今日は心の教えの話。
私は、看護師生活は27年目になります。
この長い看護師人生の中で、
どれだけの患者様や、利用者様の最期を看取り、死後の処置に入ったか、
数えられません。
私は、幼少期より、霊感がかなり強く、
「視えたり」「聴こえたり」するタイプでした。
でもね、「ハッキリくっきり視える」のではないんですよ。
「感覚」という、抽象的な表現になってしまうのですが、
でも、「確かにそこにいる」んです。
んー。
なんか、言いたいことが伝わりますかね?
ハッキリくっきり視えるのであれば、
映画「シックスッセンス」の世界になってしまって(懐かしいw)、
通常の感覚では生活できません(キッパリ)
もちろん、世間には「ハッキリくっきり視える」という
タイプの人もいるようですね。
私の場合は、「確かにそこにいるもの」を感じ、
会話する、声を聴く、存在を感じるのです。
急変の現場で、天使と悪魔の戦いを視たこともあります。
でも、あまり人に言うと、変人扱いされてしまうので、
言えないんですけどね。
でも、医療者って、意外と多いんですよ。霊感強い人。
時には、生霊が来ることもあります。
一方的に逆恨みされたり、日頃から難癖つけてくる人がいる場合とか。
自己主張が強い人や、依存が強い人も来てしまいます。
まぁ、生霊や死霊には「言い分」がちゃんとあるんですけどね。
心当たりがない場合や、障りを起こしてくる場合は、
有無言わさず追っ払います。
なので、下手に、知人の葬儀にも参列できません。
お通夜や葬儀に参列すると、亡くなられた御本人が登場されますし、
葬儀場でご挨拶に来られてしまって、簡単に会話することもあります。
また、仕事で看取って、死後の処置に入った患者様や、利用者様も、
挨拶に来られる方もいます。
ちなみに、4年前に母が亡くなった時には、火葬が終わって3時間くらいして、
昇天していく姿を視ました。
なんか、ここまで文章にすると、
私って、どれだけ変な人かと思われそうなんですけど
でも、これが「霊体質の私の生活風景」なんです。
看護師の仕事をしていて、つくづく思うことは、
「人は死んでも終わりではなく、死後の世界も、死後の生命もある」ということです。
死んだあとも命は続いていく。
ちゃんと霊界というものはあり、三途の川を渡ったあと、
あの世で霊として、再び魂修行をする。
地上での人生を振り返り、反省しながら、あの世でも修行を積む。
善良に生きた場合は、天国に還る。
地上で罪を犯したら、地獄に堕ちる。
身分は高くても、素晴らしい勲章をもらった人でも、関係なく、
この世の人生があの世で判定される。
そういう事実が厳然としてあるのだと、看護師人生を通して実感しています。
死後の処置をした日は、ほぼ身体が重くなります。
持病の偏頭痛が悪化します。
耳鳴りが治まらないこともあります。
それでも、看護師を続けているのは、使命感が私を突き動かすから。
書籍「神秘の法」、第一章「死後の生命」には、
このように書いてあります。
「「人生は、この世限り」と考えれば、「自分の人生は先がない」とうことで、
死にたくなることもあると思いますが、
「生き通しの人生である」と知れば、そうはなりません。
この世で苦しんでいた人は、死んだあとは、
その苦しみが、十倍、百倍になります。
逆に、この世で生きるなかで、天国的な楽しみを得ていた人は、
あの世に還ると、十倍、百倍の喜びが湧いてきます。
この世での思いが、あの世では増幅されるのです。
(中略)
「この世に生まれてきたときには、何も持っていなかった。
裸の赤ちゃんで生まれ、現在まで何十年か生きてきた」
ということを考えたら、
そして、「死んだあと、あの世に持って還れるものは心しかないのだ」
という前提から考えたら、
執着を捨て、よく自己反省をして、
残りの人生において、全部は無理かもしれないが、
立て直しのできるところは、立て直してから、あの世に還ろう」と
思わなくてはなりません。」
人間というものは、心の持ち方によって、
天使にも悪魔にもなれる。
また、皮一枚被っただけで、人を騙すこともできる。
思いのコントロール、
崇高な人生観を持ち、人間としての尊厳を重視し、
苦しみの多い、この世での修行の意味を考え、
あの世での「死後の生命」を考えながら、
自分の持ち時間で「与えられた人生を生ききる」ことが大切なのだと、
思っています。
できない理由を探すのではなく、できることから。
そう思って、看護師人生に奮闘します。
長くなりました。
ではまた次回。