塔和子さんのこと(差別者の僕に捧げる)⑤ | 宇宙の森探索

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みなさま
いかがお過ごしでしょうか?



さて
詩人塔和子さんについて語るシリーズの
今回は第5回目となります

前回に引き続きまして
月の光さまからいただいたコメントを
たどりながら
塔さんのことを紐解いていこうと
思っております

よろしくお願いします
m(_ _)m


まずは
月の光さんのコメントです


↓↓↓

以前
主人がハンセン病について
少し学んだことがありました。

この国は、薬で治せる病を
まるで見せしめのようにして
メディアを通し嘘の情報を国中に伝えた。
それは
戦後の日本人の心に
他人と比較し
自分自身を優位に立たせるという
愚かな教育であったように思われます。

女性が結婚しても
愛する人の子供を産むことが許されない
世界があることを知った時
言葉ではいい表すことの出来ない
悲しみに押しつぶされました。

、、、


以下略

 

月の光さんのコメントから
本日は
この部分を取り上げて考えてみたいと
思います

↓↓

女性が結婚しても
愛する人の子供を産むことが許されない
世界があることを知った時 
言葉ではいい表すことの出来ない
悲しみに押しつぶされました。


キラキラ


愛する人の子供を産むことが許されない
↑↑
これはいったいどういうことなのか?

学生時代に塔和子さんと知り合い
初めてハンセン病やその歴史的な闇について
認識した僕はですね
でもやはり
戦後の平和ボケした若造にしか
すぎなかったんです

患者さんたちが味わってきた
それこそ
筆舌に尽くし難い差別というものを
当時の僕はまだ
実感として受け止めることが出来ないでいた

もちろん塔さんとは詩の話し以外でも
いろんなことを話題にしたんですが
彼女の口から
故郷のこと
ご両親や兄弟のこと
それから
国の政策に対する不満など
本当に
一度たりとも聞いたことがないんです

だからなのか
僕は
塔さんの人生の壮絶な道のりを
軽く考えていた

たとえば彼女の家族のこと
実家が愛媛県だということは知っていても
そこからどういう風に
香川県の大島青松園にやって来たのか?
まだ13歳だったという塔さんが
どんな風に見送られ
どんな言葉でお別れを告げたのか?
いったい
その時の気持ちはどんなものだったのか?
ご両親
ご家族の思いは?

いま
こうして僕自身がそれなりの人生経験を
重ねてきたからこそ

そう

恋愛をし
結婚し
子供が生まれ
子供たちの成長を自分の人生の喜びとして
生きてきた体験をしたからこそ
それを根こそぎ奪われたご両親の絶望が
痛く
鋭く
やっといま
胸に突き刺さるのです


でも
あの頃の僕は
そんなことを想像すら出来なかった
考えない訳ではないけど
心の一番奥にある
暖かくて大切な部分を
何の遠慮もためらいもなく暴力でえぐり取られ
まるで
価値の無いもののようにドブに捨てられる

そんな
あまりに無慈悲な仕打ちが
この世界にあること
あったことを
僕はまだ
分かっていなかった





長崎に戻ってから数年後
高松にいた頃には知らなかった情報を
僕は知ることになりました
インターネットの発達がもたらした
これも恩恵かもしれません




作家 安宅温(あたかはる)さんの労作
『命いとおし』
詩人・塔和子の半生
ー隔離の島から届く魂の詩ー

から
引用させていただきます

長い引用ですが
皆さま
どうか最後まで読んでほしいのです

ここに
塔和子さんの原点があるように
思われるからです




四国は愛媛県の西海沿いの村、
西予市明浜町田之浜に
1929年に三女として生まれる。

病の気配を感じたのは、12歳頃。
顔や手足に赤い斑点ができ、なかなか治らなく
しだいに腕の皮膚の感覚が鈍くなり、
試しにまち針で皮膚をつついてみるが
痛くないので、
不気味でいやな予感がしたという。

父母はちゃんとした医者に見せようと宇和島の
総合病院に連れて行き、診察が終わると医者が、
「ちょっとお父さんに話があるからお嬢さんは待合室で待っていて」と言って席をはずさせようとすると、
「私の病気のことだから、自分の体のことは自分で聞きたい」と言い、
「気丈なお嬢さんだ。では話しましょう。あなたはらい病です。まだ初期やから別に痛くもないし、熱もない。でもこの病気は早いうちに専門の
療養所に行って養生したほうがいい」

帰りの汽車の中で父は
「医者の診断違いだよ」と言ったきり、母も和子も黙ったままだった。
家に帰ると父と母は部屋にこもって長話。
やがて母の嗚咽が聞こえてくる。
「泣くな、一番つらいのは和子や。お前がしっかりせんかったら他の兄弟も気づいてしまう。
我慢せいや」

話を聞いた母方の祖母が、
「診断の間違いかもしれないから、ハンセン病ではないといってくれる医者に出会うまで、全国の大病院に行かせなさい」と言ってくれた。
それから父に連れられ、病院行脚をするがどこへ行っても「らい病に間違いありません。専門の療養所に入って、療養すれば治りますよ」と 
言われた。

もう疑いもなくあの忌み嫌われるらい病なんだ。顔や手足がだんだん崩れて、顔はゆがみ、髪の毛や眉毛も抜け、盲目になり、指も引っ付いてしまうと聞いている、あのらい病なんだ、私はと。

九大病院の帰りの別府航路の船のデッキで
父と二人、船底からわきあがる波しぶきをじっと覗き込んだまま、、、
何時間も黙っていたとき、

「二人でここから飛び込もうか」

父の声に
 
「うん」

とうなづいていたが、

「母さんや他の兄弟がいる。
死ぬわけにはいかん。
つらいだろうが、和子は療養所に入ってくれ。
すまん」

そう言って父は和子に頭を下げた。

「父さんのせいじゃない。
私は一人で療養所に行って病気を治す」

と言って家に戻った。





続きます






胸の泉に

かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
この親しさは湧かなかった
この大らかな依存の安らいは得られなかった
この甘い思いや
さびしい思いも知らなかった
人はかかわることからさまざまな思いを知る
子は親とかかわり
親は子とかかわることによって
恋も友情も
かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は 人の間で思いを削り
思いをふくらませ
生を綴る
ああ何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
私の胸の泉に
枯葉いちまいも
落としてはくれない


塔 和子






沢 知恵 平賀正明

「胸の泉に」
















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