イオリ先生のこと | 宇宙の森探索

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風ノ意匠サスケの変態ブログ



イオリ先生は元左翼の活動家で
知り合ったときには哲学者を名乗っていた

背筋の伸びた品の良い老人で
僕がよく行っていた喫茶店に時々現れては
常連客を相手に
博覧強記ぶりを披露していた

「サスケくん
あなたはシュールレアリスムについて
何か知見がおありかな?」

そんなものある訳がない(笑)

「アンドレ・ブルトンはたしかに大した男ですが
彼にしてもエルンストにしても
ルイ・アラゴンにしても
みんな貴族のような出自なんですなぁ
つまり
生まれながらのエリートなのです」

僕は黙って頷くしかなかった

「シュールレアリスムとは
私が考えるに、

 とどのつまり、、、


先生はここでコーヒーを一口飲んでから
またおもむろに話しをつづけた



とどのつまり、、

飢えですな

残念ながらアンドレ・ブルトンと
彼の仲間には
飢えた経験がない

実に
惜しいことです」


1980年代の喫茶店には
こんな話をする老人が実在していたのだ






イオリ先生のイオリは
たぶん庵(イオリ)から来ているのだろう
でも当時の僕には
そんなことは分からない
僕は
いつもの喫茶店で先生の姿を見つけると
自分から先生の席に座り
たくさんの話を聞かせてもらった

先生はいつもホットコーヒーを飲んでいた
そして
コーヒーに付いてくる2枚のビスケットを
大切な宝物のように
ゆっくりゆっくり
味わっていた

彼は
コーヒーの半分をブラックで
それから残りの半分に
砂糖を
スプーン一杯入れて飲むのが決まりだった
その間に
ビスケットを一口ずつ
小さくかじっては目を閉じ
幸せそうな笑みを浮かべるのだ


それはまるで
陽だまりの中で小さなドングリを齧る
小リスを眺めるのにも似た
のどかで
平和な風景だった


ちょうちょ


先生の話しで
今も印象に残っているものがある

東京の大学に通っていたとき徴兵された
イオリ青年は
そのまま満州へ送られることになった
昭和18年(1943)から本格化した
世にいう学徒出陣である

そして
通信兵として毎日上官から殴られながら
終戦を迎えたという

「サスケくんも、ラーゲリという言葉は
聞いたことがおありでしょう?」

「ラーゲリ⁈
つまり
強制収容所、、ですか?」

「その通り!
強制収容所です
私は満州で終戦を迎え
そのまま多くの仲間と共に
ソ連の捕虜として
シベリア送りとなったのです」


零下30℃にもなる極寒のシベリアで
先生は8年間を生き抜いた

それは
平和な時代を享受していた僕には
想像もつかない地獄の日々だったろう

ドイツ語と若干のロシア語ができた先生は
それだけで政治犯として扱われたという
政治犯には
普通の捕虜や抑留者に比べ
より過酷な肉体労働が強いられた

一日12時間を超える肉体労働と
日に2回のわずかな食事
夜は夜で
意味のない取り調べがイオリ青年を待っていた

過酷な重労働と栄養失調
そして
不衛生極まりない環境からくる感染症の蔓延

60万人とも言われる日本人抑留者の
1割を超える者が
名もない凍土の地で死んでいったのだ








「もう生きていても仕方ない
これほど辛い日々を耐えるより
いっそ死んだ方がましだと
何度思ったかしれません

仲間はたくさん先立ってましたし
それに
私は独身でしたから
日本で私の帰りを待つ者もおりません
両親は私が召集されるのを見届けてから
亡くなっていたので
本当に
私には
このシベリアを生き抜く理由など
無かったのです」



そこまで話すと
先生は喫茶店の外に目をやった
窓の外
初夏の陽を浴びて
桜の葉が気持ち良さそうに揺れていた

古いビルの2階にあったその店からは
見下ろすように
小さな児童公園が見えた
桜の葉の隙間から
見捨てられたように動かない
黄色いブランコも見えていた




シベリアって
いったいどんな所なんですか?

僕は先生に聞いてみた


「シベリアは、、、

先生は右手を僕の目の前に伸ばして
そのまま
ゆっくりと水平に動かしながら

、、おそろしく広いのです」

言った

「おそろしく広く
そして
見渡す限り一面の凍土です

どこまでも続く荒野と
暗くて重たい針葉樹の森

そこで
時々
大きな鹿を見かけました

それはそれは見事なツノを持った鹿です



私には
それが不思議でならなかった
なぜ彼らは
わざわざこんな冷たい土地を選んで
ここに棲むのか?
そもそも
どうやってこんな極寒の地で生きているのか?

私には
不思議でなりませんでした」



「それから

オーロラも見ました

それは
この世のものとも思えない
幻想的な天体ショーでした

しかし
当時の私には
その美しささえ
あの世へのお迎えのようにしか
感じられなかった、、」



「1945年から1946年の1年間は
まさに地獄の日々でした
私たちは
カザフスタンのアルタ・マタという町から
さらに北にある
カラガンダへと移送されたのです

石炭や材木を運ぶ貨車での移動だったのですが

それは、、


そこで先生は一度
口を閉じた
そして
何かを思い出すように
天井をにらみ
一瞬
苦いものを吐き出すような
表情をした


それは、、、

冷凍ニシンを運ぶほどにも
人間の尊厳の失われたものでした」


実際
その移動中にたくさんの仲間が死んでいった



ある時
巨大なモミの木を切り倒し
鉄道用の枕木を作る仕事をしていたとき
先生は誤って
仲間の腕を
斧で切り落としてしまったという




「ロシアの大男が使う斧ですからねえ
大根を切り落とすくらいに、、

先生は僕の目を見ながら続けた

トン!
簡単でした」

腕を失った男は
特に騒ぐでもなく
そのままフラフラと谷の方へ歩いていくと
自ら崖下へ消えていったという

その日から先生は
男の片腕を抱いて眠った

「もし、生きて日本へ帰れたら
せめてこの腕を遺族の方に、、

そう思ったのです」


そして
8年
先生は永い苦難を乗り越えて
日本へ戻ってきた

いよいよ帰国の列車に乗り込むとき
先生は
わずかばかりの荷物と共に
戦友の片腕をしっかり抱きかかえていた


そのとき

車内に怒声が響き渡った

先生に向けてのものだった

「おい、貴様‼️
いい加減
その木の根
捨てろ!邪魔だ!」


その瞬間
先生は幻想から目覚めたのだった



高松市藤岡町にあったその喫茶店は
文化人になりそこなった
挫折者たちの集う😅
生ぬるくも心やさしい癒しの空間だった

いま
その場所には真新しいマンションが建ち
当時の面影は残っていない


龍

ある時
その喫茶店の外に
イオリ先生の姿を見つけたことがあった

白い買い物袋を下げた先生が
西陽の中
トボトボと歩いていた

僕はママにイオリ先生のことを聞いてみた

「ねえママ、
あのイオリ先生ってすごい経歴だよね!
シベリア抑留者の話を直接聞けるなんて
思ってもなかったよ」

少しばかり興奮気味にそう言うと
ママは苦笑いを浮かべて答えた

「そっかあ、、
サスケくんにはシベリア抑留者って話を 
したんやなぁ

アタシにはね
自分は思想的にあの戦争には大反対だったから
赤紙もらった翌日から逃げて
いわゆる徴兵忌避したんやって
ちょっとオツムの弱い人とか
老人に化けてね
日本中を逃げ回ったって

だから変装が得意なんやと(笑)
( ̄▽ ̄;)

まあ
本当に本当のところは
先生しかわからんよねえ」


僕はため息をついて
コップの水を一気に飲み干した

窓の外には
まだイオリ先生の姿があった
白いビニール袋から
青いネギの葉が見えていた

残暑きびしい季節

西陽をいっぱいに浴びて歩く
先生の背中を
僕は
いつまでもずっと眺めていた





今でも時々
イオリ先生のことを思い出すことがある
決まって
凍るように寒い冬の朝だ

そんなとき僕は
白く結露した窓ガラスを開け
まだ陽の昇らない東の空を眺めてみる

そして
大きく息を吐き
目をつむってみる

どこからか
トナカイの足音が聞こえてくるような
気がするのだ




シュールレアリスムとは
とどのつまり、、

飢えですな






先生のシベリアは
果てしなく遠い













サスケでした
٩( ᐛ )و