私には発達特性に伴う協調運動(手と足、目と手など別々に動く機能をまとめてひとつにして動かす動き)の苦手さがあります。幼少期から体育や家庭科などの授業では、私だけが他の子と同じようにできないことが多く、“ちょっと不器用なだけ”、とは言い難い苦痛や困り感を感じていました。成人してからも、階段の上り下りや電車内でバランスをとること、裁縫や料理、炊事といった家事、仕事では細かいマウス操作など苦手さを感じることが多々あります。

 

このような状況に対して例えば「発達性協調運動症(DCD)」と名前を付け、「自分は協調運動が苦手だから運動や裁縫はできない」と割り切ると選択肢もあるかもしれません。ただ私自身の経験から言うと、「発達性協調運動症(DCD)」の特性を持っているから運動すべてが苦手だとかできない、と考えてしまうのはとてももったいないことのように思います。なぜなら、私は学生時代から決して運動が得意だとは感じていませんでしたが、縄跳び、鉄棒、跳び箱、水泳など小学生くらいまでは努力で何とか他の子と同じくらいのレベルまではできるようになりました。それは“私もこのくらい練習すればできるようになる”という経験につながりました。また、様々なスポーツにチャレンジすることで泳ぐことは私にとって少し得意なことだという発見もありました。ヨガやアニマルフロー、筋トレ、サーキットトレーニングなど最近取り組んでいるエクササイズは、ふと“やってみたい”と思い、軽い気持ちで始めてみたのですが、関節や筋肉の動き、呼吸、風などを感じながら身体を動かすことが私にとっては非常に心地よいものだというのも新たな発見でした。

 

階段の上り下りも苦手なことの一つですが、これも単に「苦手なこと」とラベリングするだけでは私にとってはあまり有用ではありませんでした。

例えば「苦手な階段の上り下りをいかに攻略し安全に通勤するか」ということを考えた時、私はこの身体をどのように使うと良さそうか、ということを実験してみます。私の場合はしっかりと階段を見ながら一歩ずつ丁寧に足を動かすことが重要で、そのためには顎を引くイメージで首の角度を調整すると良さそうだということ、そして特に階段の最初と最後の一歩はできるだけ瞬きをしないほうが、確実に目的の位置へ足を着地させることができました。また、人混みではよく他者と腕や足がぶつかってしまうことがあり、恐らくそれもスムースでコンパクトな動きが苦手であることが多少なりとも影響していると考えているのですが、この点についても斜めがけしたスマートフォンに手を添えるようにする、人の流れのスピードやリズムにできるだけ合わせるように歩くようにするなどと工夫するとだいぶ良いということも分かってきました。

他にも歩きやすい靴や服装を選んだり、両手が使えるようリュックに変えたりといった工夫も役立っていますし、乗り換えに使う階段からは敢えて少し距離のある車両に乗ることで、混雑が少し緩和されたタイミングで焦らずに階段を上り下りできる状況を選択しています。

 

私は協調運動の苦手さについて医師から何らかの診断を受けたことはありませんが、私が生きていく上で感じる協調運動の苦手さや困り感は「発達性協調運動症(DCD)」と診断されても減ることはないでしょうし、診断されなかったからと言っても同じことではないかと考えています。むしろ、診断されたことで「私は発達性協調運動(DCD)だから○○はできない」と自分で自分に限界をつくってしまう可能性もあるでしょうし、診断されなかったとしても「じゃあこの苦手さは何なのだろう?」とすっきりしない可能性もあるかもしれません。

 

私自身はこのことについて、「障害かどうか」「病気かどうか」決着をつける必要性を感じていません。それよりも、「こういう自分の身体の機能や特性を理解しながら、どう扱っていけばよいのか」を自分で見つけていくことが重要だと考えています。どんな医学書にもどんな専門家にも出すことのできないその答えは、私だけが見つけられるものだと思うのです。

 

「障害があるのかないのか」

0と1の間には、自分だけが切り拓くことのできる無限の可能性が広がっていると私は信じています。