最近の合理的配慮についての記事の中で、お互いが当事者であるという前提に立つことの重要性を書きました。

 

私がなぜそのように考えるようになったか、今日はその背景について少し触れたいと思います。

 

私が20年以上の摂食障害や生きづらさから解放され、生まれ持った特性を全開にして私らしく生きられるようになったのは、何より夫の存在のおかげだと思っています(そういうといつも夫は否定するのですが)。夫には本当にいくら感謝してもしきれません。

 

私にとって何が良かったのか。

改めてよく考えてみるとこういうことなのかなあ・・・。

 

夫は出逢った時から私を「病気の人」として見たことはなかったと思います。これは私が感じたことなのでなかなか説明するのは難しいのですが、分厚い病気の着ぐるみの下にいる「本来の私」をずっと見てくれていました。

 

私はこれまで2回の休職を経験していますが、その間夫は働きもせずに過食嘔吐を繰り返している私を責めることは一度もありませんでした。仕事をしていない代わりに家事や掃除など家の仕事をやれと強制することもありませんでした。一方で、私が病気だから何でも夫が代わりにやるかといえばそうではないのです。もちろん、休職していた当時はかなりしんどい状況で、夫が私の代わりにやることは多かったと思います。ただ、それでも夫が自分を犠牲にして(無理をして)何かをするというのとは違っていたように見えました。

 

このような夫の対応は、私にとっては「まりはまりで自分のリュックを背負いながら一生懸命生きているんだよね」「自分も自分で背負っているけれど、必要なら手を貸すから一緒に歩こうよ」と言ってくれているように感じていました。仕事をしているしていないにかかわらず、私という一人の人間が自分の課題と向き合いながら一生懸命生き延びていることを夫は分かってくれていたと思います。つまり、夫が私という存在そのものに対して、深い尊重や敬いのような気持ちをもって接してくれていたと思うのです。

だからこそ、「妻は病気だから何でも自分がやってあげないと」ではなく、私も「病気だから何にもできない」でなく、お互いに“自分の責任と領域”を認識しながらここまで来れたのではないかなと思っています。

 

私はこのような体験から、ひとりの人として尊重される経験がその人の本来持っている力を奪わずに最大限に引き出してくれることにつながるのではないかと考えるようになりました。

 

そしてもう一つ大切なこと。

それは、それぞれがお互いのリュックを背負っているという当事者の前提に夫が立ってくれたことで、私は孤独を感じずにここまで来ることができたということです。

 

夫と歩んできたこの道のりの中で私が感じたのは、大学を休学して絶望のどん底で感じたあの孤独とは正反対の、「安心」でした。

 

一人ひとりみんな違う。

でも一緒に歩いていくことができる。

一人ひとりみんな違う。

でもそれは病気や障害の有無じゃない。

それがその人らしさだから。

 

最近仲間入りしたリュックを背負いながら、私は今こんな風に感じています。