内心の自由というのは、内面的精神活動の自由です。内面的精神活動とは、思想・良心、信仰、そして、学問研究のことです。心の中にあるこれらの自由は絶対に侵してはならないものです。

「心の中を侵すことができるわけがない。あたりまえではないか。」と多くの人は思います。

しかし、国家権力は、内心の沈黙の自由を「踏絵」を使って強制的に露見させることがあります。

その例が、「君が代」なのです。

 

恐ろしいことに、今では大多数の人々が、「君が代」の意味など考えずに、起立して、斉唱しています。

素直な子どもたちは、学校で歌詞の意味など教えられていないのに(先生方はあえてウソを教える必要はありません。)、儀式の際には大声で歌います。

 

このままだと、教育勅語でさえ、どこかの園児たちのように、大声で唱えるでしょう。

そこには、涙を流す”私人”がいるかもしれません。

 

あなたは、本当に「君が代」の歌詞の意味を考えたことがあるでしょうか。

思考停止をしているのではありませんか。

「国歌」であるから歌うのですか。

法律制定時に「強制はしない。」と言われていたはずです。

 

山田孝雄(よしお)という国文学者が、「君が代の歴史」という本を1956年に書きました。

(現在は、講談社学芸文庫で読めます。著者は、皇學館大學の学長であったこともある国粋主義者です。)

その内容は、内閣府の「君が代」解釈の種本になったと思われます。(私見)

 

つまり、「君」は、古今集 賀歌巻頭にあった「我が君」の「君」が典拠である。

祝いの歌に多く使われ、朝廷に用いれば「君」は「天皇」をさし、庶民が使えば、「君」は「敬愛する相手」をさす。広く使われていたのは、「敬愛する相手」をさす「君」だった。

だから、別に「君」は天皇のことではなく、「国民」なのだそうだ。

 

完全に明治から戦中まで、「君」=「天皇」として「君が代」が歌われた歴史をスルーしているのです。

 

同じ山田孝雄は戦中の「国語の伝統」という著書で、

日本語が大東亜の共栄圏に滔々として拡がっていくことは、われわれ望ましいことだと思う。・・・・・・

天皇(すめらみこと)の御稜威をば・・・」と書いているそうです。

皇軍に続き、日本語でもアジアを植民地化しようという国語学者の意気込みの表明でしょうか。

 

ところで、「君が代」の曲は① ジョン・ウィリアムス・フェントン薩摩藩軍楽指導から海軍軍楽教師兼宮内省楽部教師)作曲②奥好義宮内省式部職楽部楽師)作曲、エッケルト海軍軍楽隊教師兼東京音楽学校教師、宮内省音楽部指導)編曲③文部省音楽取調掛の3曲がありました。

 

②が現行の曲ですが、編曲者のエッケルトは、なんだか日本が嫌になり(私見)任期途中で帰国してしまったお雇い外国人のようです。①②とも宮内省、海軍が主体でつくられたようです。

 

ところで、トリビアは③なのです。

これは、文部省が主体で伊沢修二とルーサー・W・メーソンが中心になり作成した、いわゆる「小学唱歌 (明治15年~)」の中に入っていた曲です。海軍と宮内省が作った国歌に対して異議のあった文部省も国歌選定作業をしていました。歌詞もつけくわえられていて、2番までありました。

小学校で、儀式用唱歌(つまり現在の「国歌」扱いですね)としてうたわれました。

 

 君が代は千代に八千代にさざれ石の 巌となりてこけのむすまで

 動きなく常盤かきはに限りもあらじ

 

 君の代は千尋の底のさざれ石の 鵜のゐる磯と現るるまで

 限りなき御代の栄をはぎたてまつる

 

この歌詞の楽曲が、イギリスのS・ウェーバーという人の作曲した賛美歌の曲だったのです。(「賛美歌・聖歌ものがたり 大野野百合 創元社)

同書に楽譜があるのですが、現在の「君が代」の曲よりはるかにいい曲に思えます。(これならば歌ってみたかったなあ。私見。)

大野さんによれば、原詩は下記です。

 

川のようにあふれる平安を与えてください、

砂漠のような人生に花がさき、ほほ笑むように。

 

喜ばしい永遠をつかむ信仰を与えてください、

影のような地上のしばしの生のさなかに。

 

 

さああなたはそれでも思考停止を続けますか。

 

ちなみに戦後、

日教組、朝日新聞、毎日新聞がそれぞれ「国民歌」を広く募集して作ったようです。

その話は別の機会に、しましょうか。

 

ラグビーの観戦で「君が代」が流れたらこの記事をぜひ思い出してください。

(ワールドカップバレーでは「君が代」が流れるのでしょうか?)

そして、考えてください。内心の自由について。