しばらく書いていませんでしたが、内心=精神について、遠藤周作モードです。

 内心(思想・良心、信仰、学問)の自由を、政治権力は保障しなくてはいけません。しかし、逆に政治は君が代の起立斉唱のような “踏絵的な装置”を使って内心をあぶりだし、内心とは反する行為を強制します、というのが前回までの話でした。


 一方、内心は自ら表現し、他者に伝えることによって、その価値が高められます。内心の表現は、例えば信仰や思想によって自己実現をはかるという個人的価値や異なった意見との議論などによって社会(政治)を発展させるために重要です。
したがって、表現の自由はすべての表現活動に対して政治は保障しなければなりません。
芸術も表現の一つです。
 愛知トリエンナーレの中の『表現の不自由展』の問題も、『内心の表現の自由』の問題でした。(この『表現の不自由展』への圧力につながる課題は、いまも新たに様々な場所に広がっています。第25回KAWASAKI しんゆり映画祭2019での『主戦場』上映中止問題など・・・)

 『表現の不自由展』の展示内容は、共通の議論の土台となるように『世界10月号』に写真が掲載され、『表現の不自由展・その後』というサイトにも画像が掲載されています。サイトに

あるいはTBSラジオの荻上チキ セッション22サイトへのラジオクラウド、アーカイブスに再開された展示を見た人の感想や展示作品の案内、津田大介や作者へのインタビューなどが音声で紹介されています。(この放送は秀逸でした。)

画像出典 上記サイト『表現の不自由展・その後』より

個人的な感想を『平和の少女像』(正式名称 『平和の碑』)についてひとこといえば、像の隣にある昔の小学生用の木の椅子に座って見えるのはどんな世界だろうという想像をめぐらしました。

私たちは、像に対面して、座っている少女を見下ろしていて、同じ視座から少女の視線の方向を見ていないことにハッとさせられるのです。これが、表現の価値ではないでしょうか。「落ち着いて隣の椅子に座って見てください。」そう、少女が語っているようでした。

『FUYUYMAのブログ』さん が、『表現の不自由展』について書かれています。「リブログさせてください」とお願いしてから2か月以上経ちましたが、やっとリブログできます、この記事だけでなくその後の関連記事もお読みください。易しい言葉で、書かれています。