【主な乗り物:夜行高速バス「ペガサス」号、高速バス「ごかせ」号、特急バス「あそ」号、特急「つばめ」、高速バス「トロピカル」号大分-鹿児島線夜行便、高速バス「サンライト」号、高速バス「九州」号、高速バス「させぼ」号、特急「かもめ」、特急「みどり」、夜行高速バス「はりまや」号、高速バス「龍馬エクスプレス」号、中国JRバス両備線、「瀬戸大橋特急バス」倉敷-高松線、高速バス「黒潮エクスプレス」号、特急「南風」、夜行高速バス「トウキョウベイライン」号】
岡山を前夜22時に出発した夜行高速バス「ペガサス」号は、定刻より少し早い午前7時前に、福岡の天神高速バスターミナルに到着した。
九州の高速バスを何本もリレーのように乗り継いだ旅から1年が経過した、平成5年の師走の週末のことである。
前回は小倉から福岡、大分、熊本と九州の北半分を回ってから、宮崎、鹿児島まで足を伸ばした。
各県庁所在地を結ぶ基幹路線ばかりに乗車した入門編のような旅だったが、まだまだ九州には面白そうな高速バス路線が多く、この間に新路線も開業しており、再訪の機会を虎視眈々と伺いながら、1年が経過してしまったのである。
久しぶりに福岡の地を踏んだ時に感じたのは、懐かしさでも旅の高揚感でもなく、夜行明けの気怠い疲労感と、過ぎ去った歳月に対する虚しさだった。
同じ場所を、同じような季節に旅するものではないと思う。
木枯らしが舞う天神の街並みは殆んど変わりがないにも関わらず、こちらは確実に歳を取っているわけである。
そのような鬱々たる気分を振り払うためには、早々とバスに乗り込むに限る。
旅の露払いは、午前8時03分発の延岡行き「ごかせ」号である。
当時の福岡発着の長距離高速バスは、到着便も出発便も、博多駅交通センター、天神高速バスターミナルの順で停車するようになっていた。
「ペガサス」号の終点は天神であるが、そこで降車した僕はわざわざ、「ペガサス」号で立ち寄ったばかりの博多まで地下鉄で移動したのである。
他人が見たら何をしておるのかと首を捻ることであろうが、始発地から終点まで乗り通すことに拘るのが、マニアのマニアたる所以である。
鉄道ファンの中には、乗車前に列車の編成を先頭から末尾まで眺めて回らないと気が済まない方々がおられるという。
そのようなことが出来るのは始発駅しかない。
列車と違って、バスでそのようなことはしないけれども、けじめのような心境と言えるだろう。
博多駅交通センターを発車した「ごかせ」号は、車の波を縫うように那珂川を渡り、天神バスターミナルに滑り込む。
同じ乗り場に来ても、到着便と出発便では気分が全く異なる。
建て替えられる前の天神のバス乗り場は薄暗く、排気ガスで煤けた天井が低くて、背の高いスーパーハイデッカー車両で進入すると、思わず首をすくめたくなる。
この便の担当は西鉄バスで、左1列・右2列の横3列シートだから、横3列独立シートより通路1本分、1座席あたりの専有面積が広くなっていて、乗り心地は申し分ない。
ただし、シートは若干くたびれていて、座面がふにゃふにゃしているようである。
車両は、数年前に初めて乗車した福岡と鹿児島を結ぶ「桜島」号と全く同じで、白地に桃色のラインが入った塗装もそっくりだったから懐かしかったが、そのお古かもしれない。
この塗装は、西鉄バスの中距離昼行高速バスに共通なのだが、延岡で「SAKURAJIMA」のロゴをつけた「ごかせ」号を見かけたことがある。
それだけ、九州島内の高速バスの歴史が積み重ねられてきたということであろうし、主要幹線からはずれたローカル路線らしい雰囲気を醸し出していて、逆に好ましい。
延岡という街を初めて知ったのは、子供の頃に読んだ夏目漱石の「坊っちゃん」だったと思う。
主人公の同僚のうらなり先生が、恋敵の赤シャツ教頭の企みで松山の中学から飛ばされてしまうのが、日向の延岡だった。
『名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。
猿と人とが半々に住んでるような気がする。
いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数寄だ』
などと、文中で坊っちゃんが言う延岡は、子供心にもおいおい、と苦笑いしたくなるほど散々な言われようである。
宮崎県北部の中枢都市であり、近年はたくさんのマラソン選手を輩出した旭化成の大きな工場があることでも知られているが、幼い心に刻みつけられたイメージとは恐ろしいもので、延岡と言えば、どうしても鄙びた印象が拭いきれない。
そこに向かうバスが古びていても、なるほど、と納得してしまう。
共同運行する宮崎交通のバスには、五ヶ瀬川をイメージした専用塗装が施されているから、そちらに乗りたかったな、とも思ったのだが。
ゆったりした背もたれに身を任せながら、飛行機の離陸のように天神北ランプを駆け上がったバスの車窓から博多湾の眺望を目にすれば、先程の鬱々たる気分などは消し飛んでしまう。
これから5時間のバスの旅を、大いに愉快に過ごそうと思う。
大城山の裾に位置する太宰府ICで九州自動車道に乗り、背振の峰々を右手に望みながら先細りになっていく福岡平野を抜けると、筑後川を抱く筑後平野に飛び出していく。
思わず、勇壮な旋律と歌詞が心に浮かぶ。
フィナーレを
こんなにはっきり予想して
川は大きくなる
フィナーレを
華やかに飾りながら
川は大きくなる
水底のかわいい魚たち
岸辺のおどけた虫たち
中州の可憐な小鳥たち
さよなら さよなら
河は歌う
さよなら
紅の櫨の葉
楠の木陰
白い工場の群よ
さよなら さよなら
河は歌う
さよなら
筑後平野の百万の生活の幸を祈りながら
川は下る 有明の海へ
筑後川 筑後川
そのフィナーレ
ああ──
丸山豊作詞・團伊玖磨作曲の混声合唱組曲「筑後川」の終曲「河口」は、僕らの世代ならば歌った方も少なくないのではないだろうか。
スケールの大きな歌詞と勢いのある曲調で、歌っていても気分が壮大になる気持ちのいい合唱曲である。
高校2年の時に級長をしていた僕は、クラス対抗の合唱大会の曲目に「河口」を選んだ。
音楽に秀でた同級生がいて、今でもその方面の仕事で名を馳せているのであるが、そいつが指揮者を引き受けて練習をぐいぐい引っ張ってくれたから、安心して任せられた。
その結果、僕らのクラスは優勝することが出来たのだから、「河口」は青春の1コマとして忘れられない曲になった。
歌詞そのままの風景が、快調にハイウェイを下っていく「ごかせ」号の車窓を飛ぶように過ぎ去っていく。
平行する鹿児島本線は大牟田、玉名と有明海に沿った平地を西側へ膨らむように大回りするが、久留米市内で筑後川を渡った九州道は、九州山地が裾を伸ばす丘陵地帯に踏み込んで真っ直ぐに南下し、熊本平野へ飛び出していく。
九州を横断する高速道路は、現時点で大分自動車道だけであるが、鳥栖JCTから日田・湯布院を経由して別府に出てしまうから、あまりに北に寄り過ぎて、延岡へ向かう「ごかせ」号が使う訳にはいかない。
平成28年の熊本地震の際には、「ごかせ」号も大分自動車道から、東岸を縦走する東九州自動車道を臨時に迂回したことがあったと聞いているが、この旅の時点では東九州道は出来ていなかった。
前回の旅で、大分と熊本を結ぶ「やまびこ」号が経由した国道57号線も、北寄りに過ぎる。
国道57号線から分岐して南阿蘇、高森町を経て高千穂に至る国道325号線あたりを「ごかせ」号は使うのではないかと思っていた。
国道57号線は、熊本ICが直結している。
だから、「ごかせ」号が脇目も振らずに熊本ICを通過した時には、少しばかり不安になった。
どこまで南下するつもりなのか、と。
同じ塗装だからという訳ではないけれど、鹿児島行き「桜島」号に乗ってしまったのか、それとも運転手が間違えたのか。
だからと言って、コクピットまで行って運転手に聞くわけにもいかない。
「ええと、このバス、延岡行きですよね?」
「そうですが、何か?」
「いえ、あの、熊本インターを過ぎちゃったものですから」
「…………」
何を言っておるのか、とそっぽを向かれるか、巨大なバスを高速で操ることに専念しなければならない運転手が、この客は大丈夫か、などと余計な詮索で気が散って言葉に詰まってしまうかもしれず、どう考えてもこちらが間抜けである。
慌てている僕の心中など素知らぬ顔で、「ごかせ」号は緑川PAに滑り込んで休憩をとった。
ここは熊本市の南端で、五木の子守歌や平家の落人伝説で有名な五家荘にも近い山中を水源とする緑川が、パーキングエリアの北を流れている。
ずいぶん南まで来たものだ、と、何となく心細い思いでバスを降り、行先表示に「延岡」と書かれていることを真っ先に確認して、ようやく安心した。
ホッとして空を見上げれば、抜けるような冬晴れのいい天気である。
1年前はどんよりとした曇り空であることが多かったから、気分まで晴れ晴れとしてくる。パーキングエリアを出た「ごかせ」号は、速度を上げたと思う間もなく、松橋ICで一般道に降りた。
地図を開けば、九州の殆どを占めているのは山岳地帯である。
筑紫山地から九州山地が南北に連なり、筑後平野も、九州のど真ん中という印象があった熊本平野も、西側の隅っこに追いやられている。
松橋は熊本平野の南端に位置する宇城市にあり、緯度としては延岡市とほぼ同じ位置にあるが、八代湾に面した西岸の町だから、延岡までは延々120kmあまり、九州を丸々横断していくことになる。
日向の地は遠い。
「ごかせ」号が走るのは国道218号線で、宇城市から延岡までバスを導いてくれる。
このあたりでは山と海に挟まれて平野も先細りになっていて、「ごかせ」号はエンジン音を轟かせながら九州山地の山越えに挑んでいく。
緑川が開いた山あいの細長い平地が、山裾を縫って右に左に曲がりくねりながら伸びている。
刈り入れが終わった田畑と集落が入れ替わり立ち替わり車窓に現れる。
現在、このあたりは美里町となっているが、僕が旅した頃は中央町と砥用町に別れていた。
いよいよ九州山地だぞ、と肩に力が入るのだが、ヒトデの触手のように山地に食い込んだ熊本平野が再び現れ、肩すかしを食ったような気持ちにさせられるあたりが旧砥用町である。
砥用は、古くからの鉄道ファンにとっては懐かしい地名で、南熊本からこの町まで、昭和39年まで熊延鉄道が敷かれていた。
熊本市の近郊鉄道のような総延長28kmの小私鉄であったが、社名は気宇壮大で、熊本と延岡を結ぶ構想があったことが伺える。
国鉄も、宇土から浜町(現・山都町)を経て高千穂と延岡を結ぶ高千穂線に接続する延宇線の建設を計画し、国鉄バスが先行して宇土と砥用を結ぶ路線を走らせていたことがあったが、どちらも実現には至らなかった。
昭和9年6月4日付の熊本日日新聞には、「南九州で初めての省営バス走る 宇土-佐俣間に」との記事と写真が取り上げられている。
熊本と延岡を結ぶ鉄道計画としては、豊肥本線の立野から高森に向けて昭和3年に開業した国鉄高森線(現在の南阿蘇鉄道高森線)と、昭和10年に延岡と日之影の間が日之影線として部分開通し、昭和47年に高千穂まで延伸された国鉄高千穂線(後の高千穂鉄道)が有名である。
高千穂線は高森に向けて延長工事が進められたが、昭和52年に発生した高森トンネルの異常出水事故で中断、昭和55年に国鉄再建の絡みで工事中止が決定した。
平成元年に第3セクターとなった高千穂鉄道も、平成17年の台風で受けた甚大な被害を復旧できないまま、廃線となってしまった。
熊本と延岡を結ぶ鉄道の構想が持ち上がったのは日清戦争の直後であると言う。
宮崎から日向灘に沿って北へ建設されてきた鉄道が延岡まで達したのは大正11年、小倉から伸びてきた日豊本線と繋がったのは大正12年のことである。
もっと早く熊本からの鉄道が完成していれば、「坊っちゃん」の主人公も、あれほど延岡のことを糞味噌に言わなかったかもしれないと思う。
「ごかせ」号が熊本ICあたりで九州道を降り、国道57号線から国道325号線を経由するのではないかと早とちりしたのは、高森線と高千穂線に沿った経路だからである。
まさか、幻の熊延鉄道の経路をたどるとは夢にも思わなかった。
熊延鉄道にしろ、高森線と高千穂鉄道にせよ、いずれも未成線で終わったところに九州山地の峻険さが如実に表れている。
これからそこを越えていくのだと思えば、粛然と心が引き締まる。
「ごかせ」号の山越えは、砥用を過ぎてからが本番なのだ。
道の両側にそびえる山々の背丈が高くなって、トンネルに入った訳でもないのに、車内が暗く翳る。
真冬であるにもかかわらず、木々の葉が落ちない常緑樹が多い沿線風景が、南国であることを思い出させてくれるが、鬱蒼とした深山の雰囲気は心を寒々とさせる。
時折、間近に迫る山肌が途切れても、その向こうにも、大洋の波のうねりのように押し寄せて来る山並みが、幾重にも連なっている。
人が住んでいるのかいないのか、沿道の傾きかけた古い家屋が埃をかぶっている。
この先に、本当に高速バスの終点となるような大きな街があるのだろうか。
今度こそ、運転手が道を間違えたのではないだろうか、という心細さが胸中を横切るようになった頃、不意に視界が開けて、バスは、高原の趣が漂う広大な田園地帯に飛び出した。
矢部町(現・山都町)である。いにしえの昔から熊本と延岡を行き来する旅人が歩いた日向往還は、松橋の北にある御船から山を越えて矢部に至り、高千穂へ向かっていたという。
今では国道445号線が同じルートに通じているけれど、地図を見ただけで、この道路を「ごかせ」号が使うことはないだろう、と予想できるほど、羊腸たる山中の細道である。
幾重にも折り重なる山々を苦しみ抜いて乗り越えてきた旅人たちは、矢部の広々とした高原を目にして、どれだけ心が癒やされたことだろうか。
矢部町の南で緑川の本流は尽きてしまうが、阿蘇山系や九州山地から流れ出る無数の小さな支流が、山奥にこのように開けた平地を穿ったのだと思うと、奇跡のような地形に感じる。
付近には飲みやすい軟水が湧く湧水が多く、また、矢部四十八滝と呼ばれる数多くの滝が散在している。
緑川水系の1つである五老ヶ滝川の谷に、有名な通潤橋が架けられている。
矢部町の南に位置する白糸台地は周囲を深い渓谷に囲まれ、水利に恵まれない畑作中心の貧しい地域であった。
谷を越えて白糸台地へ通水するための上井手水路を通すため、長さ78mにも及ぶ石造のアーチ橋が江戸時代に建設され、今でも橋の中央に設けられた放水口からの迫力ある放水が知られている。
この放水の目的は、水路の内部にたまった泥や砂を除くためのものらしいが、この放水風景を見に来る観光客も多いと言う。
江戸時代に造られた石橋としてはアーチの直径ならびに高さが国内最大であり、高台へ水を送るためのサイホンの原理の応用と併せて、肥後の石工の技術力の高さを証明する歴史的建造物として国の重要文化財に指定されている。
通潤橋と白糸台地一帯の棚田は国の重要文化的景観にも選ばれており、1度は訪れてみたいと思っているのだが、延岡行きの高速バスに乗っている身としては途中下車する訳にはいかない。
川沿いに細長く散在する集落を幾つか通り抜けながら高度を詰めていくうちに、県境を越えて、「ごかせ」号は五ヶ瀬町に足を踏み入れる。
ここから宮崎県である。
五ヶ瀬町の南部は標高1000mを超える山地が連なり、南国のイメージが強い宮崎県でありながら、年平均気温は信州南部と同程度の冷涼な気候であるという。
冬ともなれば雪が積もることも多く、町内にある向坂山の尾根には日本最南端のスキー場である五ヶ瀬ハイランドスキー場があるというから、南国宮崎にスキー場が、と驚いてしまう。
「ごかせ」号も、雪で難航することがあるのだろうか。
日向往還は、そのまま高千穂町に続いていく。
古事記と日本書紀に描かれた、邇邇藝命が天照大神の命を受けて高天原から天下ったという天孫降臨の舞台である。
もちろん神話であるが、記紀を編纂した古代の人々は、どうして高千穂を天皇家発祥の地として選んだのだろうか。
子供の頃から古事記を繰り返し読み込んで、いつかは訪れてみたいと念じていた地であるから、僕は居住まいを正した。

起伏の激しい山間の町である。
鄙びているが、周囲を高い峰々にぐるりと囲まれた町並みは、どこか気高い空気が感じられる。
山奥に開けた平地を目にした古代の人々は、天に近い聖地のように思えたのかもしれない。
国道218号線は、聖域に敬意を表するように中心街には入らず、国見ヶ丘の山裾を回り込んで、北の隅を東へ進んでいく。
神都高千穂大橋で深く切り込んだ高千穂峡を渡り、こんもりとした杉林が繁る高千穂神社の境内を右手に見下ろしながら市街地に入った「ごかせ」号は、交差点を右に折れて、宮崎交通高千穂バスセンターに滑り込んだ。
小柄な路線バスが憩う狭い敷地のバスセンターに「ごかせ」号で乗り入れると、小さな港に豪華客船で寄港したような気分である。
ここで5~6人ほどの乗客が降りていく。
開かれた乗降口から、清涼な空気が車内にも漂ってくるような気がした。
商店や銀行が並ぶ昼下がりの町並みはひっそりとして、道路を挟んで向かい合う観光案内所を出入りする人影もほとんど見られない。
バスセンターは高千穂駅と離れて設けられているが、バスは街路を北へ向かい、跨線橋で狭い谷底に敷かれている線路を渡って、駅前通り交差点で国道218号線に戻る。
岩戸川を渡る雲海橋に差しかかった。
長さ199m・高さ115mの橋は、谷を挟んで向かい合う2つの峰の頂きに近い高さに架けられている。
岩戸川も、川岸の田畑や集落も、遥か下方に遠ざかり、彼方に連なる山々と同じくらいの高みに放り出されたような気分にさせられるから、渡るだけで背筋が寒くなる。
名前の通り、雲海を見下ろすようなことがあるのかもしれないと思う。
橋梁というものは横から見ると左右対称になっていることが多いが、この橋は、地盤を考慮して半円形のトラスが延岡側に偏って非対称になっていて、全国的にも珍しい構造の橋である。
雲海橋からは、鉄道橋としては東洋一の高さを誇る高千穂鉄道の高千穂鉄橋を、上流に望むことができる。
全長は352.5m、川面からの高さは105mあり、高森線の第一白川橋梁(高さ64.5m)、大井川鐵道関の沢橋梁(高さ100m)をしのいでトップの座を誇っていた。
この付近は、五ヶ瀬川の支流となる中小の河川によって深々とした渓谷が形づくられ、古来より交通の妨げとなっていたのだが、高千穂線を建設した国鉄は直線的に高千穂を目指し、このような高い鉄橋が出現することになったのだ。
国鉄時代から、乗客へのサービスとして鉄橋の上で列車を一時停止させ、窓から外をのぞかせたり、車掌や案内テープによる橋梁の紹介が行われていたという。
雲海橋は高千穂鉄橋より高さにおいて勝っているが、こちらはトラスが柵代わりになっているけれども、鉄橋には柵など設けられていないから、さぞかし身がすくんだことであろう。
岩戸川の上流には、天照大神が素戔嗚尊の狼藉を悲しんで引き籠もったと伝わる天岩戸がある。
困り果てた八百万の神々の計略で、天宇受賣命が岩戸の前で踊りを披露し、神々が一斉に囃し立てたため、不思議に思った天照大神が何事かと岩戸を開けた時に、天手力雄命が岩戸を投げ飛ばしたのである。
天照大神が、自分がいなくなったと言うのに、なぜそのように楽しそうなのかと問い、天宇受賣命が、
「貴女様より貴い神が表れたので喜んでいるのです」
と答えて天児屋命と太玉命が鏡を差し出し、鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神がもっとよく見ようとする場面といい、天宇受賣命(ちなみに女性の神である)が「胸をさらけ出し、裳の紐を陰部まで押し下げて」踊ったという描写は、我が国初めてのストリップではないかという説があったり、読むだけで笑みがこぼれそうになる愉快な神話である。
投げ飛ばされた岩戸が落下したのが、僕の故郷である長野市の北方にある戸隠山だと子供の頃に聞かされたから、遠く九州の地と故郷の繋がりには、不思議な縁を感じる。
天岩戸は国道から数キロ奥まった場所にあり、「ごかせ」号の車窓から見ることはできない。
せめてゆっくりと岩戸川の上流を眺めたかったが、バスは列車のような徐行サービスはせず、瞬く間に雲海橋を通過してしまう。
五ヶ瀬川の支流である日之影川を渡る青雲橋も、長さ410m・高さ137mの、アーチ橋としては東洋一の規模を誇っている。
日之影町には他にも、高さ143mで、車が通る全ての橋で日本一の高さという天翔大橋や、林道としては日本一の高さ100mの龍天橋など、規模が大きな橋が多い。
この2つの橋が架けられているのは国道218号線ではないので「ごかせ」号で渡ることは出来ないけれど、それだけ五ヶ瀬川流域の地形が険しいことの表れなのか、それとも道路建設の技術が発達したと言うべきであろうか。
高千穂より延岡側の国道218号線は高速バスが走るにふさわしい道路で、昭和46年から順次バイパスの整備が進められ、高千穂と延岡の間の所要時間が80分から60分に、距離は53kmから48kmに短縮された。
旧道は現在県道237号線になっているが、幅員が狭く災害に脆弱で、地元の新聞に「酷道・険道・死道」の見出しで取り上げられたことがあるという。
鉄道は、と言えば、日之影から延岡までの旧日之影線区間は昭和10年に建設され、後に延伸された新線の、地形など関係ないと言わんばかりにトンネルや高い鉄橋で傲然と進む設計ではなく、入り組んだ峡谷に従順に敷設された線路だった。
数年後に、高千穂鉄道日之影温泉駅に併設された温泉でくつろいだことがあるけれど、旧道に沿った山腹の畦道のような、か細い敷地に敷かれた線路を目にして、胸が詰まる思いがしたことを覚えている。
限られた建設費用の使い道は地元住民や政治家が決めることであり、それについて論評するつもりはないけれど、旧態依然とした高千穂線と真新しい国道218号線を比較すれば、高千穂と延岡の間における鉄道の役割は終わりつつあったのだと思う。
北方町に入ると、周囲が少しずつ開けてくる。
このあたりの五ヶ瀬川は波線を描くように蛇行し、国道218号線も右に左に緩やかなカーブが続く。
それまでの山々を削ってきた荒々しさは消え失せ、鮎の釣り場や、塩焼きを売る屋台が現れるが、11月から禁漁期に入っているから釣り人の姿は見えない。
北方が村として発足した明治期には、大字となり得る小単位の集落名が無く、当時の戸長の先祖が延岡藩の天文測量方であったことから、干支を地域区分として採用したという。
現在でもその名残があり、国道218号線にも「干支大橋」や「ひつじトンネル」などが存在する。
いつしか道路沿いに建物が増え、交通量も増えてくるのと反比例して道路が狭く感じるようになれば、「ごかせ」号の旅も終わりが近い。
居並ぶ商店やビルはどれも古びて、ひと昔前にタイムスリップしたような懐かしい街並みである。
狭小な街路を苦労してすり抜けたバスは、定刻13時03分に延岡駅前に併設されたバスターミナルに到着した。
バスを降り、12月とは思えない生暖かい空気を胸一杯に深呼吸しながら、うらなり先生が着任した当時はどのような街だったのだろうと思いを馳せた。
これから、来た道を折り返して熊本に抜けようと思う。
乗るのは15時発の熊本行き特急バス「あそ」号である。
ターミナルに横付けされたのは九州産業交通の古びた車両だが、席を占める乗客数は多く、部活帰りらしい高校生の姿も見受けられて、車内には宮崎弁が飛び交い、よそよそしい空気が漂っていた「ごかせ」号とは大違いである。
「明日も練習あると?」
「えー?雨やっちゃろ?」
「だから練習中止になったっちゃが」
などという会話が聞こえ、思わずバスの窓から空を仰げば、熊本側では真っ青に晴れ渡っていた空が、いつの間にかどんよりとした雲に覆われている。
九州山地を越える道中では、迫り来る山々が空を圧して、天候など気にする余裕がなかった。
往路で通ってきた日之影も、そのような九州山地の奥深さを端的に表している地名であるが、少しばかり南にある日向から椎葉へ向かう国道327号線沿いには「山陰(やまげ)」という地名もある。
旅と酒を愛した歌人若山牧水の生家がある東郷町の日向寄りで、後年、車で訪れた際には、耳川が削った細長い地形にへばりつくように家々が散在し、間近にそそり立つ山塊に遮られて、日中の半分しか日が射さないのだと聞いた。
そのような地形は全国にあるのかもしれないけれど、日之影や山陰などとあからさまに名付けてしまうところに、陽の光が溢れんばかりのイメージが強い日向路の、見てはならない一面を覗いてしまったような気がして、何となく後ろめたい気分にさせられてしまう。
熊本行きの特急バスは、僕が「ごかせ」号でたどって来た道を忠実に遡り、1時間あまりで高千穂町に着いた。
バスセンターで3分の2ほどの乗客が降りてしまい、賑やかだった車内が静まり返って、アイドリングのエンジン音だけが耳につくようになった。
ここで10分ほど休憩し、バスは五ヶ瀬町を抜けて熊本県蘇陽町まで国道218号線を戻ってから、国道265号線に右折して、阿蘇の外輪山の山越えにかかる。
「あそ」号は、高千穂から高森まで直行する国道325号線を抜けるのかと思い込んでいたので、五ヶ瀬町を過ぎて県境を越え、蘇陽町に入った時には、「ごかせ」号と同様の不安感に苛まれた。
「高森経由」と書かれているから、まさか松橋ICまで行ってから九州道で熊本へ向かう訳ではないだろうけど、熊本と延岡を結ぶ経路には驚かされてばかりである。
国道325号線のルートは山岳部をダイレクトに横断するため、徒歩や馬を利用していた古代から通行が容易ではなく、高千穂町から阿蘇の外輪山東南を下る峠道は今でもヘアピンカーブが多い。
阿蘇山南麓の方が交通の便が良かったのは昔からで、「ごかせ」号がたどる五ヶ瀬から矢部までの国道218号線を日向往還と呼んでいたことからも覗える。
高千穂から五ヶ瀬にかけての地域では、県庁所在地である宮崎市から直線距離にして約120km離れており、約80kmの距離にある熊本市の方が近い。
当時、宮崎市へは片道3時間もかかるのに対し、熊本市へは国道が整備されて、所要2時間程度で到達できるため、熊本県との関係が深い。
空港も熊本空港利用が一般化しているだけでなく、熊本市の繁華街や郊外ショッピングモールに買い物に向かう住民が多いのだという。
高千穂町周辺を地盤とする宮崎県北部信用組合が、県境の壁を越えて熊本県信用組合への合併統合を選んだという例もある。
かつては、日南海岸から宮崎市を経て高千穂に向かう国道経由の特急バス「岩戸」号や、宮崎市から高千穂に直通する特急バス「雲海」号などが運行され、新婚旅行などで人気があった観光県を縦横無尽に網羅していたバス路線網の片鱗を伺わせるのだが、いつしか廃止されてしまった。
平成26年4月に、延岡と宮崎を結ぶ東九州自動車道の開通を受けて宮崎と高千穂を直通する高速バスが走り始め、熊本指向の地域性に風穴をあけるかと注目していた。
この路線には横3列独立シートの豪華バスが投入され、3時間を切る所要時間で運行されているにもかかわらず、午前8時30分に南宮崎駅に近い宮交シティバスセンターを発車して宮崎駅を経由し、11時20分に高千穂バスセンター、11時25分に終点高千穂大橋停留所に到着する便と、15時に高千穂大橋、15時05分に高千穂バスセンターを出て、宮崎空港に寄ってから宮交シティバスセンターに17時54分、宮崎駅に18時02分に着く便の1往復しか運転されていない。
全国に、地方と都道府県庁所在地や大都市を1往復だけで結ぶ高速バスは少なくないが、大抵は、地方側を朝に出て夕方以降に戻ってくるダイヤが組まれている。
そのような路線は地元住民の利用が大部分で、僕のようなマニアが利用するためには1泊を余儀なくされるなど四苦八苦することが多いのであるが、高千穂を午前、宮崎を午後に出発する便がないということは、高千穂側の住民の利用が少ないことの表れであろう。
しかも、土日・祝日だけの限定運行であり、高千穂観光の客を当て込んでの路線と推察される。
風穴は開かなかったのである。
バス路線のあり方は、地域性を端的に反映しているから面白い。
蘇陽町まで日向往還を利用した熊本行き特急バスは、国道265号線で阿蘇の外輪山を南北に越えて高森町に抜ける。
御成山の麓で東から来た国道325号線と合流し、外輪山の内側を下っていく。
高千穂と高森を結ぶ鉄道建設を断念する原因となった高森トンネルの入口は、この御成山の西斜面にある。
予定延長6500mの長大トンネルを掘削中、入口から2050m地点において地下水脈を切断してしまったために、毎分36トンもの異常出水が発生したのである。高森町内の湧水が枯れ、井戸水を使用していた約1000戸もの家庭で水道が断水、また113ヘクタールの水田に被害が及んだ。
鉄道公団はトンネルからの湧水をポンプで吸い上げ、町内に配水するよう処置したが、トンネル工事は中止、高千穂と高森の間の工事も進捗率約30%という状態でストップしたのだ。
高森トンネルは高森町に無償譲渡されて親水公園として整備が行われ、一部が「高森湧水トンネル公園」として公開されている。
僕は写真で見たことがあるだけだが、トンネル内の水路がライトアップされている様はなかなか幻想的であるものの、投じられた膨大な資金や工事に携わった多くの人々、何よりも九州横断鉄道に夢を紡いだ地元の人々のことを思うと、複雑な心境になる。
御成山と峰続きの高森峠を九十九折りの急坂で駆け下り、身体が左右に揺さぶられる頃に、山々の間から、広大な平地が垣間見えるようになった。
暮色漂う阿蘇カルデラに、家々の灯が点在している。
心温まる優しい眺めだが、一人旅の途上にある者にとっては、人恋しさに胸が締めつけられそうになる。
望んで旅に出てきたはずであるのに、このような光景を見せつけられると、彼岸の日常が無性に懐かしくなるのだ。
高森町から南阿蘇村に入り、朱色に塗られた阿蘇大橋を渡る頃に、とっぷりと日が暮れた。
阿蘇大橋と大層な名称がつけられていても、「あそ」号に乗った僕が特に意識したわけではない。
ゆるやかな左カーブを曲がり終えると、その先に国道57号線との三差路があることを示す標識がヘッドライトに照らし出され、左が熊本、右が大分と書かれた表示を見ながら、終点が近づいたという嬉しいような寂しいような心持ちになったことを覚えているだけである。
これ以上先には進めませんぞ、と言うように、なだらかな山の稜線が行く手を塞ぎ、両側を覆うフェンスがやけに背が高くて、ただでさえ手狭な幅員が尚更狭く感じられた橋梁が、阿蘇大橋だった。
暗くてよくは見えなかったけれど、このように大仰な柵を設けた橋が渡るのは、深い峡谷であることが多い。
橋長205.96メートル、幅員8メートル、谷底からの高さは76メートルであったという。
平成28年4月16日に起きた熊本地震で、西側の山が長さ700メートル、幅200メートルに渡って崩壊する土砂崩れが発生し、豊肥本線と国道57号線もろとも阿蘇大橋が崩落した。
テレビにかじりついていた僕は、BREAKING NEWSで「阿蘇大橋が崩落した可能性」との一報を目にして、まさかあの時に渡った橋ではないだろうかと、慌てて地図を確かめたものだった。
西側の山とは、「あそ」号からも遠望できた、国道326号線の前方突き当りの山ではないかと思う。
穏やかに見えたあの山が、と、自然の猛威に背筋が凍る思いだった。
二十数年後の悲劇を予想できるはずもなく、「あそ」号は国道57号線を熊本に向けてラストスパートする。
ちょうど1年前の同じ頃合いに、大分からの特急バス「やまびこ」号に乗って、僕はこの道の黄昏の中を走っていた。
闇の中を当てもなく彷徨っているかのような心細い車窓、夜行明けの気怠く蓄積した疲労感、数えるほどの乗客しかいない静まり返った車内──
全く変わりのないバス旅の再現は、あたかも既視感のようにするすると時を巻き戻して、僕を酩酊させる。
用もない土地をバスで走り回って、僕はいったい何をしているのだろう、と自嘲したくなる。
「よだきぃ」とは、面倒くさいという意味の「だるい」を意味する宮崎弁である。
宮崎県の県民気質を表す言葉として有名で、ウソかホントか、「余は大儀だ」が語源であるとも言われている。
威勢がよく一本気とされる九州男児の中にあって、宮崎県の男性は軟弱なキャラクターだと言われている。
いごっそうの熊本にありながら、疲れてよだきぃ気分に陥ってしまった僕は、これ以上旅を続けることが面倒くさくなっていた。
今回の旅はまだ半ばにも達していないと言うのに、これは一大事である。
同じ場所を、同じような季節に旅するものではないと、つくづく思う。
1年前は、乗り継ぎの関係から、僕は熊本バスターミナルで途中下車した。
今回は、19時08分に到着する終点の熊本駅前まで乗り通した。
賑やかな繁華街とは白川を挟んで離れた場所にある熊本駅は、まだ宵の口と言うのに人影が少なく、街灯に淡く照らし出された街並みを見れば、1年前と全く別の街に来てしまったかのようであった。
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