新大阪から1時間20分ほどの広島も、あっという間だった気がする。
駅の手前に「MAZDA ZUMZUM球場」と書かれた、丸い壁の球場が見える。
スタンドの照明がまばゆく、その空間だけ、暗闇の中からぽっかりと浮き出している。


妻と広島を訪れて、駅ビルでお好み焼きを賞味したのは、前年の8月だった。
あれから7ヶ月も経ったのか、と思う。

夜の旅は、回想ばかりが頭に浮かんでしまう。
闇の中に点々と散りばめられた灯りは、天空の星々のように幻想的で、銀河鉄道に乗っているかのような心地にさせられる。
カムパネラとジョバンニも、このような光景を目にしたのだろうか。
僕が乗る「みずほ」は、白鳥座の天界ではなく、きちんと僕を九州の地にいざなってくれるのだろうか。


くさくさしてばかりいないで、元気を出して夕食にしよう!──

と気を取り直して、僕は新大阪駅で購入した柿の葉寿司の蓋を開けた。
駅弁は何でも大好物だが、大阪では押し寿司を買うのを常としていた。
1200円とは高い、と店頭では思ったのだが、中には、葉にくるまれた寿司がぎっしりと詰まっていて、食べ切れるのか心配になった。

柿の葉寿司を食べ始めたのが、徳山を通過した頃である。
19時50分過ぎに、新山口を轟然と通過した。
「のぞみ」ならば全て停車する山口県の県庁所在地を、「みずほ」は通過するのか、と妙なところに感心した。
新下関を過ぎ、20時ちょうどに新関門トンネルに入った頃に、柿の葉寿司は綺麗になくなっていた。

ついに九州上陸である。
東京を出てから、ここまで5時間とは速い、と思う。
異論のある人は少なくないだろうけど。


20時08分に小倉へ停車してから、「みずほ」607号は北九州トンネルをくぐり、直方付近をかすめると、福岡トンネルに突っ込んでいく。
平坦な印象を抱いていた九州北部でも、都市部を避けて山際に敷かれた新幹線の、トンネルばかりの旅が続く。

不意に減速が始まったかと思うと、いきなり眩い都市景観が車窓を彩り、20時25分に博多に到着した。
昭和50年の山陽新幹線の開通から2年前まで、長いこと新幹線の終点だった駅である。

ここで乗客の殆どが入れ替わった。
九州新幹線への直通列車であるけれども、新大阪から岡山、広島、博多と区間利用の乗客が大半のようである。
「のぞみ」より座席が豪華だからであろうか。

今回の出張の目的地でもあるけれど、僕は動じない。
「みずほ」607号は、鹿児島中央行きである。
僕がはるばる出かけて来たのは、東京と鹿児島を鉄道で直通する壮大な旅を完結するためである。
無論、平成23年に博多-新八代間で全線開通した九州新幹線の初乗りを兼ねている。

旅は、これからが本番なのだ。


九州新幹線のアナウンスは、韓国語と中国語が併せて流れて、大陸に近い風土を感じさせる。

最高速度が時速300kmの山陽新幹線区間に比べれば、九州新幹線区間の走りは穏やかに感じられた。
新しい路盤で揺れが少ないのと、最高速度が時速270kmに抑えられているからかもしれない。
街の灯りが、心なしか、これまでよりも大きく窓に滲む。

長大な筑紫トンネルで筑紫平野を抜け、佐賀平野に足を踏み入れる新鳥栖から久留米にかけては、きついカーブが存在するようで、かなりの減速を余儀なくされた。
それでも、「みずほ」607号は、博多から僅か30分あまりという驚くべき短時間で、21時ちょうどに熊本に停車した。


暗闇をついての九州縦断が続く。
小雨が窓を濡らす熊本平野を走り抜け、新八代を通過すると、「みずほ」607号は、八代湾の海ぎわまで迫る九州山地をものともせず、断続するトンネルを次々とくぐり抜けていく。
新八代と鹿児島中央の間は、部分開業した直後に乗車したことがあるけれども、今回は遥々大阪から乗り通して来たのだから、味わいが全く異なって、大いに新鮮な乗り心地である。

水俣を過ぎれば、ついに鹿児島県に足を踏み入れることになる。
東京から15の都府県を走り抜けた長い新幹線の旅も、終わりが近い。

出水山地をくぐり、最後の通過駅である川内駅の構内を全く速度を落とすことなく、ホームを吹き飛ばすような勢いで通過し、薩摩半島の根元を走り抜けると、「みずほ」607号は、肩の力をフッと抜くように減速した。
ガタガタと転撤器を渡り、長いこと闇の中を駆け抜けてきた者には目が眩むほどの照明が、煌々と車内を照らし出した。

福岡から1時間20分、熊本から40分ほどで、九州新幹線「みずほ」607号は、終点の鹿児島中央駅に到着した。
この先に、もう線路はない。


東京駅を発ったのが、15時ちょうどだった。
鹿児島中央駅のホームの時計の針は、21時45分をさしている。
僕は、確かに九州最南端の鹿児島の地を踏みしめていた。

東京よりも肌寒く感じられる夜の駅前に、南国らしい風情は感じられなかった。
列車を降りた人々は、足早に夜の街に姿を消したが、僕は折り返しの22時19分発「さくら」410号で博多へ戻らなければならない。
このような遅い時間でも、九州を縦断して23時55分には博多に着くことができるのだから、新幹線の威力には畏れ入ってしまう。

九州新幹線の区間だけを運行する列車としては、「さくら」の他にも、九州新幹線が新八代と鹿児島中央の間で暫定開業した平成16年に投入された、「つばめ」の愛称を冠している列車が残っている。
初期の800系車両が使われることも多く、久しぶりに乗ってみたい気もしていたのだが、博多行き「つばめ」の最終は21時25分発で、とっくに過ぎていた。
「さくら」410号はN700系である。

東京-鹿児島中央間の走行距離1463.8kmを、新大阪で30分近い乗り換え時間を挟みながらも、「のぞみ」と「みずほ」は合計7時間もかからず定時で走り抜いた。
世界に冠たる2つの高速列車の見事なリレーの余韻に浸りながら、僕は、僅か30分程度の滞在だった鹿児島の街を後にした。



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(25.3.7)