書かなきゃならないことが最低2つあります。

今週末は我が家のお姉ちゃんの所に行って

書けないんで「1日2つずつくらい書くか」

って感じだったんですが、あまりの急転直下

の事態に遭って僕はすくんでいます。

 

昨日は僕を親にしてくれた人の大きな

節目の誕生日でした。その前日税金パニックが

起こりましたので心は平静ではありませんが

きっちり書いておかなくちゃとは思っていました。

 

何も無ければ昨日のうちには我が家のお姉ちゃんに

関するブログを一個書いていたはずです。でも

「くそー」と思って税務署に行って今季の

『会社四季報』買って帰る途中に電話が鳴りました。

運転中だったので取れなくて家に着いてから

かけ直しました。

 

友人のお父さんが亡くなったそうです。まさか?!

 

今は農家にとっては超繁忙期で友人とお父さんは

毎日田んぼでせっせと田植えをしているもの

の時期なんですがそうじゃなかった。

 

僕の親父と同じく田舎の農家で高齢ながら元気で

矍鑠としていたはずなのに(僕は友人のお父さんと

直接の面識はありません)あまりにあっけない。

 

高齢なので入院したという話は聞いていましたが

その後回復していたようでしたので田んぼに出るのは

無理でもいろいろ指図しながら(僕だと指図されるのは

嫌いですが穏やかな友人ならそういう構図の中でも

仲良く作業を進められるんだろうなとか思い)田のことや

息子のことをみるんだろうなと思っていました。

 

うちの親父だったら少々悪くても我慢できんで

田んぼに入るだろうなとかも思っていました。

田舎のじいちゃんはみんなそうかな?

 

そういう意味ではうちの親父も「もう田んぼはせん」と

思い切ってくれたのはとてもありがたいことです。

友人のとこみたいに僕は農業はできませんし

スパッとやめてくれれば親父の危険も減るでしょう。

もう何もせんでいいから無事に過ごしてほしいと思います。

でもそれってあの年代の人には耐えられんのだろうな。時々

実家に帰ると田んぼを鋤いてたり畔の草切ってたりしてます。

 

昭和一桁とか10年代とかに生まれた人が続々と

亡くなっていきますが戦前生まれの世代って

やっぱり頑丈だってイメージが僕にはあります。

今100歳の人は大正13年生まれですか。

長く生きているということはやっぱりそれだけ

どこかが頑丈なんでしょう。僕なんかは60年生きてきても

この程度ですから100年生きてもあそこまで頑丈には

なれそうもない。子どものためには僕なんかも

そうならなきゃいけないんだけどな。

 

幸い僕は親を亡くしたことがありません。なので

親を見送った人の気持ちとか苦労とかわかりません。

でもその時が来たら誰だってやってることだから

僕もやるんだろうと思います。思いますが本当に

できるのか自信がない。時々そんなことを考えては

ボーっとしてしまいます。そして忘れて日常に戻る。

 

今もこの同じ空の下に冷たくなった骸とそれを嘆き悲しむ人と

僕がいる。不思議な気しかしません。やがて僕も親を見送る。

もしかしたら他の近しい人も見送ることになるかもしれない。

不思議な気しかしません。そうして僕が死ぬ時にも

誰かが「不思議な気しかしません」と言うものなのだろうか?

 

「無力だなあ」と思います。不死を求める気はありませんが

「無力だなあ」と思います。こういうの無常観って

言うんでしょうか?親を亡くした人は自分の中に

親が生きていると思えた時に悲しみに立ち向かえるんでしょうか?

子を亡くしたりするとそうは思えないから悲しみに

押し潰されてしまうんでしょうか?僕にはわからないけど

できればわからないままでいたいと思います。