高田三郎はクリスチャンで、高野喜久雄は仏教徒であるとどこかに書いてあったと思う。

その二人の融合が、合唱曲「水のいのち」だという。

 

しかし、この詩を読むと高野喜久雄もキリスト教信仰を持っていたのではないかと思う。

「水のいのち」とは「人の魂」でもある。水の一生は、人の一生だ。

 

汚れも何もかも、全てを受け入れる海にたどり着いた水に呼び掛ける。

 

「のぼれ のぼりゆけ そなた 水のこがれ そなた 水のいのちよ」

「のぼれ のぼりゆけ みえない つばさ いちずな つばさ あるかぎり

のぼれ のぼりゆけ 」

 

 海よ

 

ありとある 芥

よごれ 疲れはてた水

受け容れて

すべて 受け容れて

つねに あたらしくよみがえる

海の 不可思議

 

休みない 汀

波の指 白い指 くりかえし

うまず くりかえし

億の砂 億の小石を

数えつづける

海の 不可思議

 

くらげは 海の月

ひとでは 海の星

海蛍 海の馬 空にこがれ

あこや貝は 光を抱いている

 

そして 深く暗い 海の底では

下から上へ

まこと 下から上へ

雪は

白い雪は 降りしきる

 

おお 海よ

たえまない 始まりよ

あふれるに みえて

あふれる ことはなく

終るかに みえて

終ることもなく

億年の むかしも いまも

そなたは

いつも 始まりだ

おお 空へ

空の高みへの 始まりなのだ

 

のぼれ のぼりゆけ

そなた 水のこがれ

そなた 水のいのちよ

 

たとえ 己の重さに

逆いきれず

雲となり

また ふたたび降るとしても

 

のぼれ のぼりゆけ

みえない つばさ

いちずな つばさ あるかぎり

のぼれ のぼりゆけ

おお