体に書き込まれていることからわかること

 

 

ここまできて、わかったことは、私たちが知りたいことは、すべて体に書き込まれていいる、ということでした。私たちの体そのものが、持ち運び可能な記憶媒体で、この全宇宙の記憶を集積した母体となる場所から、個別にダウンロードしたもの、が今の私たち、生命の姿、ということになっているようです。

 

当然現在も、記憶の集積は続いており、やがて私たちの記憶も、ある場所に集積されていきます。そして、それがまた次に作られる宇宙の情報になっていくと思われます。ですから、体の反応を、子細に見ていけば、なぜそうなるのか、のおおよそのことは、理解できるようになる。それに、誰でもよく分かるように、肉付けしていけば、ごく当たり前のこととして、共有することができるというわけです。

 

例えば、ご飯を食べれば、血液が胃に集まってくるし、考え事をすれば、脳に血液が集まってくる、というように、体は、必要なところに、必要なものを集めてくる働きを、もともと持っているわけで、その時、どこに集めようかと、体自身がどうもっているかが重要なのです。ところが、食べたものを消化するための体に書き込まれているマニュアルを無視して、食べた直後にお風呂に入り、本来行くはずだった胃腸への血液を、熱を逃がすために、体表で使ってしまえば、胃腸が動けなくなって、下手をすれば嘔吐します。

 

そうなのです。実はこの身体内に書き込まれている行動マニュアルは、自分の意思の力で、どこにでも集中させ、変えてしまうことができるのです。生命には、そんな力が与えられているのです。それもこれも、私たちが、記憶を集める、という役割を与えられた、まるでミツバチのような存在だからです。ただひたすら、様々な経験をして、時には争い、時には協力し合い、時には身を挺して、自らが集め、仲間で共有して保存した記憶を、次世代、次宇宙に引き継ぐこと、だけが存在の意味、だからです。

 

アメリカでの調査で、リタイヤした人の80パーセントが、18ヵ月後にこの世を去る、そうです。経験という記憶の収集活動を、終えた瞬間に、存在の意味も、終了するようなのです。無難に何事もなく、波風立てずに、人生を送りたい、そう思うかもしれません。でもそれは、経験という記憶の収集を、放棄したも同然です。私たちのからだの中に、組み込まれている、終了、のスイッチを入れることになるのです。

 

最終的に記憶を集積する母体で、記憶の多様性こそに意味があるもので、経験に、そもそも良いも悪いもない、そういうことのようなのです。そんなこと言ってるが、それは、自分が辛い目にあっていないからだ、自分がそうなったら、良いも悪いもないなってこと、絶対言えない、確かにそうかもしれません。ただ、それでも、経験という記憶の蓄積、ということは、変えられない真実のように思えるのです。いや、そう体に書き込まれてるのです。

 

私も、30代で一生分の苦しみと、悲しみと、涙を流しました。その時感じた経験の記憶を蓄積する、という私の役割だったのだと、確信しています。同時にその時の経験を語り継ぐことで、記憶の共有をして、次の創造のための財産を作って行きたい、それこそ私の存在の意味、ということになると思います。

 

さて、話をを戻すと、

 

体の反応、つまり物質的な変化を、必要なところに必要なだけ起こすためには、余計なとこに、意識を分散しない、というのが、最も効率のいい、効果的な方法、ということになります。

 

怪我をしている時は、怪我の場所に集中できるように、他の場所に分散している意識を、消去していきます。すると勝手に、超高速で修復されてきます。自分の思いを実行する時は、周りに発生する雑音を、片っ端から消去します。すると、これも勝手に、超高速で事態が変化していきます。

 

治療とは、そういうことだし、修行とは、そういうこと言っているのです。

 

集中するのは、唯一つ、体に書き込まれていることを、読み込む、それだけです。その他は、すべて雑音、生命を動かすための動力源から受けた、波に生じた、ただのノイズに過ぎません。

 

あえて何度も繰り返し、記憶から読み出す必要は、全くないということです。

 

常にクリーニングして消去しておくべきものです。