かつて私は、この世から消えたいと思ったことがあります。

死を選ぶというより、それも選びたくない。

選んで実行するなんてしんどい。

そんなんじゃなくて、ただ消滅したい。

私は過去に結構な回数と時間、そんな思いに囚われていました。

後にセラピストとして皆さんとお話すると、全く同じことを何度もうかがうことになりました。

 

死について考えることを人は避けがちです。

直面していないことはなんでも、直視なんかしたくありませんよね。

でも思うのですが、直面しているときはなおさら直視したくないものかもしれません。

 

なんでもそうですが、恐ろし気なものは直視するとほとんどの場合怖がらなくてよくなります。

直視せずになんとなく容認してそばに置いておく、みたいなことが一番危なっかしいものです。

(今ならわかるのですが、肉体を消滅させることはリセットにはなりません。・・・)

 

真理に出会うはるか以前のことです。

自殺は一番の罪に当たる、というようなことは当時から耳に入っていました。

それをやってしまうと地獄に堕ちる、というような。

けれどそう言われても、苦しみが消えるわけではありません。

 

そんな時、自分の葛藤をいったん終わらせてくれたのは

「自殺は、永遠に許さないという行為である」という言葉でした。

クリスチャンの小説家、曽野綾子の本にあります。

 

この言葉は私にとって強い力がありました。

少なくても地獄に堕ちるのが嫌なら踏みとどまれという教えよりずっと説得力がありました。

 

私たちは、自分を所有しているのは自分だと思っています。

自分のものは自分の自由にしていい。

自分に処する判断は自分でする。

でもまさか、それが誰かを、何かを、世界を、永遠に許さない宣言だとは。

 

当時私は存在すること自体がこの世から何かを奪っている、と感じていました。

酸素を消費し、水を汚し、他の命を奪って自分を生かしています。

肉体は究極確かにそうなのです。

消滅はこの世で最も控えめで害がなく、謙虚な選択肢のようにすら思えました。

 

一方で、奪うことを当然の権利のように受け取り、生きることを当たり前に生きている人を傲慢と見なし、多くのそんな人を多分、私は憎んでいました。

自分がいつかそちら側に移り、生きやすくなることをどうしても望めませんでしたし、どちらであったにしても自分には耐えられない気がしました。

挙句の果てに辿り着いたのがそんな選択だったのです。

 

ですが憎んだまま消滅することは確かに永遠に許さない行為であり、それは復讐の一形態なのだということはとても納得がいきました。

そしてそれは自分の望んでいる「愛」と、最も程遠いところにあることだということも漠然と理解しました。

 

だからすぐにすべてを許そうと思えわけではありませんが、少なくとも永遠に許さないという決断はしたくないと、その時心から思えました。

 

今振り返るとその当時感覚的に漠然と理解したことは、すべて真理からくるものだとわかります。

 

対立するものは愛ではありません。

対立するどちらかが愛であることはありません。

対立が終わると、愛が見えます。

でも、愛はずっと変わらずにあり続けています。

 

対立を終わらせるのが赦しです。

 

ですから自殺は罪というより、死によって対立を終わらせられるという誤解からくるものです。

 

この世の認識は死をもとに、この世の法則は罪と罰をもとに、構築されています。

死を望むかどうかにかかわらず、この世での私たちの人生のゴールは死だとされています。

そうであれば死は、希望や前進、繁栄や栄光や愛の、すべての終わりです。

そんなもののために誰が本当に愛そうとするのでしょうか。

 

でも、私たちは本来、そんな世界の住人ではないのです。

そんな世界を赦すことが、赦された世界が、私たちのホームです。

 

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感謝とともに

AZU拝