小悪魔的キャラの加賀まりこを中平康監督が、違った魅力で見せた映画である。
外国からの船員達が多い町。横浜。ここにユカという名の18歳の少女がいた。ユカは母親(北林谷栄)と二人暮らしであった。
決して、娼婦ではないのだが誰とでも寝るのだが、決してくつちづけだけはさせなかった。
それはユカを愛するチンピラ修(中尾彬)、そして、パトロンである船荷会社の社長をしているパパ(加藤武)でも同じことであった。
ユカはパトロンであるパパが大好きである。それは娼婦としてではなく、男を喜ばせることが好きな彼女の性格からである。
しかし、それはユカを愛している修にしてみれば面白いことではなかった。
ある日の日曜日、ユカは修と町を歩いていた。すると、パパが実の娘に人形を買ってあげて喜んでいる姿に出会う。ユカはショックを受けた。あれほど、パパを喜ばしているのに、それ以上の笑顔をしていたからである。
そこでユカは日曜日はパパの家庭の日。月曜日をユカとの日にしてもらい、パパと楽しい日を過ごそうとするのであった。修はその姿を見てあきれるのであった。
そして、ある日の月曜日、ユカはパパに呼ばれた。ユカは母親に化粧をさせて連れて行き家族という雰囲気を盛り上げて、人形を買ってもらおうとするのであった。
ところが、パパはそれを見て驚くのであった。実はユカを呼んだのはパパが仕事の取引仲間に取り入れたい外国船の船長(ウィリアム・バッソン)とユカを寝かせるのためであった。
パパはユカに自分の会社のためにユカに船長と寝てくれと頼む。パパが好きなユカはそれを承諾するのであった。
それを聞いた修は激怒をしユカを罵倒するのであった。
数時間後、修の兄貴分(梅野泰晴)から修が船長に殺されたのを聞く。酔っ払った修は船長を見つけ襲ったからである。
修の死体を見たユカは強い悲しみを抱くのであった。
そして、ユカが船長と寝る日が来た。船長はユカを手荒く抱きつこうとし、口づけをしようとする。口づけはいやがるユカは抵抗するのだが、結局、力負けで口づけもされてしまうのであった。
まるで何もかも失ったように淋しがるユカ。パパはユカが船長を寝てくれたことに大喜びであった。
その時、ユカはパパを埠頭から海に落とすのであった。
この映画は、なぜか90年代末期に再評価を受けた映画である。しかも、女性層にである。
それはやはり中平康監督の映像がとてもおしゃれであるからである。中平監督はいろんな手法を使って、このユカの日常を面白くかつ魅力的に仕上げている。
なぜ、中平監督がテクニックを使ったかといえば、ユカという少女の魅力を引き出すためである。つまり、このユカという少女は誰が見ても何かしらの魅力を感じさせなければならないキャラクターでなければならなかったのである。
娼婦であるからといって、金にがめつい、男女関係がドライというキャラではない。また、幼い行動をとるのだが決して精神年齢が低いというわけでもなく、今でいう空気が読めない女というわけでもない。だからといって、不思議っ子ちゃんというわけではない。
つまり、ユカという少女は子供の心を持ったまま成長した女なのである。精神年齢が引くのと違うのは、ユカは寝ることはちゃんとしているし、また自分の中でやってはいけない線もちゃんと引いている所である。
そんなユカを成立させるために、また魅力を持つ少女にするために中平監督は映像テクニックを使って、彼女の魅力、そして、この物語の世界観を作りあげている。
まずOPが白バックにユカがいろんなポーズでいる写真集のようなものになっている。そして、その姿からはユカがいかに魅力的でひきつけられる物を感じさせられる。そして、OPが終わったらそのまま物語が始める。
つまり、OPで感じたユカの魅力を持ち続けたまま、観客は物語に連れられたということである。
また、何回かコマ落としを使って漫画映画のようなシーンを仕上げている。この手法は笑いのシーンとなっているのだが、そうゆう漫画的になっているのがユカの幼いキャラクターを感じさせ強調までもしているのである。
そして、中平監督は加賀まりこに徹底的に少女演技をさせていた。
加賀まりこ。この時、20歳である。普段では今のように棘のあることを言う女優であるが、この時からそうゆう性格であった人である。
それなのに、顔立ちは純情そうなかわいい顔をしていたので、小悪魔的キャラクターとして扱われていた。
でも、この作品ではそんな小悪魔的臭いを一切消し、外面どうように汚いことはしているが純であるユカを演じ、見ていてユカような女性はいないのに、まるでスクリーンの中では本当にいる説得力を感じさせられてしまうから、素敵なのである。
この時、加賀まりこは日活ではなく松竹専属であった。つまり、日活の専属の女優ではなく、他社の女優をしかも主役で使ったのである。
しかし、この役を日活の女優陣である吉永小百合、松原智恵子、和泉雅子がでるであろうか? 彼女達は確かに外見は少女である。しかし、心の芯は大人であるために、少女っぽさがあるユカを演じることはできなかったかもしれない。
それに、彼女達に娼婦の役を会社がさせることはしないだろう。
でも、加賀にしてみれば、他社で自分の違った魅力を引き出してくれて、成功させてくれて、それが代表作になったぐらいであるから、加賀にとってはプラスになった作品であろう。
そんな少女でいつづけたユカであるが、最後、それの面影がなくなったようなになっていく。
そのラストでのユカはそれまで見てきたユカと同一人物とは思えないほど、ハッとさせられるものがあった。
また、その時を演じている時の加賀の無表情さもインパクトが強かった。それまで、無邪気に演技をしていただけに。
そう、この映画の狙いは少女は必ず大人になるのを描いた作品だったのである。自分でも気付かなかった本当に愛していた人をなくし、そして決めていた禁を大人に汚く踏みにじられた時、少女は大人にならざる終えなくなるのである。
邦画でこれほど少女が大人になったのを驚くような展開で描いた日本映画はなかっただろう。
しかも、大人になった時のユカはいい意味ではない魅力が出てきているのである。
そんな描き方をしている中平監督という人の鬼才さを感じる映画であった。
予告
OP
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外国からの船員達が多い町。横浜。ここにユカという名の18歳の少女がいた。ユカは母親(北林谷栄)と二人暮らしであった。
決して、娼婦ではないのだが誰とでも寝るのだが、決してくつちづけだけはさせなかった。
それはユカを愛するチンピラ修(中尾彬)、そして、パトロンである船荷会社の社長をしているパパ(加藤武)でも同じことであった。
ユカはパトロンであるパパが大好きである。それは娼婦としてではなく、男を喜ばせることが好きな彼女の性格からである。
しかし、それはユカを愛している修にしてみれば面白いことではなかった。
ある日の日曜日、ユカは修と町を歩いていた。すると、パパが実の娘に人形を買ってあげて喜んでいる姿に出会う。ユカはショックを受けた。あれほど、パパを喜ばしているのに、それ以上の笑顔をしていたからである。
そこでユカは日曜日はパパの家庭の日。月曜日をユカとの日にしてもらい、パパと楽しい日を過ごそうとするのであった。修はその姿を見てあきれるのであった。
そして、ある日の月曜日、ユカはパパに呼ばれた。ユカは母親に化粧をさせて連れて行き家族という雰囲気を盛り上げて、人形を買ってもらおうとするのであった。
ところが、パパはそれを見て驚くのであった。実はユカを呼んだのはパパが仕事の取引仲間に取り入れたい外国船の船長(ウィリアム・バッソン)とユカを寝かせるのためであった。
パパはユカに自分の会社のためにユカに船長と寝てくれと頼む。パパが好きなユカはそれを承諾するのであった。
それを聞いた修は激怒をしユカを罵倒するのであった。
数時間後、修の兄貴分(梅野泰晴)から修が船長に殺されたのを聞く。酔っ払った修は船長を見つけ襲ったからである。
修の死体を見たユカは強い悲しみを抱くのであった。
そして、ユカが船長と寝る日が来た。船長はユカを手荒く抱きつこうとし、口づけをしようとする。口づけはいやがるユカは抵抗するのだが、結局、力負けで口づけもされてしまうのであった。
まるで何もかも失ったように淋しがるユカ。パパはユカが船長を寝てくれたことに大喜びであった。
その時、ユカはパパを埠頭から海に落とすのであった。
この映画は、なぜか90年代末期に再評価を受けた映画である。しかも、女性層にである。
それはやはり中平康監督の映像がとてもおしゃれであるからである。中平監督はいろんな手法を使って、このユカの日常を面白くかつ魅力的に仕上げている。
なぜ、中平監督がテクニックを使ったかといえば、ユカという少女の魅力を引き出すためである。つまり、このユカという少女は誰が見ても何かしらの魅力を感じさせなければならないキャラクターでなければならなかったのである。
娼婦であるからといって、金にがめつい、男女関係がドライというキャラではない。また、幼い行動をとるのだが決して精神年齢が低いというわけでもなく、今でいう空気が読めない女というわけでもない。だからといって、不思議っ子ちゃんというわけではない。
つまり、ユカという少女は子供の心を持ったまま成長した女なのである。精神年齢が引くのと違うのは、ユカは寝ることはちゃんとしているし、また自分の中でやってはいけない線もちゃんと引いている所である。
そんなユカを成立させるために、また魅力を持つ少女にするために中平監督は映像テクニックを使って、彼女の魅力、そして、この物語の世界観を作りあげている。
まずOPが白バックにユカがいろんなポーズでいる写真集のようなものになっている。そして、その姿からはユカがいかに魅力的でひきつけられる物を感じさせられる。そして、OPが終わったらそのまま物語が始める。
つまり、OPで感じたユカの魅力を持ち続けたまま、観客は物語に連れられたということである。
また、何回かコマ落としを使って漫画映画のようなシーンを仕上げている。この手法は笑いのシーンとなっているのだが、そうゆう漫画的になっているのがユカの幼いキャラクターを感じさせ強調までもしているのである。
そして、中平監督は加賀まりこに徹底的に少女演技をさせていた。
加賀まりこ。この時、20歳である。普段では今のように棘のあることを言う女優であるが、この時からそうゆう性格であった人である。
それなのに、顔立ちは純情そうなかわいい顔をしていたので、小悪魔的キャラクターとして扱われていた。
でも、この作品ではそんな小悪魔的臭いを一切消し、外面どうように汚いことはしているが純であるユカを演じ、見ていてユカような女性はいないのに、まるでスクリーンの中では本当にいる説得力を感じさせられてしまうから、素敵なのである。
この時、加賀まりこは日活ではなく松竹専属であった。つまり、日活の専属の女優ではなく、他社の女優をしかも主役で使ったのである。
しかし、この役を日活の女優陣である吉永小百合、松原智恵子、和泉雅子がでるであろうか? 彼女達は確かに外見は少女である。しかし、心の芯は大人であるために、少女っぽさがあるユカを演じることはできなかったかもしれない。
それに、彼女達に娼婦の役を会社がさせることはしないだろう。
でも、加賀にしてみれば、他社で自分の違った魅力を引き出してくれて、成功させてくれて、それが代表作になったぐらいであるから、加賀にとってはプラスになった作品であろう。
そんな少女でいつづけたユカであるが、最後、それの面影がなくなったようなになっていく。
そのラストでのユカはそれまで見てきたユカと同一人物とは思えないほど、ハッとさせられるものがあった。
また、その時を演じている時の加賀の無表情さもインパクトが強かった。それまで、無邪気に演技をしていただけに。
そう、この映画の狙いは少女は必ず大人になるのを描いた作品だったのである。自分でも気付かなかった本当に愛していた人をなくし、そして決めていた禁を大人に汚く踏みにじられた時、少女は大人にならざる終えなくなるのである。
邦画でこれほど少女が大人になったのを驚くような展開で描いた日本映画はなかっただろう。
しかも、大人になった時のユカはいい意味ではない魅力が出てきているのである。
そんな描き方をしている中平監督という人の鬼才さを感じる映画であった。
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