もう、お彼岸の時期ですね。

春は、出会いと別れが混在する季節です。

 

 

 

 

 

母の葬儀から、まだ半年しか経ってないのだと、

改めて思い、一人立ち止まり、色々と考えてしまいました。

 

忘れもしない、昨年の9月1日。

再就職前日。

母は、79年の生涯を閉じました。

 

母を看取ったその時に、泣きながら決めたんです。

「これで介護に携わるのは、もう終わりにしよう」と。

 

総合病院に勤務していた私が、母の介護のために、

認知症の介護を学ぶために、介護施設の看護師になって、

7年半が過ぎていました。

 

介護施設に勤めている間、やるせない多くの現実と向き合い、葛藤する日々でした。

老人介護に携わる人々の、健気な献身的姿勢と愛情、真心、

それを一瞬で踏みにじるような現実。

介護福祉業界に潜む闇の部分を、否応なく見せつけられ、

そのたびに涙が出る思いでした。

 

何が一番かって、

「施設で急変しても、積極的に救急搬送できないことがある」こと。

 

介護施設には、必ず施設長がいます。

介護老人保健施設では、必ず医師が施設長をしています。

家族が搬送希望で、

病院と併設されている介護施設であれば、協力病院として搬送できる。

でも、病院との併設ではなくて、単独の介護施設の場合は、

施設の車で連れて行くか、救急搬送しかないです。

その場合、施設長が積極的に搬送してもOKという方針を出してくれるところであれば、

看護師たちは医師の指示のもと、迷わず搬送できる。

でも、肝心の方針が「搬送しない、様子見ろ」というものだったら、

看護師が行動することが難しいのです。

 

高齢の利用者様が、突然に体調不良に陥ったり、

急変した時に、最初に施設長(ドクター)に指示を仰いで、

「救急搬送する様に」と指示があって、初めて搬送できるのですが、

私の勤務先の施設長は、積極的に搬送するという方針じゃなかったために、

「できることをしながら様子を見るしかない」ことが、ままありました。

 

目の前の利用者様の命を繋ぐために、医師から指示が欲しい。

救急搬送や、病院受診の指示が欲しいからドクターコールする。

そう思ってドクターコールした時、

「病院にいま連れて行って、何ができるわけじゃないだろう、

できることしながら様子見て。改善がなければ出勤時に報告して」という一言。

 

特に困るのは、家族が「全て施設のドクターにお任せします」と意思表示している時。

直接病状を追っている看護師チームが判断して、

あまりに困った時は日勤のうちに看護師長に相談して、

解決できるようにするのだけれど、

 

今どきの病院て、高齢者の方々の救急搬送を受け入れない方針のところが多く、

夜間に救急搬送するために救急車を呼んでも、

受け入れ先の病院を探すのに1時間もかかることも多かった。

 

だから、施設の医師は、最初から搬送することを諦め、

「ある程度の指示は出すから、できることをして様子見といて」となることが多い。

 

 

 

 

以前に、管理職として勤めていた特別養護老人ホームでは、

非常に悔しい思いをした記憶があります。

 

特別養護老人ホーム、通称「特養」。

特養の看護師は、夜勤がないんですよ。

そのかわり、電話番があるのだけれど、

ある日、日勤の帰りに、市内の体育館で筋トレをしてて、

終わった頃に電話が鳴って、「利用者様が激しく嘔吐されて夕食も食べられなかった」と、

介護士さんの慌てている声でした。

急いで施設に戻ると、

身体があきらかに昼間と違って、ガクガクと震えてて、

顔面蒼白で、苦しそうに悶えてたので、

ドクターコールして救急搬送の指示を貰い、家族にも電話し、

救急車を呼んだのだけれど、

なんとその時は、10箇所くらい、受け入れを断られてしまったのです。

真ん前でどんどん顔面蒼白が強くなって行く利用者様。

うろたえている家族を見て、「まだ病院見つからないですか!」と、

思わず救急隊員に怒鳴った私。

利用者様が明らかにショック状態に陥っているのが分かりました。

結局、最初に断られた病院にゴリ押しして受け入れが決まったのだけど、

その3日後に、利用者様は亡くなられました。

 

この時は、あまりに悔し過ぎて、戦々恐々としました。

 

もう、あんな思いをしたくない。そう思っていたのに。

 

私の母は、夜中に嘔吐して、誤嚥して、

明らかにSPO2値(体内の酸素飽和度、通常は95%以上)が80%切ってて、

酸素5リットル投与されていたのに。

夜勤明けで寝ていた私が、最初の急変の電話から、

6時間以上経って気付いて、

慌てて施設に行き、救急搬送を要請した時には、

すでに片肺が、誤嚥性肺炎で真っ白の状態でした。

 

夜間の嘔吐時に、最初に対応してくれたのは、看護師長でしたが、

やはり施設長(ドクター)から「様子を見るように」としか

言われなかったのだそうです。

この時に、ずっと我慢していた私の心がブツッ!とキレました。

娘として、看護師として、できることは全部やる、

ドクターの言いなりにはならん、と。

 

案の定、病院では、「人工呼吸器をつけるかもしれないので、

覚悟しておいてください」とまで言われて、私がうろたえてしまいました。

 

この一度の誤嚥性肺炎で、母は寝たきりになってしまいました。

この時に、母の死を覚悟したんですよ。

 

そこから丸一年、寝たきりの状態で、母は頑張りました。

本当に。ちょうど丸一年でした。

 

 

 

 

医師が治療を諦めてしまう、高齢者介護を取り巻く現実を、

変えることは、残念ながらできません。

 

だから、母の最期を看取った、その時に、決意したんです。

「これでもう、介護から離れよう」と。

 

御高齢の方々の命を線引きするとか、命の期限を決めるのは、

医療者ではなく、あくまで「本人と家族」です。

 

介護のつらさは、本人と家族しか分からない。

私たち医療者は、それを「支えるだけ」です。

どんな形の家族でも、介護を頑張った後に、

悔いのない人生にして頂きたい。

いろんな家族に、いろんな幸せの形や、人生ドラマがあるように、

ちゃんと死に目に会えて、それぞれのドラマを完成できるように、

支えられる仕事がしたい、それだけなんです。

 

 

 

だから、私は介護から離れることにしました。

看護職として、自分らしい仕事がやりたい。

そう願って、改めて病院での病棟勤務を希望しました。

 

この2月から、7年ぶりの病棟勤務となり、

今は中途採用として育てていただています。

 

私の看護師人生を変えてくれた「在宅12年の母の介護生活」に、

ちゃんと向き合うためにも、

私は私なりに、人助けの道を歩んでいきたい。

そう思って、毎日頑張っている最中です。

 

 

 

 

 

 

頑張らないと、あの世から応援してくれる母に怒られる。

 

 

 

 

たくさんの人の希望となりたい。

そう思って、これからも頑張っていきます。