この8月でデビュー45周年を迎えたピンク・レディー。「スター誕生!」でスカウトされたミーちゃんケイちゃんが、プロ歌手を目指して故郷・静岡から上京したのは、デビューの約4か月前、1976年4月12日のことだった。


2人が東京で初めて住んだのは、渋谷区富ヶ谷。山手通りと井ノ頭通りが交わる辺り、NHKや代々木公園、東京大学駒場キャンパスなどに近い、都心の住宅街である。近年は渋谷の繁華街の奥にありつつ、静かで落ち着いた佇まいが魅力の「奥渋」エリアの一角としても注目を集めている。


この街で、輝かしいキャリアの第一歩を刻んだピンク・レディー。しかし、ここでの生活には、表舞台の華やかな活躍からは想像できない困難もあったようだ。プロ歌手としての出発点、富ヶ谷でいったい何があったのか?2人をはじめ、関係者の回想などをもとに、まとめてみたい。


富ヶ谷の交差点(Googleストリートビューより。本文とは直接関係ありません)

富ヶ谷公園(同上)


坂の上の大きな家


静岡から上京した日、ミーちゃんケイちゃんは赤坂にあった所属事務所T&Cのオフィスに立ち寄った後、制作部長の相馬一比古氏に連れられて地下鉄千代田線に乗り、代々木公園駅で下車して富ヶ谷の下宿先へ向かった。ケイちゃん(増田惠子さん)は2004年に出版した自叙伝『あこがれ』で、その家を初めて訪ねた時のことをこう書いている。


井ノ頭通りから細い路地を入り、坂道をかなり歩いて上り切った突き当たりの大きな木造の家だ。向かい側は何処かの国の大使館だった。ブロック塀で囲まれており、ブロックの上からは緑が覗いていて犬の声が聞こえていた。

 玄関を開けるとおばさんの声がした。「ハーイ」中から出てきたおばさんは、少々太めの優しそうな人だった。「お袋、今度デビューする二人だよ。よろしく頼む」そう言って相馬さんはそそくさと靴を脱いで中に入っていった。

(増田惠子著『あこがれ』より)


この坂の上の大きな家は相馬氏の実家で、家主である“おばさん”は相馬氏の母親だった。これ以前、相馬氏が芸映のマネージャーだった頃には、この家に西城秀樹さんや相本久美子さんが住んでいたこともあったという。相馬氏は所属タレントを実家に住まわせ、下宿代を会社から母親に支払わせることで、いわゆる“小遣い稼ぎ”をさせていたのだろうか。あるいは、息子の仕事の手助けになればと母親が無償で部屋を提供していたのか、その辺りの事情はわからない。


ケイちゃんによると、最初のうちは“おばさん”が朝食を作ってくれたというから、一応は賄い付きという体裁だったようだ。ただ、実態はいわゆる素人下宿で、そもそも“おばさん”には、経営者として顧客である下宿人のためにきちんとサービスを提供しようという意識はほとんどなかったようだ。それどころか、彼女はこの日静岡からミーちゃんケイちゃんに付き添って来たお母さん達に<「(前略)花嫁修業のつもりで、どこへ出してもいいお嬢さんね!と言われるようにビシビシと接するつもりです」>(『あこがれ』)と言い放ったのである。


これは時代のせいもある。昭和のホームドラマでよくあった設定だが、この頃はまだ都会の商家やお屋敷では、従業員だったり、お手伝いさんだったり、地方から出てきた若者などを雇って家に住まわせるのは珍しいことではなかった。たとえ雇用関係にない下宿人であっても「間借りさせてやっている」「居候させてやっている」と上から目線で接する年長の家主は多かったのだろう。落語じゃないが、昔から「大家と言えば親も同然」ともいう。


翌日の朝早く“おばさん”は2人を起こすと、毎朝出かける前の日課として、家と庭の掃除をするように申しつけた。中庭をコの字型に囲む2階建ての家にはいくつも部屋があり、庭も含めて全て掃除するのに1時間は優にかかったという。この朝のお勤めは、2人がデビューした後も続き、なんと「カルメン‘77」がヒットしていた頃までやらされていたというから驚きである。


ケイちゃんはこの家を「呪いの館」と呼び、『あこがれ』には“おばさん”との間で生じた数々の攻防戦をユーモアを交えて書いている。読んだ印象では、“おばさん”は悪い人ではないのだが、少々気まぐれなのと、何より「自分ファースト」だったようだ。たかだか下宿人のために自分の生活のペースを曲げるような面倒なことはしたくない、というタイプである。いずれにしても、数々のエピソードをここで逐一紹介する訳にもいかないので、詳しくはぜひ『あこがれ』を読んでいただきたい。


2段ベッドの運命は


ところで、2人が東京で新生活を始めるにあたって、前もって相馬氏に要望していた物があった。ケイちゃんが<私たちの夢だった>とまで書いているその物とは、2段ベッドである。電話で聞いた相馬氏は驚いたようだが、これはあの時代の雰囲気として、わからなくもない。


戦後、日本では生活スタイルの洋風化が進んだ。60年代半ばに15%に満たなかったベッドの普及率は、70年代の終わりには50%近くにまで伸びている。特に2段ベッドと学習机がある子ども部屋というのが、この頃の少年少女の憧れでもあった。


上京した時、ミーちゃんケイちゃんはともに18歳だったが、まだそういう無邪気で子どもっぽいところがあったようだ。誰に限らず中高生の頃など、友達の家に泊まりに行って、一緒にいるだけで訳もなく楽しいという時期があったりするが、そんな気分もあったのではないか。


富ヶ谷の家で、最初に2人にあてがわれたのは、1階の奥の6畳くらいの2部屋で、一続きになっていた。その片方の部屋に相馬氏が用意した2段ベッドを置き、一緒に寝起きすることにしたのである。ジャンケンの5回勝負で勝ったケイちゃんが上の段、ミーちゃんが下の段で寝ることになった。


ところが、問題が起きた。ケイちゃんの寝相が半端なく悪いのである。2段ベッドの上段から、いろいろな物が落ちてくる。ある時は布団が一続きになった隣の部屋まで飛んでいた。またある時は下段のミーちゃんの顔の近くにケイちゃんの目覚まし時計が落ちていた。さすがに危険だというので、以後はミーちゃんと上下を交換した。この他、ケイちゃんは寝ていて全く覚えがないのに、ベッドの手すりにぶつけたらしく、顔にアザができたこともあった。


そこでついに、夢だった2段ベッドは解体され、2つのベッドを横に並べて寝起きするようになったのである。それは恐らく76年の12月頃、ちょうど「ペッパー警部」が遅まきながらヒットし「S・O・S」もリリースされて人気が出てきた頃だと思われる。この時期の2人の部屋を撮影した珍しい映像が今も残っている。


77年1月20日放送「スターどっきり㊙︎報告」(DVD「ピンク・レディー in 夜のヒットスタジオ〜フジテレビ秘蔵映像集」より引用)


77年1月放送の「スターどっきり㊙︎報告」(フジテレビ)である。芸能人が寝ているところをリポーターとカメラクルーがいきなり(という体裁で)襲う「寝起き」のコーナーで、この時は指揮者のダン池田氏が富ヶ谷の2人の部屋を訪れた。池田氏のインタビューに対し、ケイちゃんが、2段ベッドが横並びになるに至った前述のエピソードを語っている。


「家バレ」していたユルい時代


これに限らず、ピンク・レディーの場合、雑誌のグラビアなどにも、実際に彼女たちが生活している部屋が登場することが少なくなかった。同時代の他のアイドルがどうだったかは確認していないが、やはり当時はプライバシーや個人情報に関する世の中の意識が、今よりもかなりユルかったことは間違いない。


今年の10月をもって、50音別電話帳「ハローページ」の発行、配布が終了するそうだ。個人情報保護の意識の高まりなどで掲載数が大きく減ったからだが、昭和の頃はどの家でも、電話帳に世帯主の名前と住所を掲載するのはごく当たり前だった。また、今もよく語られることだが、プロ野球の選手名鑑には、王、長嶋といったスター選手も含めて、自宅の住所などの個人情報が普通に掲載されていた。恐らくファンレターを送りたいという読者のニーズに応えるためだったろうが、今では全く考えられない。


そして、実はピンク・レディーもデビュー当時、2人が住む富ヶ谷の家の住所が、ファンレターのあて先(T&Cミュージック友の会 ピンク・レディー係)として公開されていたのである。もちろんこれだけでは、まさかここに本人たちが住んでいるとは思わないし、まだ2人が売れるかどうかわからない段階だったこともあるだろうが、今から見ればリスク管理の上でも問題ありと言わざるを得ない。(念のために付け加えるが、今は当時の建物はない。)


案の定、彼女たちが一躍人気者になると、やはりファンが富ヶ谷の家に押しかけるようなこともあったようだ。ケイちゃんは当時出版されたタレント本の中で、こう発言している。


家のまわりにファンの人が集まって、日曜日とか夜遅くまで……、近所には迷惑がかかるし、ケイ達住む所がなくなっちゃう。お願い!他の人の迷惑を考えて下さい。

(77年4月発行『ピンク・レディー ケイとミーの作った本』より)


“育ての親”が見た富ヶ谷時代の2人


テレビやステージでは、いつも溌剌と歌い、踊っていたミーちゃんケイちゃんだが、実生活では“おばさん”との関係もあり、いろいろ気を遣うことも多かったようだ。


富ヶ谷時代の2人を、ピンク・レディーの“育ての親”相馬一比古氏はどう見ていたのか。80年9月にピンク・レディーが解散を発表した直後、相馬氏は週刊誌の取材でこう振り返っている。


 二人はウチの六畳の部屋で一緒に生活していました。

 ミーのほうは両親の躾が厳しかったせいか、掃除、洗濯、料理と、よくやってました。

 ケイはすごく気を遣うほうで、オフクロなんかと話が合ってました。

 ケイのほうは、すごい偏食でね。ピーマンなんか最初のウチは全く箸をつけなかった。

(「週刊読売」80年9月21日号)


2段ベッドやピーマンのエピソードなど、上京当時はまだ無邪気な子どもっぽさも残っていたミーちゃんケイちゃんだが、この富ヶ谷での生活を通して、様々な困難に遭いながら、プロ歌手として成長していくのである。(続く)


ケイちゃんに叱られる!(別館)ピンク・レディーをもっと知る!リンクkayrose65.wp.xdomain.jp