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だいぶ更新が空いてしまいましたが、今回は、丸山公民館前に建立されている二つの石碑を取り上げます。
明治維新に四年先立つ元治元年(一八六四)甲子十一月、尊王攘夷の旗印を掲げた武田耕雲斎ら水戸浪士の大軍が、京を目指して伊那谷を南下した。この際、飯田領内に入った一行と飯田藩とが戦いにならないようにと、座光寺の平田派国学者北原稲雄らが斡旋し、城下を避けて上郷から今宮を通り、羽場、切石の間道を抜けさせた。途中、この今宮球場の地にあった広い草地で昼食をとり、清内路で一泊して木曾へと抜けた。その後、水戸浪士は上洛できず、敦賀において全員処刑されている。
尊王義士甲子紀念碑の説明板にはこう記してあります。
八束穂のしげる飯田の畦にさへ
君に仕ふるみちはありけり
江戸幕府を倒し天皇中心の国にしようと、筑波山で兵を挙げた水戸の武田耕雲斎を盟主とする浪士一行が、伊那谷を通ることになりました。
飯田藩との戦いになれば町は戦火にさらされてしまうので、それを避けるために座光寺の平田学派の門人北原稲雄、今村真幸兄弟らが飯田藩とかけ合い、浪士一行との話し合いの末、大宮から間道を抜けて今宮まで来て昼食としました。時に元治元年甲子(一八六四)十一月のことでした。
この時一行の亀山嘉治が詠んだのがこの一首です。
「束」は一にぎりの幅、「八束穂」はその八倍の長く豊かな稲穂の意、一首は「稲が豊かに実る飯田の田の畔にさえも、我々と同じように天皇にお仕えする道が開かれているよ」という意味です。志を同じくする人たちのおかげで、無事この地を通過することができるという感謝の気持ちも込められていましょう。
有志による建碑は、浪士一行が通過してから三十七年後の明治三十四年(一九○一)、一行通過の「甲子」年を記念して標題のように命名しました。
碑建立の由緒が右側面に、嘉治の一首は左側面に、嘉治の略歴が背面に刻まれている六メートルにも及ぶ背の高い紀念碑です。
ちょうど160年前に、伊那谷や今宮の地を水戸浪士一行が通過していました。
これまで、背が高い石碑があるなあと思っていました。ブログの記事に取り上げない限り知ることはなかったと思います。
幕末の頃、広い野原であったこの地で、握り飯(想像ですが…)を食べながら、浪士一行は何を思っていただろうと思いをはせるのも、歴史のおもしろさだと思います。
飯田市へお寄りの際は、この石碑を訪ねてみてはいかがでしょうか。
今回は、丸山公民館前にある二つの石碑について取り上げました。
最後までお読みいただきありがとうございました。