大分なんかに住んでると富士山は遠い存在です。

ネット記事に「富士登山の死者増」というのが

あったので読んでみましたが、そう言えば

僕も昔富士山には登ったなあと思い出して

しまうなというわけです(もういよいよ夏も終わり

っぽいですが「最後の花火」は見ましたか?)。

 

「死者増」の内容は「今シーズン、静岡側で6人が死亡。

山梨側でも3人が亡くなり、合わせて9人」だそうです。

去年の2倍以上と書いていますが9人はいかにも多い

と僕だって(誰だって)思います。分母が17万人以上

というので170000分の9と考えればありかもしれませんが

山登るだけですからねえ、それで死んじゃいけんでしょう。

人の命は富士山よりも高いはずなんだけどなあ。

 

原因は2つ考えられていて1つは悪天候。今年は夕立じゃなくて

ゲリラ豪雨って言ってましたから(ネット記事では「ゲリラ雷雨」

って言ってる)それでなくても「山の天気は変わりやすい」って

言ってるのに激変してガラガラ~のドバーッじゃあ身体に悪い。

しかもその間救助隊が動けないというのが致命的らしい。

それ考えるともっと多く被害が出ることもあったかもしれない

と思うほどだ。異常気象は本当にどうにかせんといかん。

 

もう1つが登山ルートに関する人流の変動で「初心者向け」山梨側・

吉田ルートから「勾配が激しく難しい」静岡側の富士宮ルートに

人が流れているらしい。富士吉田からのルートが初心者向けだった

とは知らなかったが確かに入山制限だの通行料アップだのという

話題は聞いたことがある。今年から1日の登山客の上限を4000人に

制限し、1人当たり2000円の通行料を徴収。弾丸登山対策として、

5合目のゲートを午後4時から午前3時まで閉鎖していたということだ。

 

僕は釣りに行って波止場に「釣り禁止」とか書かれていると

暴れたい気分になるので基本的にはそういうことには反対だ。

「海はみんなのものだ、山はみんなのものだ」と声を大にして

言いたい。しかし、群衆の愚かさというのも知っている。

 

基本は「みんなのものだ」の主張なんだが、この「みんな」が

「ろくでもないみんな」だったり「とんでもなくろくでもない奴

が含まれてるみんな」だったりすると「公共の福祉」を

優先せざるを得ないというのは理解できる。地元住民に

「俺らずっと我慢してんだよ」と言われるとこちらの立場は弱い。

でも通行料1人当たり2000円とか聞くと半分くらいは口実

なんじゃねえの?とも思うのでそこはどちらの側にも立てないよな。

 

登山者も地元住民も誰も彼もがもっと考えるまともな「みんな」

ならいいのになと思ってしまいます。山登りは僕の趣味じゃないし

「みんなのもの」と思えないようにあれこれ制限されるんじゃ

僕は二度と富士山には登らないだろう。そうなるとなお一度登って

おいてよかったなあと思います。あの時は「勾配が激しく難しい」

静岡側の富士宮ルート(多分)で弾丸登山だったぞ。ご来光は

拝めんかったかな?なにせ昔のことなんで(前世紀だぞ)

「忘れちゃって、忘れちゃって」(from「クロニクル」byフジ

ファブリック)。でも元々はALTが富士山に登ったと聞いて

「日本人の俺はまだ登ってないぞ」と一念発起したこととか

自分が登った後で両親を連れて行こうと思ってたのに

遂に叶わなかったということは忘れようと思っても忘れられない。

 

富士山にはもう登らなくても(年寄りの冷や水には注意しろよ、

「みんな」) 富士吉田にはもう一度行ってみたいなあ。