「PL育ての親」相馬一比古氏を取材


作家でスポーツライターの山際淳司氏(1948〜95)が、78年11月から12月にかけて「週刊文春」に4回にわたって連載したルポ「ピンク・レディーの1000日」について書いています。今回は、実質的な司令塔としてPLプロジェクトを牽引した相馬一比古氏に関する記述を中心に見ていきたいと思います。


ピンク・レディーの所属事務所、T&Cの制作部長を務めていた相馬氏は、「スター誕生!」でミーちゃんケイちゃんを自らスカウトし、マネージャー兼プロデューサーとしてピンク・レディーを国民的スターに押し上げた、いわば2人の「育ての親」的な存在でした。しかし、当時の数々の資料を読むと、PLプロジェクトのクリエイターたち、即ち作詞の阿久悠氏、作曲の都倉俊一氏、振付の土居甫氏らが大いに脚光を浴びたのに対し、相馬氏はどちらかといえば裏方に徹していたというか、自身がメディアに登場することは比較的少なかったようです。


対照的に、特に78年以降、多くの記事で目にするようになるのは、T&C社長の貫泰夫氏の名前です。貫氏自らが広報、メディア対応を買って出ていたのでしょうが、証券マンから芸能界に転身した貫氏、空前のピンク・レディーブームでメディアから「時の人」として持ち上げられ、少々調子に乗っていたような印象がその発言の端々から感じられます。


それはさておき、2005年に享年60で亡くなり、著書もなかった相馬氏に関してはまとまった資料がなく、いくつかの記事やミーちゃんケイちゃんをはじめとする関係者の話などから、どんな人物だったのかを断片的に知るしかないのが現状です。そうした中で、山際氏は「ピンク・レディーの1000日」で相馬氏を重要な取材対象として取り上げており、相馬氏にまつわる興味深い事実をいくつか紹介しています。その点においても、このルポは貴重な資料であると言えるでしょう。以下、相馬氏に関わる部分を見ていきます。



円陣の中のプロデューサー


相馬氏の名前が最初に登場するのは、連載の第1回(78年11月30日号)、九州で行われたピンク・レディーのコンサートツアーの一場面です。この日の会場、熊本県本渡市(現・天草市)の市民会館には、6千人もの観客が詰めかけました。皆、靴を脱いで床に敷かれたビニールシートの上に座り、幕が上がるのを待っています。


一ベルが鳴り、幕の内側、舞台の中央に相馬氏が現れました。この時、34歳。自らコンサートの構成も手がけ、プロデューサーとしてステージを仕切っていました。開幕を前に、相馬氏はバンドの方を向いて立ち、その後ろにミーちゃんケイちゃん、マネージャー、ダンサー達が並びます。その様子を、山際氏は次のように書いています。


 相馬一比古の合図で、並んだ全員がバンドに向かって頭を下げる。≪ヨロシク、お願いしまーす≫ーー開幕前の儀式だった。そして、ピンク・レディーと相馬プロデューサー、ロード・マネジャーの四人が円陣を組むようにして右手を重ね合わせ、掛け声をかけた。それは高校野球の攻撃前の円陣を思わせる。

 上手に戻ってきた相馬一比古が裏方さんに声をかける。≪OKです≫

 そして、バンドが音を流し始めた。

(「週刊文春」78年11月30日号)


ここに書かれた開幕前の円陣の儀式ですが、そういえば2011年のピンク・レディー再結成コンサートのDVD「Concert Tour 2011 “INNOVATION" 」の特典映像にも、ステージに向かう前に2人がバンドメンバー達と円陣を組み「行くぞ、おおー!」と気合いを入れている場面が収録されています。恐らくかつて相馬氏が中心になってやっていた儀式を、踏襲したのではないでしょうか。


PLのためならカネに糸目をつけない


コンサートが始まると、相馬氏は会場を見渡せる2階席の端に移動しました。そこで山際氏に、ピンク・レディーのコンサートが約1時間で終わる理由を聞かれ、1つには彼女たちの体力の限界、もう1つは観客の子どもたちがステージに集中できるのは1時間が限度だから、と説明します。そして、相馬氏はこんなことを付け加えました。


「ピンク・レディーのステージの照明システムには、四〇〇〇万円かけた。ふつうの照明だと、これほど速く、バラエティに富んだ光は出てこない」

(同上)


たとえ上演時間は短くても、他に負けないクォリティの高いステージを作っているのだという相馬氏の自負が感じられます。考えてみれば、照明だけではなく、衣装は高級服を手がけていたデザイナーの野口よう子(庸子)さんに依頼し、バックバンドには日本のジャズロックのパイオニア、稲垣次郎とソウル・メディアを起用するなど、相馬氏はピンク・レディーのステージを一流どころで固めていました。「良いものを作るためにはカネに糸目をつけない」という相馬氏のポリシーがあったからこそ、華やかでキラキラ輝くピンク・レディーの世界が出来上がったと言っても良いでしょう。


莫大なマネーを稼ぎ出したピンク・レディーですが、実はかけられたコストも相当なものだったと思われます。このことは、やがてT&Cという会社の経営を金銭的に苦しめる要因にもなったのですが、それは別として、ファンの立場から見れば、ピンク・レディーがあの頃はもちろん、40年以上経った今もDVDボックスがリリースされるなど色褪せない魅力あるコンテンツであり続けるのは、お金も手間暇も惜しむことなく彼女たちに注ぎ込んだ相馬氏らの功績がやはり大きいと思います。


貫氏と相馬氏の関係性


そんな相馬氏のことを、社長だった貫氏は著書「背中から見たピンク・レディー」(2014年)で<芸能界に生まれてきた男だった><日常生活の経済感覚はチャランポランだったが制作面では高級志向の垢抜けたセンスを持っていた>と評しています。元は証券会社勤務で芸能の仕事に携わって日が浅かった貫氏にしてみれば、ステージ制作などエンターテインメントの専門性が必要な業務では、いわゆる業界人としての経験や知識が豊富な相馬氏に頼るしかなく、相馬氏がここにお金をかけたいと言えば、ほぼそれに従っていたのではないかと想像します。


一方で、相馬氏には、大手プロダクションの芸映から独立してアクト・ワンというプロダクションを興したものの多額の借金を抱えていたところに、貫氏から声がかかって丸ごとT&Cに吸収されたという経緯がありました。それゆえ相馬氏からすれば、貫氏に頼っていればお金は何とかなる、という感覚があったのかもしれません。


貫氏は山際氏に対し、<ピンク・レディーが稼ぎ出したものは全てピンク・レディーのために投資していく>とも語っています。様々な資料を読んで個人的に思うのは、貫氏や相馬氏などT&Cの幹部は、基本的にピンク・レディーを利用して蓄財しようとか私腹を肥そうとか考えていた訳ではなく、むしろピンク・レディー現象で世の中にインパクトを与えること自体にやりがいと喜び、大げさに言えば「男のロマン」を感じ、ひたすらピンク・レディーの名前を大きくすることをモチベーションにしていたのではないかということです。その意味では純粋で、いかにも昭和のあの時代らしかったと思いますが、一方で会社や事業をいかに持続させるかという経営的な視点が欠けていたことは否めず、そのことがピンク・レディーが解散して半年後の倒産につながったと考えられます。


さて、プロデューサーの仕事以外に、相馬氏には会社の幹部である制作部長としての役回り、またミーちゃんケイちゃんをサポートするマネージャーとしての顔がありました。これらについては、また次回取り上げたいと思います。(続く)