今日は前回に引き続き「合理的配慮」に関して私が考えていることを話してみたいと思います。

 

私は、「事業者による障害のある人への合理的配慮の提供が義務化された」という短い文章の中に、すでに配慮する側とされる側という明確な立場の違いが表れていると感じます。私はそこに違和感を覚えてしまうのです。

 

内閣府のリーフレットにあるように、「互いにその人らしさを認め合いながら、ともに生きる社会の実現」を目指すのなら、障害のあるなしではなく、一人ひとりが生まれながらにしてそれぞれの人生における「当事者」であるという視点が重要だと感じています。

 

先日投稿した記事「ありのままの私でここにいる」でも書いたように、そもそも私もあなたも同じ人間だよね、それぞれに違ったリュックを与えられてこの世に生まれてきたんだね、あなたのリュックの中身はどんな感じ?、私はこんなリュックを持っているよ、あなたのリュックを丸ごと引き受けることは難しいけれど、私の持っているこの道具を貸しましょうか?とか、後ろから支えるので一緒に登りましょうか?とかそういうことなんじゃないかなあ。

 

私たちは、生まれるときに1人ひとつずつ色も形も大きさもその中身も唯一無二のリュックをいただいていると思うんです。そのリュックはこころや身体の成長と共に変化していったり、リュックの中のもの同士を組み合わせたり、他者と共有したりすることができる。ただ、他者のリュックを丸ごと自分のものと交換したり、自分のリュックに加えて他者のリュックまでを背負ったりすることはできない。

けれども自分がどんなリュックをいただいたのか、そしてそのリュックと共にどこをどんなふうに旅するのかは自分自身で選択できるのです。

 

いのちを授かった瞬間から、私たちは死に向かって歩き始めています。

そのことは、私たちがみな背負っているものの一つです。

そして1人ひとりがそれぞれのリュックを背負いながら、つまずいたり転んだり、休憩したり、手をつないだり、泣いたり笑ったり…様々なことを経験しながら歩んでいるのだと思うと、障害の有無ってどういうことなのだろうと分からなくなってきます。

 

同じだけどそれぞれに違う。

それぞれに違うけれども同じなんだ。

 

本当の意味での差別解消や配慮とは、私たち一人ひとりがこのような前提にたつことではじめて見えてくるような気がします。