神功皇后と言えば……
勇ましい姿で立つ神功皇后の側で
応神天皇を愛おしそうに抱く武内宿禰……
こう言う絵面をよく見かけると思います‼️
神功皇后と応神天皇を抱く武内宿禰!
皇后さまに仕える忠誠な家臣…を表していますが
視点を変えると…どの様に見えるでしょうか❓
神功皇后が御先祖様の国、辰韓の王家が断絶して
家来が新羅国を起こした事を知って「王家の血筋
である自分がその領土と人民を受け継ぐ権利が
ある」と新羅に出兵する事を決断した事は前回に
お話ししました‼️
出雲の伝承では、この時に神功皇后は大和物部の
最後の大王、ワカタラシ大王に新羅出兵を願うの
ですが、大王はこれを嫌がって神功皇后とは疎遠
となったそうです❗️
成務天皇(諡:ワカタラシ彦天皇)
大和での物部王朝はイクメ大王から4代で消滅
しますがイクメ大王から後の大王は大和では人気
が無く税が集まらないので屯倉の開拓に東国や
故郷の九州を攻めたりした様です❗️
これは古事記編纂時には天皇 自ら戦地に赴くのは
良しとせず、同じ皇族の英雄「ヤマトタケルの武勇伝」
として描かれたそうです❗️
ヤマトタケルの伊吹山のお話では…
伊吹山の神と戦おうとして山を登ると大きな白イノシシが
出てきました!「これは神の使いだから後で倒してやろう」
と言いましたが、実はその白イノシシが伊吹山ノ神だったん
ですね!
怒った神はヤマトタケルを惑わして気を失わさせました❗️
山から降りたヤマトタケルは病に侵され大和を偲んで
御隠れになった…
という記事があります❗️
これは、伊吹山の西側の地は息長家の地盤でここに
ワカタラシ大王は高穴穂宮を置いていた事から息長タラシ姫
(神功皇后)がワカタラシ大王の后だったことを伝えていて、
また、新羅出身のヒボコを祖とする息長家は倭国で最初に
イノシシ(豚)を飼った事からも白イノシシは息長タラシ姫を
例えているそうです❗️
大王がその魅力に惑わされ短命に終わる事を暗示しているとか……
この息長タラシ姫(神功皇后)の大王をも惑わす魅力については
この後にも出てきます❗️
物部系大王は結局大和には帰らず地方で御隠れに
なっています❗️
大王の遠征の間は登美家の当主が副王として大和
を守っていた様です❗️
古代は王自らが戦地に赴くものだったんですよ❗️
大和を留守にして地方へ攻め出てる間に物部王朝
は忘れ去られていくんですね〜
さて、このワカタラシ大王は遠征先で豊前国の岡
県主に攻められ若くして御隠れになりました‼️
皇太后となった神功皇后は新羅出兵を豊前国の
豪族、中津彦にも頼みましたが、これも断られ
ました❗️
神功皇后は、この中津彦のために当時行宮として
いた所にある土肥山(下関の長府)にお墓を造った
とされます❗️
仲哀天皇(諡:足ナカツヒコ天皇)
この後に神功皇后の新羅出兵に協力したのが日向
で勢力を強め王になっていた武内宿禰の孫…
日向襲津彦王なんです‼️
武内襲津彦…つまりは葛城襲津彦です‼️
神功皇后より新羅出兵の総指揮者に任命された
襲津彦は自らの日向の軍に加え、御先祖様の
紀伊国から軍船を集めて、丹後の海部水軍も
誘いました‼️
住吉大社の船のモニュメント!
日向襲津彦は
大軍船を率いて出航したようです❗️
新羅の王はこの大軍船を見て戦わずして降伏
しました‼️
勢いづく襲津彦海軍は半島沿いに百済や高句麗
も攻め属国としています‼️
この時に毎年年貢を倭国に送る事を約束させ
人質や財宝を召し上げたとあります❗️
倭国に送るその年貢の中継地が任那なんです❗️
襲津彦は凱旋し摂津国の住吉郡桑津村に住み
住吉神社を建立した後に大和の葛城に
移住しました‼️
桑津村は大阪の上町台地の南の内陸側の辺り
古代は海抜が高いので上町台地の内側は海が
入り組んだ河内湖となっていました!
古事記や紀氏家牒では葛城長江(長柄)襲津彦と
言われますが、これは現在の奈良県御所市
長柄辺りに宮を建てた事からそう呼ばれます❗️
住吉大社
風主の実家がある河合町は北葛城郡に属するの
ですが、この地名を見ても葛城襲津彦の根拠地
は南は紀伊国との境、五條市から北は大和川
流域まであった事が分かります‼️
広いですね〜
襲津彦は大和でも勢力を広げました‼️
大和葛城に移住した襲津彦……
大和の川が集まる所……
そこには母、髪長姫の島ノ山古墳があります❗️
島の山古墳!
女性らしい美しい古墳で周濠には色んな水鳥がいます
また古墳の横には、その髪長姫をお祀りする
比売久波神社(ヒメクワ)があります❗️
葛城襲津彦とお母様は摂津国住吉郡桑津村
から大和に入られたので「ヒメクワ」の名が
付いてるんですね〜❗️
比売久波神社!
御神体は桑の葉です!
さて、三韓征伐を成し遂げた神功皇后……長門国に住吉神社を津守連に建てさせましたが
この御祭神が後に大阪の住吉大社に移されました‼️
御祭神は上筒ノ神、中筒ノ神、底筒ノ神と曖昧
ですが……
筒は男神を意味し、この海の神三神はイザナギ尊
が日向の橘の小戸で禊をした事で生まれた神なの
で、この地方で関係のある男神という事になります❗️
ビックリですが⁉️
それは稚足彦大王、中津彦王、日向襲津彦王の
事だそうです‼️
住吉大社は海の神三神と神功皇后をお祀りして
おり、この4神の神殿は左に縦に三神、奥から
三宮、二宮、一宮で、一宮の隣(右側)には神功
皇后の神殿がL字型に並んでいます‼️
この左右のお宮は、なんと夫婦神を表す形だと
いう事です‼️
息長タラシ姫とは、その壮大な夢と美貌で大王
をも惑わす恋多き魔性の女性だったのかなぁと
想像出来ますね〜
ただ、タラシ姫の大きな願いを叶えられる器の
ある王は葛城襲津彦だったという事なのかな❓
その偉大な襲津彦の功績を武内宿禰と一人
の人物の様に史書に記せば、それは当時の内外
の人々も、また後世の人々も混乱するはずです‼️
藤原不比等……ホントに知恵者です‼️
住吉大社の縦に並ぶ神殿!
手前から一宮、二宮、三宮
一宮の横に並ぶ神功皇后の神殿!
神功皇后の三韓征伐による年貢収入で倭国は豊か
に栄えたそうです❗️
古市、百舌鳥古墳群の巨大な古墳築造は
この時の好景気だった時代背景があったんですね〜〜‼️
堺市の地名を見ると半島や全国から人々が
集まってきた様子が伺えますね!
さて、古事記にもある様に神功皇后は三韓征伐
から帰国後に御子をもうけていますが…
出雲に伝わる伝承と天之日矛の元出石神社神主
の神床家に同じ伝承があるのですが……
それは息長タラシ姫の御子は武内襲津彦の子だと
言われるそうです❗️
しかし、その御子は7歳で夭折(早く亡くなる)し、
神功皇后は新羅王の子孫がいなくなると新羅国
に分かれば年貢を渋りかねないと危惧して、
それを隠し、息長家と同じ月信仰の上毛野国造家
に同じ年の竹葉瀬ノ君がいるのを知り秘密裏に
息長家の養子にしたそうです⁉️
そうなんです‼️
上毛野国造家はあの親魏倭王卑弥呼(豊玉姫)の子
豊城入彦の子孫なんです‼️
豊城入彦は宇佐の月神を祀る家系……
息長家もこの宇佐の月讀ノ神を祀る家系なんです
宇佐神宮は元々この月讀ノ神を信仰していました
が豊族の関係者らがこの事を聞きつけ、大変喜ん
だそうです❗️
なので以来、八幡の総本宮である宇佐神宮には
神功皇后と応神天皇が卑弥呼(豊玉姫)の比売大神
に合わせてお祀りされる様になり月讀ノ神信仰
は忘れられて、中世には武人の神様と崇められる
様になったんですね〜‼️
応神天皇の前に現れる!
八幡神の御姿……竹葉八幡ノ像
これが意味するものは……同神であるということか?
神功皇后は息長家で育った竹葉瀬ノ君を
ホムタ大王として即位させました‼️
ホムタ大王は大和に宮を建てましたが、御先祖様の出身地にちなんで豊明ノ宮と呼ばれます‼️
豊明という地名が愛知県にありますが、これも
豊城入彦の子孫の地で…
宇佐の月の明かり
という意味が込められているんですよ‼️
美しいですね〜〜‼️
応神天皇陵!
室町時代の応神天皇陵の絵なのですが……これは、やっぱり江戸時代の例のやつかなぁ❓
ちなみに、この絵の古墳頂部にある神社は八幡宮
現代は陵の横にある誉田八幡宮です‼️
誉田八幡宮!
第15代天皇と記されるものが多数あった様ですが
大正15年の詔書により歴代天皇から外されたん
ですね〜‼️
これだけの功績がある御方なので当時は誰もが
大王と見ていた様です‼️
後世に女性天皇も出てきますが…
何故なのでしょうか…
最後に一つ……もうお気付きの方もおられるかと
思いますが、このシリーズの中の武内宿禰関係の
中に何故か気になるキーワードがあるんです‼️
それは竹
武内宿禰の名前の「竹」内
襲津彦の地元、大隅隼人の特技「竹」細工
応神天皇の「竹」葉八幡
住吉大社の御祭神の「筒」は男根「竹」筒を表す
これらに関係する神功皇后や豊族は月読ノ命信仰‼️
神功皇后が出産を遅らすのにお腹に当てた石は
月延石‼️
竹取物語です‼️
竹から生まれたかぐや姫…
最後に月に帰っていきます‼️
竹取物語のかぐや姫のモデルのと言われる
垂仁天皇の御后の迦具夜姫の父は大筒木垂根王…
名前に竹筒の「筒」
竹取物語の伝承地は奈良県の広陵町と京都京田辺
市の大隅
広陵町はかぐや姫の翁が確か忌部の関係でここに
住んでいたとか…記紀編纂には忌部子人が関わっ
てるんですよねー…
また、京田辺は武内宿禰の弟の甘美内宿禰の
根拠地で、ここには現代も竹細工が得意な大隅
隼人の隼人舞の伝統が残っているんです‼️
この関係性も調べてみると面白い事が解るかも❓
画像は一部ネットよりお借りいしました!
……続く