東浩紀がRTしていた『LINE は確かに人を殺すかも
を読んで、久しぶりに不登校のことを思い出した。

治るとか、治らないとか、
自分でも正直わからないんだけれど。

多感な時期に”解ってもらえなかった”経験っていうのは、
今になっても【不信感】として残っている。
だから人とのコミュニケーションがうまく取れなくなることがある。

まず前提として『解ってもらえない』と思いこんでいるし、
実際に周りがそうだったことが影響していると思う。
当時は何が嫌で何が原因なのか、
自分でも理解できずに過ごしていた。

ただ単純に「学校」が嫌だったけれど、
具体的な動機がわからなかった。

今となっては時間が経ってしまって、
それこそ原因なんて思い出すこともできない。

だから、本当は周りに理解のあるひとがひとりでもいれば、
当時もう少し悪化せずに、または改善したかもしれなかった。


わたしは、子供のころから母親が教育ママの先駆けだったので、
おけいこごともたくさん習っていたし、
何かにつけて親の「いいなり」だったと思う。
だから、何がしたい、とかそういうものがなかったし、
主張したこともほとんどなかった。


中学では剣道部に入ったけれど、2年もたなかった。
女子が多かったせいもあるけれど、
当時そういうところには精神をすり減らしていた気がする。

そもそもうちの学校はというと、1クラス40人もいて、
さらにその3分の2が女子で構成されていた。
これが1学年5クラス分もある、と今考えると恐ろしい話である。

先のブログのnonちゃんも「集団」が怖い、という話がある。
わたしも当時そうだった気がする。

「集団」というのは少数派を攻撃するのである。
なぜ同じでないといけないのか?
ずっと疑問だったけれど、当時はまだ従うことしかできなかった。
それが不登校の原因だったのかもしれない。

しかし、1日休んでみても夜は明けるのだ。

教室に「わたし」がいなくても関係ない。
教室は勝手に動いてゆく。

けれど自分の机は確かにそこに存在していて。
存在がなくなる以外、自分の机は消せないと思った。
「所属」していることが「存在」なのだと思った。

ズル休みしようとすると母親は泣き叫ぶ勢いで起こそうとした。
わたしはそれがさらに嫌だった。

「どうして、わかってくれないの?」

というのが今でも残っている。

「わかってくれないなら、いい」

もう知らない。
そうやって自分を守ってきた気がする。
だから期待しない。
期待しなければ傷つくことはないのだから。


なのに。
この前久しぶりにやらかしたのだ。

バレンタイン付近に、地元の友達と遊ぶ機会があった。
だから、ラブライバーになったみんなに、
痛チョコを作って、当日あげよう!と意気込んでいたのである。
ビックリするかな?喜んでくれるかな?と、
久しぶりにわくわくして、渡すところまではよかったのだ。

そのあと、事件は起こる。
涼しいところに置いておこう、となったまま、
置き忘れた子がいたのだ。

嘘でも「戻ろう!」って言ってくれればまだ、
「わざわざいいよ」って言えたかもしれない。

「もう雪道もどりたくない」
「申し訳ないけど、しかたないか」

口々にでてきた言葉にわたしは固まる以外に何もできなかった。
ほぼオールで遊んでいた脳みそだったから平気だったけど、
もし正常な思考だったら怒っていたかもしれない。
泣いていたかもしれない。

それくらいに、ショックだった。

普段あまり会う機会がなかったけれど、
モンハンを始めたことでそうやって集まる機会ができたのに。
せっかく、そうしてまた仲良く遊べるようになったのに。
「ああ、やっぱり」ってなってしまった。

昔にも似たようなことはあったから。
グループ内の誰かの誕生日が近いから、
みんなでプレゼントを買いにいこうよ!
そう企画するのはわたしだけで。

これも勝手に期待してたことだし、中学生だったから仕方ないかもしれない。
でも、当時からなんか違うなって思っていたことが、
こうやって繰り返されるのか、ってまたショックを受けたのだった。


相変わらず浮かない日が多いけれど。
いろんなことに気づいてしまうから、その分気苦労が多いのだと思っておきたい。

人間が好きとはまだ言えない。
すべてがいい人ではないし、気分で人は変わる。
ただ、話すことは好きだから、そうやって繰り返し失敗するしかないと思う。

話さなければ一生分かり合えない。
話したって同じ言葉でも解釈は十人十色なのだから、
そのうえでさらに壁があるのである。
コミュニケーションなんてカタカナで軽く使っているけれど、
その実取り巻く環境は最悪である。

でも、それに気づいていない人のほうが多いと思う。
だから、分かり合えない。
そのことに早く気付いてほしい。

若者の会話がどうの、老人の会話がどうのじゃない。
使っているものが、相手に渡すと別のものになってしまう、
その現状を受け止めてほしい。


「傷つく」っていうことばは、使っただけで、
「傷つけられた」と同義である。

わたしはそうやってまた他人のせいにするのか、
傷ついた、と思った瞬間に嫌になった。
そんなつもりは、なかったのだけれど。

言葉は使うだけで、もうひとつの顔をも語ることがある。

それに気づいてしまってから、
さらに不自由になった気がする。
言葉とは、不自由である。
ただ、だからこそ考えられるのだろう。