ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

 

妻を福岡の実家に送り出した平成23年3月15日の夜、静岡で震度6強の地震が発生した。
東北沖の震災に続いて、茨城、千葉、長野、そして静岡と、東北から離れた地域で次々と地震が起きている。
被災地よりは随分マシなのかもしれないけど、東京は東北、茨城、千葉、静岡などの複数の震源に囲まれているから、揺さぶられる回数が多い。
日本列島は、どうなってしまったのだろうかと思う。


東京の街では、底辺で静かな怯えが広がっているように感じた。
店頭から消えた食料品。
ガソリンスタンドに並ぶ車の列。
街から消えたネオン。
閉まっている店も少なくない。
 


そのような混乱の中で、天皇陛下のお言葉が伝えられたのもこの日である。
浮き足立っている僕たちの心に真摯に語りかけられるのは、今、この方しかいないのだろう。
 
この度の東北地方太平洋沖地震は,マグニチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり,被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し,犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また,現在,原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ,関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。
現在,国を挙げての救援活動が進められていますが,厳しい寒さの中で,多くの人々が,食糧,飲料水,燃料などの不足により,極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより,被災者の状況が少しでも好転し,人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして,何にも増して,この大災害を生き抜き,被災者としての自らを励ましつつ,これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。
自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々,諸外国から救援のために来日した人々,国内の様々な救援組織に属する人々が,余震の続く危険な状況の中で,日夜救援活動を進めている努力に感謝し,その労を深くねぎらいたく思います。
今回,世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き,その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
海外においては,この深い悲しみの中で,日本人が,取り乱すことなく助け合い,秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え,いたわり合って,この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
被災者のこれからの苦難の日々を,私たち皆が,様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく,身体からだを大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう,また,国民一人びとりが,被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ,被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています
 
何よりの励ましとして心にとどめたい、と頭を垂れる思いだった。
 
 
それからは、ネットで放射線量をチェックするのが日課となった。
3月16日の東京(新宿)は0.16μSv/hだった。
17日の放射線量は0.18μSv/h。
 
寂しい、と泣きながら妻が電話やメールを送ってくる。
実家では良くして貰っているのだが、九州では東京のニュースがあまり伝わらず、逆に僕の身が心配になってしまうと言う。
僕は土・日・月曜日の連休に休暇を貰えることになった。
だが、3月18日の金曜日は夜間外来があって、夜の8時まで診察だった。
その夜に飛んで行ってあげたいのだが、とても無理である。
会えるのは土曜日か、と残念に思っていると、羽田23時15分発の北九州行きスターフライヤー93便が、たった1席だけ空いたのである。
何回か携帯で予約を試みたが、これまでは満席だった便だ。
誰かがキャンセルしたらしい。
これで妻に会える!──と僕は躍り上がった。
 
3月18日から19日にかけて、1時間40分の夜間飛行を終えたSFJ 93便は、定刻24時55分に北九州空港に着陸した。
職員に案内されるままに黒塗りのミニバンの最後部席に押し込まれ、5~6人の乗客と共に九州自動車道を福岡へ疾走した。
以前に高速バスで何度も行き来したことのある道筋だけれども、ポンポンと跳ねるような揺れには閉口した。
午前1時を過ぎているから少しでも眠っておきたいのだが、舗装が荒れているのか、スピードを出し過ぎているのか、暴れ馬に乗せられているような乗り心地で、眠っているのか起きているのか分からない朦朧とした時間が過ぎていった。
福岡空港は運用時間の規制があるため、深夜便の発着などは出来ないし、北九州空港から無料で妻の元へ運んで貰えるのだから、乗り心地程度で文句は言えない。
 
 
3日ぶりに会う妻は、ハイヤーを予約して博多駅まで迎えに来てくれた。
妻の実家でようやくぐっすりと安眠できた。
 
目を覚ませば、庭に暖かな陽の光が燦々と降り注ぎ、咲き始めた花に虫が飛び交っている。
福岡にはひと足先に春がやって来ていた。
縁側で風に当たっていると、のどかさに心が癒される。
この春を、被災地に持っていってあげたいと思う。
 
小松左京の長編小説「果てしなき流れの果てに」で、「ムーンライト」に乗る直前に失踪した野々村は、数奇な運命を経て、50年後に再び、彼を待ち続けていた佐世子のもとに現れる。
佐世子が住んでいる、昔ながらの老屋の縁側に2人で腰を掛け、庭を眺めているラストシーンに描写された日本の春の情景は、忘れがたい。
 
『湿った土の上にむしろがのべられ、今年の梅の実が、まだ漬け込む前の、つやつやしい鶯色の肌をにぶく光らせながらならべられてあった。
鶏の白い羽があたたかく光り、雛どもの淡い金色の柔毛が、その間をふわふわした煙の玉のようにころがっていた。
雀が影をおとし、蟻が長い列をつくり、蝿が日だまりをぶんぶんとびまわった。
庭の隅には色あざやかな苔がもりあがり、くすんだ赤紫色の紫蘇の葉や、勢いよくのび上がる緑青色の蕗が、梅や、八ツ手や、あおき、南天、海棠、楓などの植えこみといっしょに、青い影を落とし、その間に毒だみや夕雀などの小さな白い花が点々とちりばめられていた 』 
 
そして、野々村は、自分が時を超え、宇宙の隅々まで巡ってきた壮大な物語を、佐世子に語り始めるのである。 
 
「そう──それは長い長い……夢のような……いや……夢物語です……」
 
震災や津波、原発事故は、九州では遠くの出来事だった。 
脳裏には、前の夜に病院から羽田空港まで車で走りながら、目の当たりにした衝撃的な光景が思い起こされる。
自宅の近所では震災で土手が崩れ、道を土砂が覆っていた。
首都高速湾岸線は、浦安付近の液状化の影響で、一部が通行止のままという標示があちこちに見受けられた。
金曜の夜ともなれば渋滞を引き起こしていた首都高速に、車の姿は僅かだった。
節電で暗くなった街並みや、数本に1本ずつしか灯されていない高速道路の照明には胸が痛んだ。
 
開店しているにも関わらず、コンビニやファーストフード、ドラッグストアの看板からは明かりが消えていた。
営業時間を短縮したり、臨時休業する店舗も少なくない。
東京タワーにもレインボーブリッジにも、いつものイルミネーションは見られなかった。
 
無類の繁栄を誇ってきた世界有数の大都会が、これほど活気を失うなどということは、戦後初めてではなかっただろうか。
震災による流通の混乱。
電力事情の悪化。
ガソリン不足。
繰り返す余震と、原発事故への怯え。
 
 
震災前から、日本の景気は一進一退だった。
少子高齢化など社会構造の問題が山積し、長い不況をなかなか抜け出せない僕らの国を覆う停滞感は歴然としていた。
やること成すこと全てうまくいかずに支持率が低迷し、くるくると替わる政権。
 
今回の災害をきっかけに、日本経済は、ますます失速してしまうのかもしれない。
次から次へと大量にモノを消費し、ガソリンや電気を使いたい放題使って、発展してきたこの社会では、物質的な豊かさイコール幸せ、と考えられて来た。
だからこそ、東京が1人勝ちなどと言われてきたのだ。
その挙げ句に、福島や柏崎などの周辺地域に、原発を幾つも建設しなければ維持できない、怪物のような街を作り上げてしまった。
もう1度、そのような贅沢が可能な街に戻すことが、復興なのだろうか。
 
心を洗われるような、九州の豊かな自然を眺めていると、そうではないはずだ、と思う。
日本人は、経済至上主義や大量消費社会に代わる、新しい幸せの価値観を、これから創り上げていくような気がした。
たとえ街のネオンが暗いままでも、1つ1つのささやかな灯の下では、人々の心暖まる団欒が見られるような社会であればいいじゃないか、と思った。

 
連休最終日である3月21日の午後9時、福岡空港からのJAL330便は、強い南風をついて、雨の羽田空港にタッチダウンした。
震災から10日目に、僕は妻と一緒に、東京へ帰ってきたのだ。
 
僕が福岡に行っていた3日間、福島第一原発の事態は、好転しているとはとても言えなかった。
放水による原子炉の冷却は本格化し、電気も通じて、一部の炉は冷却に成功したという。
しかし、系統だった報道は相変わらず手に入らなかった。
部分的なトピックスばかり仰々しく取り上げられているということは、今まで通りの予断を許さない緊迫した状態でもあるのだろう。
無秩序に飛び交う情報をよく吟味して、自分たちの身は自分で守るしかない状況は、全く変わっていなかった。
余震も、なかなか収まる気配がない。
店舗の品薄状態も続いている。
だから、妻は九州の実家に残してくるつもりだった。
 
ところが、妻は一緒に帰ると言い張った。
どんなに説得しても、離れていると心配で心細い、と涙ぐんだ。
夫婦になってまだ数年だった。
不思議なものだと思う。
危険を冒してでも、一緒にいたいと願うものなのだろうか。
僕も、こいつだけは、何がなんでも守らなければならないという心境だった。
だからこそ、九州に行かせたのだ。
 
後になって冷静に振り返ってみれば、妻の九州行きは、錯綜する情報に振り回されただけだったのかもしれない、と思うことがある。
それでも、僕は、ひたすら妻を守りたい一心だった。
 
群馬大学早川由紀夫教授の考察によると、福島第一原発から発した放射性プルームのルートと日時、放射線量は以下の通りとされている。
 
①3月12日一関ルート=21:00南相馬市(20.00μSv/h)→女川町・千厩町・一関市
②3月15日東京ルート=04:00いわき市(23.72μSv/h)→08:30水戸市(1.49μSv/h)→09:30さいたま市(1.20μSv/h)→09:30東京新宿(0.50μSv/h)→12:00茅ヶ崎市(0.18μSv/h)
③同日枝分かれ宇都宮サブルート=10:30宇都宮市(1.30μSv/h)→13:30白河市(5.02μSv/h)→14:05郡山市(8.26μSv/h)→22:20会津若松(2.57μSv/h)→24:00山形市(0.10μSv/h)
④同日枝分かれ群馬サブルート=12:00前橋市(0.54μSv/h)→16:00長野原町(0.82μSv/hr)→19:00南魚沼市(0.527μSv/h)→20:30長野市(0.10μSv/h)
⑤同日首都圏滞留分=14:30東大柏(0.72μSv/h)→16:00市原市(0.30μSv/h)→17:00さいたま市(1.01μSv/h)→18:00東京新宿(0.33μSv/h)→18:30東大本郷(0.72μSv/h)→18:45東大駒場(0.52μSv/h)
⑥同日飯舘ルート=1800飯舘村(44.7μSv/h)→19:00福島市(23.9μSv/h)→20:30郡山(3.52μSv/h)→20:50白河(7.67μSv/h)→25:00那須→26:00日光
⑦3月21日柏ルート=06:00水戸市(0.49μSv/h)→09:00東京新宿(0.10μSv/h)
⑧3月21日=11:00いわき市(6.00μSv/h)
 
新宿中央公園や葛飾の水元公園など、都内に幾つかのホットスポットを作った3月15日の首都圏滞留分と、21日の柏ルートの放射性プルームを、妻はかろうじて回避できたのかもしれない。
 
 
原発事故の解決の見通しが立っていない現状を抱えたまま、東京で暮らすということは、家族に対して途轍もなく重い責任を背負うことになる、とその時は考えていた。
いざという時に、仕事と両立できるかが危ぶまれた。
それでも、一緒にいようという気持ちになった。
この一体感こそが、家族なのだろう。
 
僕らは、まだ恵まれているのかもしれない。
被災地で引き裂かれてしまった多くの家族のことを思うと、胸が張り裂けそうになる。
 
羽田空港から自宅への道すがら、灯が乏しく暗い東京の有り様を見て、妻はかなり衝撃を受けた様子だった。
帰り着く頃には、疲れも手伝って、すっかり無口になっていた。
しかし、自宅で荷を解いたあと、妻は一言つぶやいた。
 
「帰ってきて良かった」
「ありがとう、心強いよ」
 
福島県いわき市から来ていた透析患者は、施設が復旧して透析再開の目途がたち、数週間後に地元へ帰っていった。
 
「短い間でしたが、本当にお世話になって……ありがとうございました」
 
と、口々に挨拶する患者の笑顔に、僕は、一瞬言葉につまった。
患者が故郷に帰れるのは、本当に喜ばしいと思う。
でも、人も物も想像を絶する打撃を受けている。
そして、収束の見通しが立たない原発事故。
生活も仕事も、いったい、どのような再スタートが可能だと言うのであろうか。
再建の道はあまりに険しく、遠い。
戻っていく方々の、これからの苦労を思うと、どんな言葉がふさわしいのか分からなかったのだ。

「お帰りになってからも、どうかお身体をお大事に。僕たちは、いつも皆さんを応援しています。この思いを、ぜひ、地元の皆さんにもお伝え下さい。何かの時は、必ず力になりますから、気軽に頼って来て下さい」
 
日本は1つですよ、と伝えたかった。 
 
1人の看護師は、仲良くなった女性患者と抱き合って別れを惜しんでいた。 
僕も、不覚にも目頭が熱くなった。 
震災が縁となった、束の間のめぐりあいだった。
この方々が、僕たちの思いと祈りを被災地への手土産として、笑顔で地元に帰ること。
被災地に、再び人々が集うこと。
それこそが、たとえ、どんなに困難で茨のような道のりであろうとも、必ず踏み出さなくてはならない、復興の第1歩なのだと信じる。
被災者の方々から希望と力をいただいたのは、こちらの方だった。
 
震災で身寄りを失った女性の透析患者の手術は成功し、その後も病魔と立派に闘い抜いて、その年の大晦日に亡くなった。
今頃は、全ての苦しみから解き放たれて、震災で亡くなった御家族と笑顔で団欒しているのかもしれない。
 
 
震災から1年後の追悼行事では、被災者の方々の言葉に胸が締めつけられた。 
 
「天災とは言うものの、この世には神も仏も存在しないものだと、今もあの時を思い出すと涙が溢れてしまいます」
 
と岩手県の遺族代表の方。 
 
「見渡す限りの惨状に、地獄はここだと思いました」
 
と宮城県遺族代表の方。 
 
「現実とは思えない、何と表現したらいいのかわからない光景に、私は、ただ、茫然と立っているだけでした」
 
と福島県遺族代表の方。 
 
被害は甚大で、亡くなられた方々の生命は、残念ながら戻って来ない。
そして、当時は想像もできなかったことだが、7年が経過しても、福島第一原発の事故は、未だ収束の目処すらたっていない。
毎日新聞の平成30年3月9日付の記事に、福島第一原発の最新のレポートが掲載されている。
復旧作業が進む1~4号機の原子炉建屋の中でも、 鉄骨が剥き出しになった1号機上部では瓦礫を撤去する作業がまだ続いており、 3号機は使用済み核燃料の取り出しに向けたドーム屋根設置が完了したばかりであるという。 
東電の担当者は、 
 
「事故直後に毎時2000mSvだった建屋上部は、瓦礫撤去や遮蔽で100~900mSvに下がった」 
 
と説明する。 
また、建屋周囲の井戸「サブドレン」や凍土遮水壁などの効果で、汚染水発生量が減少傾向にあることを示し、 
 
「御心配、御迷惑を掛けた汚染水対策はある程度進んだ」 
 
と話す一方で、 
 
「廃炉の核となる溶融燃料取り出しは、完了まで30~40年かかる」 
 
とも語っている。 
記者や見学者から見れば、最新の技術を用いて作業が進んでいる面もあるが、津波の痕跡が未だに残り、まだまだこれから、という部分も少なくないとの印象を抱いたようである。 
 
福島第一原発の見学を終えた一行は、帰路に、帰還困難区域の国道6号線を通り、バリケードで封鎖され、壊れたままの住宅や商業施設が残る街を目の当たりにする。 
 
『廃炉作業は現在進行形だった。でも、町の風景は時間が止まっているように見えた』 
 
これが、震災から7年が経過した被災地の真の姿である。
 
 
同年3月10日付時事通信の記事を読むと、震災の復興はまだまだ途上であるとの思いが更に強くなる。 

『復興庁によると、避難者は1年前に比べ約5万人減少し、7万3349人(2月13日現在)となった。 
東京電力福島第1原発事故の影響が続く福島県では、なお約3万4000人が県外での避難生活を余儀なくされている。 
原発事故に伴う避難指示の解除は進んだが、住民の帰還の動きは鈍い。 
 
警察庁によると、死者は3月9日現在、12都道県の1万5895人、行方不明者は2539人。 
震災による負傷の悪化などで死亡した「震災関連死」を合わせると2万2000人超となる。 
復興庁によると、仮設住宅の入居戸数はピーク時の約12万4000戸から約1万9000戸まで減少。 
被災者向け災害公営住宅は1月末現在、岩手、宮城、福島の3県で計画の9割を超える約2万7800戸が完成した。 
各県によると、プレハブの応急仮設住宅に住む被災者は、計約1万3500人に上る。 
 
津波被害の大きかった沿岸部では、防潮堤の建設やかさ上げ工事が今も続いている。 
一方、新しい商業施設も各地で開業し、復興は進んでいる。 
原発事故に伴う福島県内の避難指示は、双葉、大熊両町、放射線量の高い帰還困難区域を除き、全て解除された。 
ただ、昨年春解除の飯舘村、浪江町、富岡町、川俣町(山木屋地区)の場合、住民の帰還率は3~31%にとどまる。 
避難先で新たに生活拠点ができた人が多く、故郷の放射線に対する不安も根強い。 
復興庁などによる住民意向調査では、帰還を判断する条件として、医療機関や商業施設など生活環境を含むインフラ整備の状況を挙げる意見が多かった』 
 
 
これまでの災害と東日本大震災が大きく異なるのは、原発事故が起きたことで、被災した町や村を立て直すべき人々が、7年経っても地元に戻って生活を組み立てることが出来ていない、という一事に尽きる。
 
一例として、福島第一原発から30km圏内にある13病院のうち、6病院は未だに休診状態を強いられている。
「東電原発事故被災病院協議会」代表である白河厚生総合病院長前原和平先生によれば、予定されている賠償打ち切りによって、13病院全てが経営破綻の危機に陥るという。
避難生活が長期化したことで失われた地域コミュニティを再興するのは、並大抵の方策では不可能であろう。
 
まして、原発の収束の見通しは立たず、汚染水を貯めるタンクは果てしなく増え続け、除染で産出した汚染土は周辺市町村に積み上げられたまま、一部は搬出が始まったものの、まだまだ大部分が保存先すら決まっていない状況なのである。
そこに戻って街を再興しよう、という人間が現れる方が不思議である。
 


年を追うにつれて、ずたずたに分断された常磐線が少しずつ復旧し、常磐自動車道が全線開通したのに合わせるように、僕は、折りを見て原発事故に揺れる街を訪ねた。


震災の2年後の平成25年に、仙台と相馬を結ぶ高速バスと仙台-原ノ町を結ぶ高速バス、そして相馬-原ノ町間だけ部分開通していた常磐線の電車に乗った。
同じ年に、常磐線不通区間の南端となっている広野駅を訪れた。
平成27年には、福島と南相馬を結ぶ特急バスに乗り、相馬・南相馬と東京を直通した新しい高速バスに乗り、その翌年に、常磐線不通区間の竜田駅と原ノ町駅、相馬駅と 駅を結ぶ鉄道代行バスの車窓から、福島第一原発事故による避難指定地域を目の当たりにした。
令和5年には、東京から富岡までの運行を再開した常磐高速バス「いわき」号と、東京から仙台までの常磐線全線を走り通す特急「ひたち」に乗った。

その時のブログを改めて読み直すと、最初のうちは、胸が張り裂けそうな災害の爪痕の中にも、何とか希望を見出そうという気持ちが汲み取れるのだが、後半になると、生半可な希望など簡単に打ちのめされてしまうかのような、失われた国土の荒れ果てた様相に、気持ちが萎えてしまっていることが分かる。
原発事故について考える限り、取り返しがつかないことになってしまったと思う。

 
僕たちの国に突きつけられた未曾有の試練は、未だ続いている。
どれほどの歳月が流れようとも、3月11日を迎えるたびに、まずは、そのことを再認識しなければならないと思う。
 
震災の直後は、苦しく不安な日々が待ち受けているのは間違いないけれど、ともに、この国で出来る限り踏ん張って、自らの仕事や義務を果たすことで社会を支え続けよう、と心を新たにしたことが思い出される。
そうすれば、日本は、被災地を救援する力を維持できるのだから。
震災を振り返ることは切ないけれど、あの時の昂ぶるような気持ちだけは、今でも懐かしい。
 
震災直後は、高速バスや新幹線、航空機に「頑張ろう東北!」「つながろう日本!」などと書かれたステッカーが貼られていた。
中でも、街の中を走る公共交通機関として、バスのステッカーのアピール度は圧倒的だった気がする。
東北の人々の復興に対する決意と、日本人全てが東北を応援しているぞ、という意気込みが表れているように感じられた。
ところが、いつしか、街を走るバスたちの車体から、それらのステッカーは消えていった。
それは、震災の記憶の風化ではない、と信じたい。
まだまだ風化などさせてはいけない情勢が続いているのだ。
 
僕たちみんなが、あの時の初心に戻って、被災地の人々と力を合わせて一緒に苦難を乗り越えていこう、という姿勢を持ち続けていくからこそ、国難を乗り切るための日本の底力が発揮されると思う。

 
ここに1曲の歌がある。
 
「題名のない応援歌」──
 
作詞・作曲・演奏の「アウロボーラー」バンドリーダー川崎さんと、ヴォーカル佐々木さんは、釜石の出身で、高校時代からの友人である。 
被災地の思いを歌で伝えたいと、 川崎さんの経営するBARで毎月ライブを開催し、 その歌を聴いた1人が、もっと多くの人にも聴いて欲しいとの願いをこめて、CD化した。
弾き語りが始まると、被災者を含む観客が皆、涙を流して聞き入るという。
歌い合い励まし合いながら、東北の方々が今も復興に向けて頑張っている姿を想像すると、胸がつまる。
 
生まれた街の 見慣れた街なみは
今はもう 記憶の奥の 思い出写真
無邪気に夏の日 波とたわむれた
白い砂浜 朝日の松原 瞼に浮かぶ
 
失くしたものは かけがえもなく大きいけれど 
思い出は 今もなお この胸に強く生きる
 
失うことで 何を得るのだろう
越えられぬ苦難など無いと 人はいうけれど 
消えない悲しみ 逢えない 痛み
何を支えに 何を目指すの
明日灯りは ともるの
 
失くしたものは かけがえもなく大きいけれど 
あなたを思う魂は今も 共に生きる
やるせぬ思いで 眠れぬ夜も
朝の日差しが 温もり届け あなたを包むから 
雨風打ちつけ 心濡らしても
雲の切れ間が 空と大地に虹を描くから
 
なくしたものは かけがえもなく大きいけれど 
あなたに寄り添う 魂は今も 共に生きる
 
どうか少しずつ 少しずつ
あなたに力よ宿れ
やがていつの日か いつの日か
あなたに幸せ来たれ

 
こうして励まし合うことができる限り、僕らは決して1人ぼっちではない。 
日本は1つだ。
みんなで手を取り合って、一緒に、新しい未来を切り開くべく頑張っていきたいと思う。
困難に満ちているけれども、僕らの国が、復興を目指して、雄々しく明日への道を歩み出していることは間違いない。
何年経とうが、僕たち1人1人が被災地を応援する心を忘れなければ、東北は、そして日本は、原発事故や尊い犠牲を乗り越えて、いつか必ず復興するに違いない。
 
僕は信じ続けている。
僕たち日本人の優しさと底力を──
 
東日本大震災で始まった僕らの国の物語は、まだ始まったばかりなのである。
 


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