ピンク・レディーの解散後、ケイちゃんこと増田惠子さんが、「すずめ」でソロデビューしてから11月28日でちょうど40年になる。この日開催する自身初の配信ライブで、亡くなった阿久悠氏の未発表の歌詞に、都倉俊一氏がケイちゃんの依頼で曲をつけた新曲「向日葵はうつむかない」を初披露することが、先日明らかになった。文化庁長官に曲を書かせちゃうなんて、さすがはケイちゃん!配信ライブがまた一段と楽しみである。


そのケイちゃんのソロ活動の出発点となったのが、1981年から82年、増田けい子の名で活動していた時期である。それはどんな日々だったのか、前々回、前回に続いて見ていきたい。



ためらいと傷心


82年6月12日、ケイちゃんのセカンドシングル「ためらい」がリリースされた。作詞・作曲はユーミンこと松任谷由実さん。デビュー曲「すずめ」の中島みゆきさんに引けを取らない大物アーティストの作品である。


ただ、書き下ろしではない。最初に発表されたのは、77年。女優の萩尾みどりさんのシングル「大連慕情」(同じくユーミンの作品)のB面に収録された。この時のバージョンはメロディーの一部が違っている。


80年には、ユーミン自身がアルバム「時のないホテル」の中でセルフカバー。81年には宮崎美子さんがアルバムの中でカバー。さらにケイちゃんのシングルの少し後、同じ82年に斉藤慶子さんがやはりアルバムの中でカバーしている。その後、しばらく間が空くが89年には森川由加里さんがシングルリリースした。


ちなみにこの内、萩尾さん、宮崎さん、斉藤さんには大学在学中にデビューしたという共通点がある。当時はまだ、“女子大生タレント”というだけで注目された時代だったのだが、ギョーカイ内でこの「ためらい」は“女子大生が歌うのにうってつけの曲”と見なされていたのだろうか?…それは冗談だが、確かに歌い出しから16や17の少女アイドルには似つかわしくない歌詞だ。


♪手をつなぐほど若くないから

  あなたのシャツのひじのあたりを

  つまんで歩いていたの


主人公の女性には、過去に恋愛で傷ついた経験がある。新しい恋に巡り合い、恋人に惹かれながらも、何気ない彼の態度に「やっぱりうまくいかないのでは」とためらう、女性の繊細な心の動きをユーミンはリアルに描いている。(男性作家にはまず書けないだろう!)


♪もしも新しい このめぐり逢いが

  心の傷あと もうひとつふやす

  ことになろうとも

  勇気を出して うちあけてみた

  昔の恋を さりげなくきく

  あなたは 冷たい人


サウンド的には、3連符を基調としたロッカバラードで、ユーミンっぽい都会的でオシャレな雰囲気はあまりないが、メロディーと詞がうまくマッチして、隠れた名曲と呼んでも良いくらい秀逸な作品になっている。


そしてジャケットの写真を見ていただければわかる通り、当時24歳のケイちゃんの伏し目がちな表情と儚げな雰囲気が、この曲にぴったり合っている。もちろんケイちゃんの歌も良い。


「ためらい」について、ケイちゃんは2012年にリリースしたベストアルバムのライナーノートでこう書いている。


ユーミンの作品です。とても難しい曲でした。確か、レコーディングの直前に事務所の方とハワイに行って、そのハワイの風を感じながら、(思い出しながら)当時は歌っていました。切ない感じを明るく歌うように心がけていました。

(「Colors 〜30th Anniversary All Time Best」ライナーノートより)


ケイちゃんが2004年に出版した著書『あこがれ』によれば、事務所のスタッフとハワイ旅行に出かけたのは、82年のゴールデンウィークだった。従って「ためらい」のレコーディングは発売日から考えても、5月の中旬くらいだったのではと推測される。そして、このレコーディングを終えた直後だと思われるが、ケイちゃんにとって大きな<心の傷あと>となる出来事が襲う。


そのことは後述するが、その前にシングル「ためらい」のB面曲についてもふれておきたい。曲名は「傷心」。作詞は“女ボブ・ディラン”と言われたシンガーの中山ラビさん。そして作曲は小椋佳氏という、これもまた大物が手がけている。調べた限り、他に誰かが歌ったレコードは見当たらないので、おそらくケイちゃんのために書かれた作品であろう。


タイトルから想像される通り失恋の歌だが、春から秋へ、季節の移ろいを織り込んだ歌詞をケイちゃんがドラマティックに歌い上げている。


♪季節がつくった筋立ては

  ひとり芝居の道化役

  Come and go Come and go 

  拍手も待たずに幕になる 


失恋を“芝居”にたとえている点は、やはり小椋氏の作品で同じ82年に梅沢富美男氏がリリース、翌83年にヒットした「夢芝居」にも相通じているように思われる。


ちなみに、この「傷心」は後述するセカンドアルバム「恋するお友達」には収録されず、当時はこのシングルのB面でしか聴けないオリジナル曲であった。(後にベストアルバム「Colors」に収録された。)カバー曲の「ためらい」がA面なのに、なんだか不思議である。


5年目の破局


ケイちゃんと某人気歌手との交際は、この頃5年目に入っていた。結婚に向けてピンク・レディーを解散し、ケイちゃんは1年かけて徐々にフェードアウトしていくという「秘密のシナリオ」が作られていたことは前々回、前回も書いた。


『【ソロデビュー40周年】けい子の時代(1)』ケイちゃんこと増田惠子さんがソロデビュー40周年を記念して、11月28日に初めての配信ライブを行うことが決まった。この日を心待ちにしているファンの方も多いはず…リンクameblo.jp

『【ソロデビュー40周年】けい子の時代(2)』11月28日、ソロ歌手としてのデビューからちょうど40周年を迎えるケイちゃんこと増田惠子さん。ピンク・レディーを解散し、ソロデビューした1981年から82年に…リンクameblo.jp


しかし、ピンク・レディーの解散から1年以上が経過しても、結婚話に具体的な進展は見られなかった。「すずめ」がヒットした頃から、2人は電話で話すうちにケンカになってしまうこともしばしばあったようだ。いつまでも煮え切らない態度の某歌手の本心を問いただすため、本人同士と双方の所属事務所の幹部が、5月、ケイちゃんの家に集まった。


詳細は『あこがれ』を読んでいただくとして、結論だけ言えば、話し合いは最後は修羅場と化し、結婚は破談となった。某歌手の事務所では、専務がケイちゃんとの結婚に賛成する一方で、社長が反対していた。女性ファンが多い某歌手の活動には、マイナスになると考えたのだろう。


だが、周囲の意向はどうあれ、『あこがれ』を読む限り、結局は男本人に覚悟がなかった、その一言に尽きるだろう。実際、そんな男とうまく行くはずはなく、要は縁がなかったのだ。ここで破局したのは、その後の人生を考えると、むしろケイちゃんにとって良かったと思う。


しかし、もちろんそれは今だから言えることであって、当時のケイちゃんは、いきなり地獄に突き落とされた思いだったに違いない。ピンク・レディーを解散してまで一緒になることを望んだ相手に、待たされ続けた挙句、裏切られたのである。ケイちゃんは心に深い傷を負った。しばらくは夜も眠れず、食事も喉を通らず、体をまっすぐにして歩くこともできような状態が続き、さらに長い間トラウマに苦しんだという。


こうして私の命を賭けたおそまつな恋は終わったのだ。心の中に黒い塊を残して。そしてこの塊と十年以上も戦うことになろうとは、誰が予想しただろうか。すべてをもぎ取られたような思いのまま、私は光を失った。光ばかりか二度と傷つきたくないという恐怖から、痛みを感じることもできなくなっていた。長いトンネルの中では、自分の肉体と心を切り離す術さえ身に付けていた。あの頃、私は本当にただ息をしているだけの物体であった。

(増田惠子著『あこがれ』より)


破局から間もない6月に新曲「ためらい」がリリースされた。ケイちゃんは打ちのめされ、憔悴しきった状態だったが、地方でのプロモーションなど仕事のスケジュールはびっしり入っていた。マネージャーに抱きかかえられるようにして現場に入り、仕事をこなしていたという。だが、逆にそうした日々の仕事、つまり<明日を生きなければいけない責任があった>ために、<かろうじて私は朝を迎えられたのだ>ともケイちゃんは書いている。


「いいとも」をめぐる個人的記憶


あの当時、つまり「ためらい」以降のケイちゃんが光を失い、一日一日を生きるのがやっとというような大変な辛さを抱えながら、ギリギリの精神状態で仕事をしていたとは、当然のことながら、世間には全く知られていなかった。


その頃のケイちゃんについて、個人的に唯一憶えていることがある。なぜ「唯一」かというと、僕自身はこの時期、特段ケイちゃんに関心を払っていなかったからである。


以前も書いたが、76年にピンク・レディーがデビューした時、小学5年生だった僕はたちまち彼女たちに夢中になったものの、78年の「モンスター」の頃にはもう熱が冷めていた。中学生になって部活動や友人関係など世界が広がる中で、興味や嗜好がどんどん変わっていく時期でもあった。大人に憧れ、何かと背伸びしたがる年頃で、ニューミュージック系のアーティストがカッコよく、ピンク・レディーが子どもっぽいものに見えたせいもある。


ピンク・レディーが解散し、ケイちゃんがソロデビューした81年には高校生になっていた。もちろんケイちゃんが増田けい子さんになり、「すずめ」のヒットでベストテン番組に出演していたことはよく憶えているが、「ためらい」以後のシングル曲は、実は数年前まではほとんど知らなかったほどだ。


少し遠回りになったが、その唯一憶えていることとは、ケイちゃんが始まったばかりの「笑っていいとも!」(フジテレビ系列)に出演したことである。「いいとも」が新番組としてスタートしたのは82年10月だった。あのタモリ氏(当時は「ネクラ」や名古屋を揶揄した「エビフリャー」など毒を含んだ批評性のある笑いでウケていた。)が森田一義の名前でお昼の顔になるという意外性で、放送開始当初から大きな話題になっていたように思う。


番組前半のトークコーナー「テレフォンショッキング」は、その日のゲストが生放送中に自分の“お友達”に電話して翌日の出演を依頼し、それを毎日数珠つなぎ式に続けていく仕掛けが、当時の視聴者には新鮮だった。第1回(10月4日)のゲストが桜田淳子さん、翌日が土居甫氏で、土居センセイが電話したのがケイちゃんだった。


この時ケイちゃんは、「明日来てくれるかな?」というタモさんの問いかけに、すぐに「いいとも!」と答えなかった。確か「歌わせてもらえるなら、出ます」という趣旨のことを言ったのだ。そして翌日10月6日水曜日の放送で、ケイちゃんは実際に歌ったのである。何を歌ったのか、どんな衣装だったのか、など詳細は全く憶えていない。ただ、この一連のやり取りと「歌わせてほしい」と言ったケイちゃんの生真面目さだけが妙に印象に残っている。お笑いバラエティー番組で、そこまで本気にならなくても、と当時はたぶん感じたように思う。


余談だが、この時僕は高校生だったので、普通なら平日の昼はテレビを見ているはずがない。たまたま中間試験の期間で、学校が午前中で終わっていたのか。あるいは「いいとも」の1週間分のダイジェストを日曜日に放送する「増刊号」が10月24日に始まっているので、そちらで見たのかもしれない。


改めて調べてみると、この時「いいとも」で歌ったのは、おそらくケイちゃんの3作目のシングル「らせん階段」だろう。出演の直後、10月9日にリリースされているのだ。「テレフォンショッキング」は生放送でゲストが翌日のゲストを指名するというハプニング性が視聴者の興味を引いたが、考えてみれば、実際にはある程度は番組側で事前にブッキングをしておかないと成り立たないだろう。淳子さんから土居センセイ、そしてケイちゃんという流れは、新曲プロモーションのための絶好のパスだったのだ。


傷心のケイちゃんに、少しでも良い仕事をして元気を取り戻してほしいと願う周囲のスタッフの努力と、土居センセイをはじめとする関わりのあった人たちの温かい眼差しが、この時期のケイちゃんを励まし、支えていたに違いない。




らせん階段/恋するお友達


その「らせん階段」は作詞・作曲が竹内まりやさん。またまた大物である。ケイちゃんよりデビューは後だが、2歳年上のまりやさんは、この82年の春に山下達郎氏と結婚。しばらくは表舞台には出ず、他の歌手への作品提供に専念していた。ケイちゃんに書いた「らせん階段」はかつての恋人と再会し、<♪前よりもずっと素敵な 恋人になれるわ>と、もう一度やり直せる予感を歌う、ポップで明るい感じの曲。だが、ケイちゃんは後年、正直にこう打ち明けている。


竹内まりやさんに書いて頂いて、とても嬉しかったのですが…当時、大きな恋を失ったばかりで、別れた彼との再会を歌うこの曲は正直きつかったです!(笑)

(「Colors 〜30th Anniversary All Time Best」ライナーノートより)


B面の「アクトレス」は安井かずみさん作詞、加藤和彦氏作曲という、これまた大物夫妻による作品である。前述の「傷心」にも“芝居”というワードが出てくるし、芸名を今の「増田惠子」に変えた後にシングルリリースした桑田佳祐氏の作品「女優」(84年)といい、やっぱりケイちゃんという人にはどこかに“女優性”を感じさせるものがあり、それが作家たちのインスピレーションを刺激するのだろう。


「らせん階段」発売の翌月、11月10日には、この2曲と「ためらい」も収録したセカンドアルバム「恋するお友達」がリリースされた。


よりポップに・よりホットに・ちょっぴりセンチメンタルに…今、けい子の新しい世界が広がります。

(LPレコード帯のキャッチコピー)



前作「ひとりが好き」の<都会で一人暮らしをしているような、ケイちゃん自身と同年代の若い女性の恋愛模様を女性の目線で歌う>というコンセプトは踏襲しつつも、ニューミュージック色が強かった「ひとりが好き」に比べて、この「恋するお友達」の方は、コピーにもあるように、サウンド的には、よりポップで洗練された方向にシフトして行っている。


作家陣もユーミン、まりやさんをはじめ、安井・加藤夫妻、大貫妙子さん、来生えつこさんと来生たかお氏の姉弟コンビなど、特に作詞を全て女性の作詞家が手がけているのが特徴的である。ディレクターは、音楽出版社・日音の恒川光昭氏(後に日音やワーナーミュージック・ジャパンの社長などを歴任)が務めた。アルバムには全部で11曲が収録されている。


安井・加藤夫妻による作品は、前述の「アクトレス」を含めて3曲。アルバムの1曲目「ラブ・マジック」はいきなり官能的、刺激的な歌詞で、恐らく加藤氏が新しい大人のポップスを目指して書いた意欲作だったと思われる。ケイちゃんが後年書いた「Colors」のライナーノートによれば、加藤氏から「もっとエッチっぽく歌って」と熱心な歌唱指導があり、ケイちゃんも面白がってレコーディングしたようだ。


「ひとり暮らしの恋」は文字通り、都会で働く一人暮らしの女性の、なかなか会えない恋人への思いを歌う。マイナーからメジャーに曲調が変わる後半、ケイちゃんが珍しくファルセットを駆使して高音で歌い続ける部分が聴きどころでもある。


大貫妙子さんの作品は2曲。「恋人達の明日」はカバー曲で、オリジナルは大貫さん自身が81年にシングルリリースしている。失恋の歌だが、サウンドは80年代らしい軽やかなアップテンポのシティーポップ。<♪でも時が経てば 人も街も 新しく甦る>…だから気持ちを切り替えて行こう、と前を向く歌詞が逆に切なさを際立たせる。後に白石まるみさん(83年)、大石恵さん(98年)もカバーしている。


書き下ろしの「雨ふり」は、タイトルがちょっと童謡を思わせる、しっとりした佳作。水墨画の世界のような雨の中で、一つの傘に寄り添う恋人達の淡い恋の歌である。「ラブ・マジック」とは対照的なこういう素朴な雰囲気の曲も、ケイちゃんにはよく似合っている。


ユーミンの曲は「ためらい」の他に、呉田軽穂のペンネームで書いた「心のとびら」が収録されている。カバー曲で、オリジナルは79年に水越けいこさんがリリースした「ほほにキスして」のB面に収録されている。もともとは、水越さんが出演していたTBS系の朝の番組「8時の空」で歌われていた。スカなのかカリプソなのか、カリブ海テイストのアレンジで、ケイちゃんがキュートに歌っている。


竹内まりやさんは「らせん階段」に加えてもう1曲、オリジナル曲を提供している。タイトルは、「55ページの悲しみ」。彼の部屋で別の女性のラブレターを見つけてしまった、という昔のメロドラマのような歌である。


「Yesterday & Today」も明るいシティーポップのサウンドに乗せて、失恋を歌っている。作詞の島エリナさんは80年代にアニメの主題歌やアイドルの楽曲などの詞を手がけた。作曲の田中真美さんは、後年ディスカウントストアのドン・キホーテに入社し、店内で流れるテーマ曲を作曲するなどして注目された。現在は田中マイミさんとして活動されているようだ。


アルバム最後の曲「Good-Bye Again」は、作詞が来生えつこさん、作曲が来生たかお氏。この姉弟のコンビは、82年の音楽界において一番の売れっ子作家だった。81年11月に薬師丸ひろ子さんが同名の主演映画の主題歌としてリリースした「セーラー服と機関銃」が、同じ曲をたかお氏自身が歌ってほぼ同時にリリースした「夢の途中」とともに大ヒット。さらに大橋純子さんが歌った「シルエット・ロマンス」(81年11月)や中森明菜さんの「スローモーション」(82年5月)、「セカンド・ラブ」(同11月)など今も歌い継がれる名曲をこの時期に生み出している。


そんなヒットメーカー、来生姉弟がケイちゃんに書いた「Good-Bye Again」は、ノスタルジックでメロウな来生サウンドそのもの。<♪もう一度さよなら 恋人時代 これからは それぞれの道があるわ>と歌うケイちゃん。大人の女性シンガーとして、ピンク・レディー時代とは違う魅力を充分に感じさせる。


エピローグ


約1年の間に、ソロ歌手として3枚のシングル、2枚のアルバムをリリースし、同年代の若い女性たちに共感してもらえるような大人のシンガーとして、新たな可能性を見出そうとしていたケイちゃん。だが、82年の終わりに、増田けい子から増田惠子に名前を改め、翌83年は女優業に力を入れるとして、歌手活動を休止する。


はっきりした理由はわからないが、歌手を続けている以上は、別れた元の恋人と同じ現場になる可能性だってある。それはやはり耐えられないことだったに違いない。


また現実問題、日本のポピュラー音楽界は「82年組」と言われる新しいアイドルが台頭するなど相変わらずティーンズ向け市場が中心だった。奇しくもこの年、ケイちゃんと所属事務所(研音)とレコード会社(ワーナー・パイオニア)が全く同じ中森明菜さんがデビューし、一躍トップ歌手に踊り出たのは象徴的である。


一方でその上の年代のリスナーは、自作自演のシンガーソングライターたちをアーティストとして崇める傾向が強く、そんな中で9月に25歳になったケイちゃんが、ある程度セールスを確保しながら大人のシンガーとしてのポジションを確立できるような成熟した環境にはなかったのである。


そうして「けい子の時代」は、1年余りで終焉を迎えた。やや後味の悪い終わり方だったかもしれないが、「すずめ」のヒットをはじめ、80年代を代表する多彩な才能との豪華なコラボレーションが、その後のケイちゃんのシンガー、エンターテイナーとしての糧になっていることは間違いない。そして光を失うような辛い出来事を、長い時間をかけて乗り越えたからこそ、いつも輝いている今のケイちゃんがあるのだろう。


ケイちゃんのその後の活躍については、また機会があれば書いてみたい。最後までお読みいただきありがとうございました。(終)


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