ゆけっ、風吉 !

ゆけっ、風吉 !

風吉が、大きくなる。

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 風吉と嫁は、子はつくらないと決めたらしい。

 思いや事情があるのだろう。

 選択は自由だ、それはそれで尊重する。

 

 ただ、一度だけ言わせてもらう。

 そうしたら二度と言わない。

 嫁には内緒だ。

 

 ずいぶん前、風吉と散歩をしていた時に孫の話になった。

 私は、風吉と嫁のどちらにも似ている孫の顔を想像しながら言った。

「そうだなあ、風吉の子となればやはり思い入れが違う、ぜひ抱っこしてみたい。ただ、俺は心配性だから絶えず気になってしまう。それにこれからの世の中、生きにくいんじゃないのか。ということで、孫の顔を見たい、そうでもないという気持ちは丁度半々だ」

 

 しかし正直に言う。

 その言葉は、風吉と嫁の気持ちを慮ってのものだった。

  一体、孫の顔など見たくないという親はどれほどいるだろうか。それは多分、林に石を投げて鳥に当たるくらいの確率だと思う。

 

 風吉の遺伝子をこの世に残して欲しかった。

 男の子?  女の子?  抱っこしたかった、キャッチボールもしたかった。

 オッカも二人の決断を残念に思っている。やはり抱っこしたり、洋服を買ってあげたりしたかっただろう。

 お袋からすれば3人の孫がいるのでひ孫は贅沢な話だが、思いはオッカと一緒だろう。

 

 

 

 例えば、今は子が好きではないとしても我が子となれば愛情は沸騰し、一瞬にして宝物となる。すると先々の不安を超え、責任感と育てる喜びに包まれ活力がみなぎってくるのだ。

 振り返れば、世間でよくある「忙しくて相手ができない」「自分のやりたい事が優先」「構わなくとも子は育つ」「育児放棄」等のどのハードルも飛び越え、私は風吉から目を離さず、たくさん話をし、たくさん遊びながら育ててきた。

 

 風吉を一人っ子にしてしまった責任もある。

「こうえん、こうえん」とせがまれれば勿論、いい天気なのに部屋でチマチマと手遊びをしているのを見るや、これは (放ってはおけない) とスイッチが入り、すぐに公園に連れ出し、とにかく体を使って遊ばせた。

 公園をはじめ施設やテーマパーク、旅行など、通算で1000回近くは行ったと思う。

 夜は積み木や絵描き、戦いごっこ、プラレール等、寝てくれるまで相手をした。寝る前に「お話しして」とリクエストがあれば即興で話を作り眠りに落とした。

 当時下手な小説を書いたり投稿等をしていたが、それらは全て後回しにした。もちろん言い訳になるが、時にバブルで超多忙、体はクタクタ、その上に酒をあおれば目の前はグルグル、風吉を寝かしつけた後にまともなものが書けるわけがなく、少しもうだつが上がらなかった。

 

 後で気づいたのだが、風吉に費やした約15年間の社会情勢や流行、歌、映画やドラマ等の情報がごっそり抜け落ちていた。

 

 野球、やり投、円盤投の練習の付き合いや試合観戦にも多くの時間を費やした。

 

 手前味噌になるが子育てに関しては、他のどんな父親よりもやり切ったという自負がある。一片の悔いもない。

 

 

 

 子育てとは、子が歩む新たな人生の伴走者となり、共に感動し、喜び、一方で怒り、腐心する事である。まるで、もう一度人生をやり直しているかのような楽しさもある。

 とはいえ、心を感じ、考えなければならない対象は、自分はもちろん配偶者、子と増えていくわけだから負担は大きくなる。しかし気づけば、自分の懐に厚みができていくのを実感できた。

 

 子育てとは、親が子に魂を入れ、世に輩出するという芸術でもある。

 子のいない人生は、これらを体験し感じる事ができない。

 

 

 

 家を新築するというが、そこに子供部屋はない。そんな話の中で子づくりの話題をさりげなく振った時、孫の顔は見られない事を知った。

 風吉と嫁は子をつくらないと決めた時、果たして親の顔は浮かんだのだろうか。

 浮かんだなら、何を思ったのだろう。

 

 大事なことなのだからついでに聞かれて言うのではなく、はっきりと一言でも、思いを伝えればいいのに。恥ずかしい事ではないのに。

 自分が好きな話では饒舌なのに、相変わらず口が足りない。

 たぶんこの先も……、ふうっ。

 

○○○

 

 昭和の感覚で悪いが、新築するなら地鎮祭は行った方がいい。経験と聞いた話から、そう思う。

 それと引き渡し前に、双方のお墓参りを必ずしてほしい。

 

 

■令和4年5月5日

 

 風吉は今年31歳になる。

 31歳といえば、風吉が生まれた時の私の年齢だ。

 その頃は既にお袋と同居していた。

 

 結婚して間もなく、私は独身のお袋に聞いた。

「この先どうするの?」

 お袋は投げやりに、「どうにかなるだろ」

 ……私は口に出さなかったが、心の中で何度も反復するものがあった。

  (いったい誰がどうにかするんだよ)

 お袋は独立できるだけの収入などさらさらなく、年金をもらうには支払い月数が足りず、再婚相手もいなかった。

  (どうにかする人間は俺しかいないだろ)

  (あんたに面倒を見てもらうしかないだろ)

 言葉にしないやりとりが、いつもそこらじゅうに散らばっていた。

 

  (放ってはおけない)

 結婚2年目位だったろうか、お袋は私達と同居せざるを得ない状況になっていた。

「一緒に住むか?  子供ができたら世話をしてくれそうだし」

 オッカには事前に相談し承諾を得ていたが、心中穏やかではなかっただろう。

 

 それから30年……。

 お袋は主に食事の支度をしてくれてありがたい反面、主張が強く、夫婦間への介入や仲違い、ひがみやっかみ等、様々な面倒も付いて回った。

 風吉にとってはお婆ちゃんのいる生活は自然だったろうが、私達からすれば、不自然という角をどうやって丸くしていくか、試行錯誤の連続だったのである。

 さらに同居にはお金がかかる。

 お袋が働いている頃は生活費を払ってくれたが、引退すれば無収入、大きな子が一人増えた勘定になる。

 部屋数を一つ増やさなくてはならないので、アパートでは家賃が高くなり、家を買うには一回り大きな家にしなければならなかった。当然、食費と光熱費で2~3万円は余計にかかり今後も続く予定だ。さらに小遣いが必要になるが、それはできないため、代わりに寅爺が払い続けてくれている。誠にありがたいのだが、その合計は通算で一千万円以上になる。

 このお金は本来、半分がオッカに相続されるはずだった。

 

 しかし精神的に、また家計がどうあろうと、自立できない親を (放ってはおけない) のだ。

 

 種々問題があるにせよ、私達は親を守っているのだから、疑いなく親孝行している気分になっていた。

 ところがひょんな時にお袋がこんな事を言ったのだ。

「子供の面倒を見てくれと頼まれたから同居したんだよ」

「あんた達には一切世話になっていない」

「親の面倒を見るのは当たり前でしょ」

 私はその上から目線に、しばらくフリーズしてしまった。

 どうりで言いたい事を遠慮なく言ってきたわけだ。

 ふと、親父が言っていたのを思い出した。

「あとはババァを頼んだ、じゃじゃ馬だから大変だぞ」

 

 同居する中で、感謝の言葉がないのはお互い様だが、心の中では感謝されているものと思っていたが、甘かった。

 私はその瞬間から不信感を覚え、以後7、8年位は距離を置き、意図せず口調も荒くなっていた。

 風吉は、移住の話が2年位頓挫したのを覚えているだろうか。

 3人だけなら簡単にできたのに。核家族が羨ましく、この時ほど己の境遇を恨んだ事はない。

 

 お袋は、家事をしているのだからあんた達と同等、と思ってきたらしい。

 それは全く違う。

 自立できないから居候させているのだ、家事をするのは当たり前である。

 また、生活も行動も別々に分ける事なく、そこには孫がいて、経済的にも何ら心配のない環境に居られる事に対し、私達に感謝し、謙虚な態度で接し続けるのが筋道だろう。ついでに言えば、小遣いをもらっているのだから、親として、気持ちだけでも生活費を入れるべきだ。

 そうして初めてお袋は我が家に溶け込み、私達は、最期まで守ってやろうとする契約が成立するのだ。

 

 ここ一年位か、年老いたせいもあるだろう、お袋と口論し本音をぶつけていくうちに、じゃじゃ馬根性は少しずつ鳴りを潜めていった。いつだったか、

「あなたは親らしくない」

 そうきっぱり言ったのが、かなりこたえたらしい。

 同居30年以上を経て、ようやく自分の置かれた立場が少しずつわかってきたというわけだ。

 昔から感じてきた事だが、お袋にとって私は、息子というより旦那、という存在だったのかもしれない。

 

 何はともあれ、お袋は他のどの家にも行きたくないと言っているし、私達からすれば、他の誰にも迷惑をかけるわけにはいかない。

 どう逆立ちしても、最期までいくしかないのである。

 

 

 

 それにしても、我が家の老人二人は合わせて180歳を越えようとしている。

 人生100年時代、相当な苦しみがない限り、どこまで生きてもあともう少し、あともう少し生きたいらしい。

 しかし私は子としてつくづく思う。自己完結できないなら、親の長生きはちっともめでたくないのである。介護を背負っているオッカは、絶対に人の世話にはなりたくないと断言している。

 親とは持ちつ持たれつで暮らしている。しかし残酷だが、いいかげん「そろそろいかがですか」と言いたくなる。長過ぎるのだ。

 本来、人間関係は離れていた方が互いに綺麗に見えるし、優しくなれる。

 

 つまり非常事態以外は、私達と風吉達は共に暮らすべきではない。

 

 仮に私達が長生きしてしまったらどうするか。

 なるべく迷惑をかけずに、自己完結させる所存だ。

 ただ、死後は始末してもらうしかないので、よろしく頼む。なるべく簡単に済ませるようにしておく。

 

 

 

 風吉も知っての通り、21年前、義父と義伯母を迎え入れ我が家は老人ホームになった。

 これも (放ってはおけない) 精神だった。

 中心になって面倒を見続けてきたのはオッカである。実姉の終末期を入れたら3人もだ。

 オッカには、ほとんどの人が経験しない特殊な苦労をさせてしまった。立派だと思う。真似できる人はまずいないだろう。

 一方で、私達夫婦仲はとうとう熟成されなかった。今後も共にいる限り、空虚感は絶えず互いの顔の間にある。その原因をお袋、義父、義伯母に特定させるのは間違いだろうが、核家族で生活していればまた違った様式があったかもしれない。

 二人だけの結婚生活は、結局2年位だった。

 

 思い返せば、オッカと一緒になったのも (放ってはおけない) 精神だった。説明は省くが、放っておいたら日陰で枯れていきそうな女だったのだ。

 

 この先、二人の親を御見送りしたら、一人暮らしもいい。

 しかしオッカは私と居たいらしい。さてどうするか。

 オッカはここまで一生懸命やってきた。再婚したのも、その功績を讃えての決断だった。

 これからも (放ってはおけない)

 結局、どちらかが死ぬまで一緒という事か。

 

 

 

 話は前後するが、風吉が連れてきたり家に紛れ込んできたりの、都合3匹の猫飼いや、私が20代中盤の頃に発生した実家の崩壊後、お袋と妹を食べさせたのも、(放ってはおけない) 精神だった。 

 

 お墓も、(放ってはおけない) ので買った。

 弟のお骨は親戚の墓に埋葬させてもらっていたのだが、ある日「早く出してほしい」と言われたのだ。何十年も預けっぱなしだったのだから、先方の言い分は理解できる。

 当時、両親にお墓を買う力はなかったので、私は意地になった。

 稼ぎは多少良かったが、子を持ち、車も2台あり、親も抱えていたため不安は隠せなかった。だが弟のためだ、共稼ぎもしていたし、いずれ墓は必要になる。頭を空っぽにして私は急発進しさらに加速させ、霊園に走った。

 両親はその後、ローンの支払いを申し訳程度には手伝ってくれた。

 因みに、墓石の前面一杯に彫り入れた手書きの「風」の文字は、

「明日は明日の風が吹く」という意味だ。

 

 31歳になろうとする風吉に贈る言葉でもある。

 

 

 

 余談だが、

 

 ここまでの人生で経験した三つの大きな喜びは……

・風吉との出会い

・15年間の自営的仕事と3年間の自営業

・移住

 

 これから叶えたい三つの憧れは……

・歳をとっていきたい。(少しも悪くない・早死にしては歳をとれないので)

・親抜きで、自分達が食べるもの、使う物を節約しながら自由に買い出しをしたい。(健康と少々のゆとりがあるうちに)

・親抜きで、好きな時に好きな場所に行きたい。(健康と少々のゆとりがあるうちに)

 

 しぶとく生きていたらきっちりとこなしたい八つの仕事は……

・前野の売却

・2匹の猫の御見送り

・両親とオッカの御見送り

・サチコの看取り (ずっと以前から約束している)

・自分を始末されるにあたっての簡素化

 

 

■令和4年4月27日

 

 風吉は今、農業の道に入るべきではないと結論付けた。

 理由は以下の3点だ。

 

 まずは紹介先のW氏の件である。

 彼は稲作歴20年以上のベテランだが、子がおらず後継者を探していて、私にも相談を持ちかけてきた。

 彼には熟練した技術と道具が揃っており、数年一緒にやれば独立できるほどの腕前になれるだろう。稲作への入り口として、こんなに恵まれた環境は他にない。

 そこで風吉を、と思ったのだが、改めて出会いからの3年間を振り返った時、私の見立てでは、大事な息子を託するのに彼は ”あと少し器量が足りない” のだ。

 基本的に ”いい人” なのだが、時折 ”偏屈”で話が変わるのが難。

 また、自分の思うようにやってほしいタイプで、1から10まで指示をし、そこから外れるとすぐに指摘してくる。共同で働くことになったら、毎日が二人だけの時間、きっと窮屈になる。スポットで行く私でさえも、また紹介した仲間もそんな目に遭った。

 

 

 次に、農業をやってみたいのなら問題ないが、年収500万円という釣り餌に引っかかったのをきっかけにして、「自然の中で黙々と働きたい」を付け足したのが理由では、長続きしない気がする。

 気持ちは十分わかるが、そこに、力尽きるまでやるだけのパワーが秘められているだろうか。何しろ農作業とは、自分の存在が消えてしまうほど地味な作業に完結するのだ。

 農業デビューは、40歳、否45歳を過ぎて人生のチャンスが見えなくなってきたあたりでも、少しも遅くない。農業を軽んじているのではない、その逆だ、しがみつく理由がないとできないということだ。

 風吉はまだ色々なチャンスに挑戦できる年齢だし、能力もある。

 

 

 先日、ラインでやりとりした全文だ。

1.今の仕事はアムズより楽?

→体力的には圧倒的に今の方が疲れる。しかし、エニタイムの時は店長としての責任を毎日感じていたことによる精神的な疲労があった。精神的な披露は肉体にも影響を及ぼすため、総合的に見れば今の方がラク。

 

2.陣の立ち位置は確保した?

→ここ最近はようやく社長や息子と上手くやれるようになり、俺なりの立ち位置は確保出来た。特に息子からの信頼は非常に堅く、頼られるようになった。

 

3.人間関係で嫌なことはない?

→全く問題ない。ただ社長一族が度々怒鳴り散らす姿を見ているのは疲れる。俺が直接怒鳴られることはほとんどないけれども、たまに社長の機嫌が悪いと流れ弾を食らうこともある。そういう時は面倒くさい。

他の職人達との関係は極めて良好。

 

4.後輩が入って楽になった?

→精神的にも肉体的にもかなりラクになった。後輩が入ったことにより、俺自身が社長や先輩達に頼られることが多くなった気がする。

 

5.次年度の給与は期待できそう?

→昨年入社した先輩が昇給しているのを聞くとかなり期待出来そう。ボーナスもしっかり貰えている様子。給料面に関しては文句なし。

 

6.身につく技術はまだまだありそう?

→木工や溶接、看板を建てる際の基礎工事など、建設業の基本的な部分は身につきそう。ただ他の会社で即戦力になれるかどうかは疑問(看板業界なら大活躍出来そうだが)。広く浅くってカンジ?

 

7.トレーニングをする上での支障は?

→体も慣れてきたし、夜勤でも立ち回り方を覚えたのでヘロヘロになることはなくなった。ただ夏は毎年キツイと思う。春秋冬は問題なくトレーニング出来そう。

 

8.現状の不満と今後の希望は?

→大きな不満はないが、数年働いたら「もっとハイレベルな仕事がしたい」と思う日が来そう。今は他にやりたいことが思い浮かばないが、仕事をしていく上でやりたいことが見つかった場合は躊躇せずにその道を進みたい。

 

 現職には不満がつきものだが、一方でこれだけの利点があるなら、最低でもあと数年はやってみるべきだ。

 その中で良くも悪くも、色々なことが発生する。風吉の人柄と真面目さを積み上げていれば、不遇よりチャンスが巡ってくる気がしてならない。

 

 

 勿論、これらは全て私の独断と偏見だ。

 仮に、W氏に風吉を紹介したら、恐ろしく上手くいくことだってある。

 しかし、自称、風吉をこの世で一番よく知っている私は、1ヶ月悩んだ末、しばらくは現状のままが良いと結論付けた。

 

 当分の間、今の仕事で頑張ってみな。

 

■令和2年9月11日

 

 

 風吉が風子にプロポーズしたという。

 一人暮らしを始めてから、1年と1ヶ月後の事だった。

 

 その根拠が文面で届いた。

「半年一緒に住んで相手の大部分を知ることができ、一生一緒にいても大丈夫だと判断した」

「風子以外の人と結婚する意思はない」

「もうこれ以上結婚を先延ばしする必要がないと思った」

 

 察するに、好きでたまらないわけではないが、一緒にいるのが自然だし、他にプロポーズしたい女性もいない。また歳も歳、子供のこともあるから早めにけじめをつけたかった……、といったところだろうか。

 

 

 

 思い返せば、私も同じようだった気がする。

 私達の事を話そう。

 

 私は結婚に少しも焦ってはいなかった。容姿も良く、機転の利く女性は他にいたが、「あいつ」を身近に感じたのは、母親とは正反対の「平和主義で静かな女」だったことだ。学力も運動神経も良くないのは知っていたが、ゆったりとした時間が過ごせる女性は他にいなかった。何より、「支配下」にもおけるので便利だった。

 「平和主義で静か」というとっかかりがあって、「支配下」に収まっている姿、そして「あいつ」は私の偏屈さと、支配されてみたい興味が私達の接着剤だった気がする。

 

 その後、色々と物足りない面が露出したため、早い時期から切るだの別れるだのを繰り返してもいた。私の傲慢さに呆れて断ち切ってしまえばいいものを、変わり者好きな「あいつ」は、私から離れようとはしなかった。

 しばらくして、東京にいた「あいつ」を私の近くに来させた。

 物足りない面は渋々諦め、「平和主義で静か」で「支配下」にいるという、貴重さを重視した。しばらく通っているうちに情も移り、4歳も上という事でやはり子供のことを考え、とりあえず結婚するかという気持ちになった。

 いやになったら別れればいい、という軽いノリでもあった。したがって、将来の約束や誓いの類は一切していない。

 プロポーズなど手ぶらで、「結婚すっか」だけだった。

 29歳だった。

 

 

 

「平和主義で静か」なのは相変わらずだったが、いつしか「支配下」に収まらなくなっていった。

 私はたまりかね、結婚25年目の今から7年前、とうとう離婚を切り出したというわけだ。

 その理由は、当時風吉に話した通りだ。

「あいつ」はきっと私から離れないと確信していた。しかし一度他人になれば、私の傲慢や拘りは排除せざるを得ない。情までは切れていなかったので、初心に返る事で、とりあえず付き合いは継続されるだろうと。

 これからどうしたいかは「あいつ」に決めさせた。案の定、同居人を選んだため離婚は形式だけになった。それは風吉にも婆様にも都合が良かっただろう。

 私の思い通りの展開になったのである。

 

 

 

 しかしなぜ「あいつ」は私の「支配下」に収まらなくなったのか。

 私は解っていた。

 姑、つまり婆様の存在だ。

 自立できず、年金もつくれなかった婆様を面倒見る以外の選択肢がなかった私は、約30年前、「同居するか」と言うしかなかった。

 風吉にとっては婆様のいる生活は自然だったろうが、私達にとっては並大抵ではなかった。

 決して婆様を悪者に仕立てるつもりはない。

 しかしいつの世も、姑は嫁の上司になってしまうのだ。ましてや気性の激しい性格だ。その中で、「平和主義で静か」な「あいつ」は、威勢のいい婆様を怒らせまいと従順な部下に徹してきた。それはそれで良いのだが、要領の悪い「あいつ」は、同時に私を手薄にしてしまったのだ。

 結婚した相手は一体誰なのか、と思う場面は無数にあった。

 

「あいつ」を「支配下」に置いたのは私ではなく、他ならぬ婆様だった。

 お世話をしてくれない長男夫婦を見切ってやってきた義父との同居生活も、通算で15年位になるだろうか。「あいつ」の実の父親だから、当然そちらにも気を取られる事になる。

 勿論、親がいて助かる事は多々あるが、多くの面倒臭い事とは、存命である限り切り離せない。

 

 

 

 昔あったはずの私達の接着剤は、核家族が成立しなかったため、いつも放ったらかしにされてきたのである。

 もしも核家族だったとしたら……接着剤は完全に硬化して離れないものになったか、接着しようとしているうちに液が垂れてそこで硬化し、私達の関係は完全に終わっていたかの、どちらかだろう。

 

 つまり、私達にはやり残した事がある。

 昔あったはずの接着剤を、誰にも邪魔されずにもう一度真ん中に置いて、どうなるか試したいのだ。

 そのためには、合わせて175歳になる二人を、願わくばそこそこで見送り、ほんの数年しか経験していない二人だけの自由な時間を得る事である。

 私達もいい歳だ、是非とも病弱になる前に。

 ゴールがうっすらと見えてしまっているのだから。

 

 再び「平和主義で静か」な「あいつ」は私の「支配下」に収まり、ゆったりとした時間がやってきたなら、その時は再婚を申し入れる。

 それでも、やはり、苛々し続けるなら、完全に別れる。

 

 

 

 風吉と風子は、私達と同居する気など毛頭ないだろう。

 それ以前に、これだけ色々な事があると、私達には子と同居したい理由が浮かんでこない。

 心配するな、君達には同じ思いをさせない、好きにやれ。

 ただ、一度想像してもらいたい。

 今の状態が数年続いた後、30年以上親と同居しながら子育てしていく自分達の姿を。

 君達は恵まれているはずだ。

 

 というわけで、私達の結婚生活は擦った揉んだの繰り返しだった。

 風吉と風子なら、そんな事はないだろう。

 是非とも穏やかな時の中で、結婚生活を楽しんでもらいたい。

 

 

 

 風子の反応も改めて聞いてみた。

「こんなに早くプロポーズされるとは思わなかったらしい」

「ビックリした後、終始照れていた」

「今後どのタイミングで結婚し、子どもを産むかなど先のことは全く考えていなかった。ただ、俺と結婚して俺との子どもが欲しいということは以前から言っていた」

 

 思い返せば、「あいつ」の反応も似たり寄ったりだった。

 相手が年上なのも同じだね。

 

 それにしても、去年の3月に独立して、彼女ができて、新居に引っ越して同棲、転職、そして1年ちょっとで婚約とは……。

 めまいがしそうだよ。

 

 次はなんだ?

 

■令和2年5月1日

 

 協力者なしに、自分だけの力で手に入れたものは好きにすれば良い。

 しかし協力者があって手に入れたものは、自分だけのものではない。

 そこには、協力者の思いがいつも漂っている。

 時に、協力者の気持ちを想像しながら取り扱えば、感謝の気持ちは伝わる。

 

 この歳になってようやく、協力者という影の存在が私にも見えるようになった。

 

 ■令和2年1月14日