三輪山の麓に鎮座します第十代崇神天皇の宮
磯城瑞籬宮跡(しきのみずがきのみや)伝承の地には……

志貴御県坐神社(しきみあがたにます)

があります❗️ウインク


一ノ鳥居
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初代神武天皇と同じくハツクニシラススメラミコトと呼ばれる崇神天皇の宮跡なので、勿論御祭神は崇神天皇だと思い込んでいたのですが……えー

何と御祭神は「天津饒速日命(あまつにぎはやひ)」❗️
物部氏の祖、饒速日命(にぎはやひ)だったんです‼️びっくり

近くにおって、何回も行ってんのに知らんかった〜〜‼️ガーン


ニノ鳥居
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実際の宮跡はこの神社に併設される天理教教会と三輪小学校あたりと推定されています❗️ウインク

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御県(みあがた)とは朝廷(天皇)の直轄地と言う意味で、初代神武天皇が太陽の登る東から八咫烏(ヤタガラス)の先導で熊野の山を通り大和に向かうのですが、宇陀までやってきた所、磯城の地には兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)の兄弟が力を持っていました❗️

神武天皇が大和に入るには、この兄弟を倒さなければなりません❗️プンプン

兄磯城は攻めて来る神武天皇を騙し討ちしようと罠をかけますが、弟磯城は兄を裏切りこの罠の情報を神武天皇に告げます❗️爆笑

これによって結果、兄磯城は自ら仕掛けた罠で命を落とし、弟磯城は天皇の危機を救った功績から磯城県主に任命されました‼️照れ


拝殿
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御本殿
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新撰姓氏録には磯城県主は饒速日命の末裔となっている様なので、弟磯城は饒速日命の末裔と考えられますね❗️えー


磯城瑞蘺宮跡と書かれた石碑
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兄磯城、弟磯城との戦いに勝利した神武天皇はいよいよ大和に入り兄の五瀬命を殺した強い長髄彦(登美毘古)との最終決戦です‼️プンプン

両軍が向かい合った時、神武天皇の元に金鵄が飛んで来て目の眩む様な光を放ち長髄彦の軍勢が怯んで逃げ出しました❗️ガーン

ここに現れたのが天津神の御子である神武天皇よりも先に現在の磐船神社の地に天降り長髄彦を従え、さらに長髄彦の妹を妃としていた饒速日命なんですね〜〜‼️ウインク

饒速日命は天津神の子孫である証明の天津瑞(あまつしるし)を持っていたんです‼️照れ

神武天皇と同じ天孫族だと言う事ですね❗️
饒速日命と同神と言われる天火明命は邇邇芸命の兄という説もありますよ❗️

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饒速日命には別名で天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と言う何とも立派な長〜〜い名前があるのですが……

丹後籠神社の海部氏の祖火明命(あめのほあかり)と物部氏の祖饒速日命が同一の神様であり、天火明命の一族(海族)が先に大和へ、饒速日命の一族が九州北部より後に大和へ来た事が出雲の伝承によって分かってきました❗️ウインク

風主の研究⁉️(あくまでも素人研究ですよ‼️チュー)三輪山の大神様倭大物主櫛甕魂命は最初は饒速日命ではないかなぁ〜と思っていたのですが……チュー



境内には御本殿(南向き)の横に東の方角に向いた鳥居がありますが、その奥には何もありません⁉️びっくり

鳥居の方角の方へ向かって境内の外に出てみると三輪山に向いていました‼️ウインク

三輪山の向拝所なのでしょうか???キョロキョロ

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写真の左に鳥居がありますが(小さいな?分かるかな?)鳥居の奥の森が志貴御県坐神社の場所❗️

右側の山が三輪山です‼️ニヤリ

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参道には「式内大社 志貴御県坐神社」の石碑がありますが……

半分埋まってる〜〜!!!ガーン

左側の石碑には「皇紀二千六百年⁉️」記念碑かなぁ〜⁉️照れ

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この志貴御県坐神社は三輪恵比寿神社の宮司さんが管理されていて御朱印は三輪恵比寿神社の社務所で頂けますよ‼️ウインク

三輪恵比寿神社の初恵比寿ではその年の三輪素麺の価格が決められ神様に報告するそうです‼️爆笑

ちなみに三輪恵比寿神社の御祭神は八重事代主命です‼️照れ