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風虎のブログ

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はい、こんばんは風虎です。

今日は昨日のブログで少しだけ書いた、幼少期のトラウマについて話せたらなと思います。

まず、トラウマと言っていいものか分かりませんが私の場合、「何かを叩いたりする大きな音」+「怒られている状況」というものに恐怖を感じます。どちらも単体であれば特に恐怖も感じず、普通にしていられるのですが、これが合わさった瞬間に幼少期に父親に怒られた際の事がフラッシュバックして、言葉が出てこなくなるのです。

幸い、今の職場にも劇団にもトラウマを刺激するような怒り方をする人は居ないのですが、学童という教育の現場に務めていると、今の自分の指導の仕方は将来あの子の心に傷を残したりしないかな…?と気にしてしまいます。

また、私の場合大きな音で怒られるのが苦手というのもあり、「大きな声で怒る」つまり、怒鳴るのがとても苦手なのです。もちろん、各家庭から大切な子供を預かっている訳ですから、大きな声を出してでも止めなければならない場面に遭遇することはあります。そういった場合に、子供たちを止めることは出来るのですが、その後に激しい自己嫌悪に陥るといったところまでセットになっています。

そもそもの話として今回のブログのタイトルにもありますように、指導と説教と恫喝は全くの別物です。

「何言ってんの?そんなの当たり前だろ?」

私もそう思います。では、具体的にどこまでが説教でどこまでが恫喝か説明できますでしょうか。

非常に難しいと思います。かくいう私も、1つの意見は持っておりますが、これが絶対に正しい!とは言いきれない部分も持ち合わせております。何分、専門的な教育を受けたわけでもなく、ただただ自分が生きてきた上での経験と、現場で感じた事を元に考えているだけですので、それは違う!などという事も多々あると思います。
そういった事柄はぜひ知恵の足りない私に教えると思ってコメントしてくれるとありがたいです。

前置きが長くなりましたが、ズバリ結論から言いましょう。私が思う指導、説教、恫喝の違いとは教育者の感情によるものだと考えています。

あくまでも冷静にその子がやってしまった事柄を客観的に見て、何がダメだったか、どうするべきだったか。それをその子と話しながら導き出すのが指導だと私は思っています。そこに「片付けが大変じゃないか!」とか「今は時間が無いのに!!」というような私の私的な感情が入ってしまうとそれはただの恫喝、八つ当たりに成り下がってしまいます。

勿論、ご家庭で子供の面倒を見ているという状況と、学童で子供たちの面倒を見ているという状況を全く同じ苦労で出来るとは思っていません。しかし、行動の裏には理由があるのです。過失にも原因があるのです。まずは子供の弁明を聞いて、それから子供に怒る、指導するといったご家庭が増える事を望みます。

私のような子供がこれから少しでも減りますように。

次回のブログでは駄々をこねる子供について少しばかり書ければと思います。それではまた次回のブログで。