ピンク・レディーがデビューしたのは、1976年8月25日。まもなくちょうど45年になる。


「ペッパー警部」で彗星の如く登場し、たちまちスターダムに駆け上がった2人は、歌謡曲の歴史を塗り替える圧倒的な成功を収め、社会現象と呼ばれる巨大なブームまで巻き起こした。


華やかな活躍は、レコード音源やテレビ出演の映像、新聞・雑誌の記事などによって今に伝えられている。また、その舞台裏に関しても、関係者の回想などで数々のエピソードが語られ、半ば「伝説」となっているものもある。


そうしたエピソードの一つに「実は“白い風船”の名でデビューすることになっていた」という有名な話がある。結果的には作曲家の都倉俊一氏がカクテルの名前から思いついた“ピンク・レディー”が採用された訳だが、もし都倉氏の提案が無かったら、ほんとうに“白い風船”になっていたのか?そうなる可能性はどれくらいあったのだろうか?


今回は、ミーちゃんケイちゃんはじめ様々な関係者の話をもとに、ピンク・レディーがデビューするまでの動きを整理しつつ、考えてみたい。



1976年8月29日放送「スター誕生!」デビュー曲コーナー(「Singles Premium」DVDより引用)


“白い風船”の記憶


“白い風船”に関して、まずはご本人たちがどう言っているか、確認しよう。ケイちゃん(増田惠子さん)が2004年に発表した自叙伝『あこがれ』には、次のように書かれている。


上京して一ヶ月ほど経った頃だろうか。具体的にデビューの日や、キャッチフレーズ、そして芸名などが決まり始めた。デビューは八月二十五日。そして、芸名はニ、三候補が上がった。

「みかん箱」

「ちゃっきり娘」

「白い風船」

どれを取ってみても、今までの苦労が水の泡と化すことは間違いない名前だ。目の前が真っ暗になった。しかし、やっと就職させていただいた会社だ。文句は言うまい、と口をつぐんだ。(中略)

それに、私たちがいちばん恐れていたことがみんなの頭の中にインプットされてしまっているらしい。私たちのイメージはフォークだったのだ!

(増田惠子『あこがれ』より)


上では3つの候補名を挙げているが、ケイちゃんは「Singles Premium」(2011年)のブックレットでは<一時、芸名が“白い風船”に決まっていたこともあって、デビュー曲はフォーク路線になるのかなって思っていたんです>と回想しており、トーク番組などでも同様の発言をしている。


一方のミーちゃん(未唯mieさん)もまた、3年前の夕刊紙の記事でこう語っている。


芸名は『白い風船』だと聞いたので、サインの練習もしていました。でも私は歌って、踊ってがやりたかったんです

(2018年7月4日、zakzak:夕刊フジ公式サイトより)


ミーちゃんケイちゃんがプロデビューのために故郷・静岡から上京したのは、デビューの年の4月12日である。その1か月後の5月頃には、2人とも①グループ名は“白い風船”に決まった、②それはフォークソング路線で売り出されることを意味する、③「歌って踊りたい」自分たちとしては不本意だが仕方がない、という共通の認識を持っていたことは間違いなさそうだ。


当時2人は高校を出たばかりの18歳。右も左も分からない東京の芸能界で、ただただ“大人たち”の言うことに従うしかなかったのである。


フォークソングとピンク・レディー


なぜ彼女たちがフォークソングなのか?ファンの方ならよくご存知だと思うが、それは2人のデビュー前の歩みとも関係している。


静岡市の中学、高校で同級生だったミーちゃん(根本美鶴代さん)とケイちゃん(増田啓子さん)は、ともに歌手を志し、高校2年の時、浜松市のヤマハのボーカル・スクールに通い始める。ここでデュオ“クッキー”を結成し、ヤマハが主催するポプコン(ポピュラーソングコンテスト)に出場するなどアマチュアとして活動。トム・ジョーンズやスプリームスが好きだった2人は、この頃からホットパンツ姿で、アップテンポの曲を振りをつけて歌っていたという。


やがてヤマハのプロ歌手オーディションに合格するが、デビューの話がないまま高校卒業が迫ってきたため、やむなくテレビのオーディション番組への出場を決意する。


最初に挑戦したのは、フジテレビ系列で放送されていた「君こそスターだ!」である。この時もホットパンツの派手目な衣装で、振りつきで歌ったが「素人らしさがない」などと酷評され、不合格となった。


そこで、もともと“本命”と考えていた「スター誕生!」(日本テレビ系列)では、あえて垢抜けないサロペット姿で出場、振りも控え目にしてハーモニーを聴かせることに重点を置いたという。


この作戦が功を奏したのかはわからないが、2人は75年12月のテレビ予選で無事合格。翌76年2月収録(放送は3月14日)のグランドチャンピオン大会で、8社のスカウトマンから合格のプラカードが上がった。


1976年3月14日放送「スター誕生!」第16回グランドチャンピオン大会(「Singles Premium」DVDより引用)


2人が歌ったのは、ヤマハ出身の女性グループ「ピーマン」が74年にリリースした「部屋を出て下さい」。誰もが知るヒット曲だと“ご本人”と比べられて損をするので、あえてヤマハ関係のマイナーな曲を選んだ、という。この曲自体はフォークソングと言えなくもないが、エレキギターのフレーズが印象的なアレンジからしても、むしろマイルドなポップスと言った方がふさわしいように思う。同じグランドチャンピオン大会で優勝した清水由貴子さんが歌った「なごり雪」(ちょうどこの頃イルカさんのカバーがヒットしていた)と比べれば、違いは明らかだろう。


ミーちゃんケイちゃんは、決してプロになってフォークを歌いたいと望んでいた訳ではない。しかし、当時ポプコンなどでフォーク系シンガーを多く輩出していたヤマハで学ぶ2人が、ヤマハ関係の楽曲を、イルカさんを彷彿とさせるサロペット(オーバーオール)姿で歌ったことにより、関係者にもテレビの前の視聴者にも、フォークソングのイメージが強くインプットされてしまったのである。


キーマンたちはどう考えていたのか


この時、ミーちゃんケイちゃんにプラカードを上げた8社のスカウトマンの中に、彼女たちが契約するレコード会社ビクターのディレクター飯田久彦氏(60年代には歌手として活躍。「ルイジアナ・ママ」などのヒットで知られる)と、所属事務所T&Cの制作部長となる相馬一比古氏(この時は自身が立ち上げたアクト・ワン・エンタープライズの社長。同社は元証券マンの貫泰夫氏らが設立したT&Cに吸収される)がいた。


飯田氏は、2000年のインタビューでこう回想している。


ちょうどその頃ピーナッツ(ザ・ピーナッツ)さんが引退しちゃってね、ピーナッツさんって、接点もあるし、大好きだったのよ。(中略)そういうデュエット作りたいなって思ってたら、たまたま行った時にあの二人が出て来たの、それでパッと挙げちゃったのよ。会社帰ったら怒られてね。

(音楽業界総合情報サイト「Music Man」2000年3月1日のインタビュー記事より)


会社で(恐らく上司たちから)怒られたのは、この時14社から指名を集めて優勝した清水由貴子さんにプラカードを上げなかったからに他ならない。ただ「スタ誕」で桜田淳子さん(73年デビュー)や岩崎宏美さん(75年デビュー)といった大物を既に獲得しているビクターが、これだけ多くの会社が競合する中で、何が何でも清水さんを獲りに行くのは業界内で反感を買うことになりかねない、とも飯田氏は考えたようだ。


いずれにせよ、この時飯田氏の脳裏に浮かんだのは、60年代の日本の歌謡ポップスを代表する女性デュオ、ザ・ピーナッツのイメージであり、決してフォークソングではなかったのである。


そしてもう1人、「PLプロジェクト」の中心人物となったT&Cの相馬氏は、ピンク・レディーが解散を発表した直後の80年9月、週刊誌の記事で「スタ誕」で2人をスカウトした理由をこう語っている。


 ぼくはずっと芸能界でどんなタレントが一番興味をひくかな、ってのは色々考えてきた。もう一つ、アメリカで商売になるタレントを作りたいというのがありました。それは男じゃだめです。

 背が高く、歌って踊れて、姉妹でない二人組っていうのが条件でした。

 二年ほど探しました。「スター誕生」で初めて彼女たちを見たんです。外見は理想的でした。

(「週刊読売」80年9月21日号より)


大手の芸能プロダクションでいしだあゆみさん、西城秀樹さん、浅田美代子さんなどのマネージメントを経験してきた相馬氏が、2年もかけて巡り合った理想の逸材が、ミーちゃんケイちゃんだったのである。「アメリカで商売になる」「歌って踊れ」ることをスカウトの条件にしていた相馬氏が、2人にフォークソングを歌わせたいと望むことは、まずなかっただろう。


4月12日に2人が上京すると、渋谷区富ヶ谷にあった相馬氏の実家が寮になった。彼女たちは最初は同じ6畳間で一緒に寝起きし、そこから新宿の日本テレビ音楽学院などへ、デビューに向けてのレッスンに通った。ボーカルの講師は大本恭敬氏など、そして週2回のダンスの指導は土居甫氏であった。恐らく「スタ誕」の合格者は同様のレッスンを受けたのだろうが、もしフォークソング路線で行くのであれば、週2回もダンスを習う必要はなかっただろう。


T&Cの社長だった貫氏によると、デビュー前の2人は<どこへ行くにも、ジーンズのショートパンツ。その姿で、渋谷富ヶ谷、新宿、赤坂を闊歩していた>(貫泰夫『背中から見たピンク・レディー』より)という。


あの当時、身長165センチと162センチの若い女性の2人連れがホットパンツ姿で歩いていたら、いくら大都会・東京でも、かなり人目を引いたことだろう。相馬氏が2人に普段からホットパンツで過ごすよう、指示していたようだ。このことからも、相馬氏の頭の中にフォークソング路線があったとは全く思えない。


ちなみに赤坂にはT&Cのオフィスがあったが、ケイちゃんによればある時赤坂見附の駅の階段でスカウトマンが「デビューしませんか」と声をかけてきた。もちろん断った2人だったが、デビュー後に仕事先でこの人物と再会した。なんと狩人(77年デビュー)のマネージャーになっていたそうだ。


誰が“白い風船”を推したのか


静岡出身の2人組のデビューに関して、中心的な役割を担うビクターの飯田氏、T&Cの相馬氏がいずれもフォークソング路線を念頭に置いていなかったことは明らかである。では、フォークを思わせる“白い風船”というネーミング案は、どこから出てきたのだろうか?


前出の貫氏の著作に、名前がピンク・レディーに決まる前の話として<ビクターでNTVの池田プロデューサーも交えて命名会議があったが、結論が出なかった>という記述がある。これが一つの手がかりになるかもしれない。


「NTVの池田」とは「スタ誕」のチーフ・プロデューサーだった日本テレビの池田文雄氏のことである。「スタ誕」という番組は、プロ歌手を目指す挑戦者がオーディションに合格し、決戦大会でスカウトマンたちが獲得の意志を示すプラカードを上げれば、一応“めでたしめでたし”となる。しかし、日本テレビ(番組スタッフ)との関わりは、そこで終わる訳ではなかった。


複数のレコード会社、プロダクションが手を挙げた場合は、日テレが合格者や保護者との間に入って所属先を調整し「日本テレビ音楽委員会」が最終決定する。さらに所属が決まった後も、レコード会社、プロダクションとともに検討会を開き、デビュー日程や芸名など、売り出しの方針を決めるのに関与するのである。


貫氏が「命名会議」と書いているのも、こうした検討会の一つだったと考えられる。出席者が誰だったか正確にはわからないが、名前が出ている池田氏の他に、直接の担当者であるビクターの飯田氏、T&Cの相馬氏がいたことは間違いなく、他にも日テレ、ビクター、T&Cから何人か出席していたかもしれない。


T&Cは発足したばかりの小さな会社で、制作に関しては相馬氏が仕切っていたが、ビクターは飯田氏の上司(例えば宣伝部長だった久野義治氏など)が同席し、意見を言った可能性はある。飯田氏は41年生まれ、相馬氏は44年生まれでどちらも当時30代前半だったのに対し、番組のチーフ・プロデューサーとして権威があった池田氏は33年生まれの43歳。もし仮に、池田氏やビクターの上司がフォーク路線の“白い風船”を推してきたとしたら、相馬氏や飯田氏が面と向かって否定するのは難しかったかもしれない。


ただ、貫氏によると、会議で結論は出ていない。ここからは憶測だが、検討会(命名会議)では「これだ」という良い案が浮かばず、かといってデビューの準備を進める上で、2人の呼び名がないのも困るので、とりあえず“白い風船”を仮のグループ名とした、ということは考えられないだろうか。


“白い風船”という名前自体は、相馬氏が芸映のマネージャー時代に担当した浅田美代子さんの代表曲「赤い風船」から来ているように思える。浅田さんがレギュラー出演していたテレビドラマ「時間ですよ」の劇中歌で、浅田さんや堺正章さんがギターを弾きながら歌い、ヒットしたフォーク調の曲である(作詞は安井かずみさん、作曲は筒美京平さん。作り手はバリバリの歌謡曲の人たちだった)。ちなみに、この時の浅田さんの役名は「相馬ミヨコ」で、当時の業界では、相馬氏といえば「赤い風船」というイメージがあったのかもしれない。


会議といっても、いわゆるギョーカイ人の集まりである。熟慮の末というより「相馬ちゃんのところだから、“白い風船”でいいんじゃない?ワッハッハ」みたいな軽いノリで出てきた名前なのではないか。ケイちゃんが憶えている“みかん箱”や“ちゃっきり娘”に至っては、静岡出身の2人をからかっているとしか思えない。


「スタ誕」で多くのスター候補生を俯瞰して見ている池田氏には、ミーちゃんケイちゃんに特別な思い入れがあった訳でもないだろうし、ビクターの上司にしても、もともと清水由貴子さんを獲れば良かったと考えていた訳で、直接彼女たちを手がける飯田氏や相馬氏とは本気度が違う。逆に言えば、飯田氏、相馬氏の反対を押し切って“白い風船”をごり推ししてくる熱意もなかったはずだ。従って、グループ名が最終的に“白い風船”になった可能性は、限りなくゼロに近かったと考える。


ミーちゃんケイちゃんに相馬氏がどのように伝えたのかはわからないが、上京したばかりの純朴な18歳の少女たちには、まだギョーカイのノリというか、そのあたりのニュアンスが分からず「君たちは“白い風船”だ」と言われたら、極めて真面目に受け止めたに違いない。そして日々の厳しいレッスンを終えた夜、健気にも自分たちで一心にサインの練習に励んだのである。


阿久悠氏の関わり


「スター誕生!」の企画者で、審査員の一人でもあった作詞家・阿久悠氏は、同じく審査員の作曲家・都倉俊一氏とともに、ピンク・レディーの一連のヒット曲を手がけることになるが、日テレ、ビクター、T&Cの検討会には参加していなかったらしい。阿久氏、都倉氏とも超売れっ子で本業の作詞作曲が忙しく、とても個別の会議にまで付き合っている暇はなかっただろう。それに阿久氏は、作家として作品の提供はするが、個々の歌手の活動方針などに、当事者として関わらないというスタンスを貫いていたようだ。


貫氏の著作によると、阿久氏にデビュー曲の作詞を依頼したのは、ビクターの飯田氏だった。阿久氏は「ポップスで行くなら引き受ける」として、作曲者に都倉氏を指名したという。筒美京平氏も候補だった(検討会での話か)というが、飯田氏も最初から都倉氏に頼むことにしていたようだ。


ただし阿久氏自身は、こう書いている。


デビュー曲は、都倉俊一と組んでやることになっていた。いや、むしろ、彼女たちの能力をいくらかでも買っているという点で、都倉俊一が先に決まっていたように思う。彼が引き受け、どうせなら阿久さんと、ということになったに違いない。

(阿久悠『夢を食った男たち』より)


飯田氏がどちらに先に声をかけたのかはわからないが、それはどうでもよいことだろう。実際のところ「スタ誕」の審査員席で並んで彼女たちの歌を聴いていた阿久氏と都倉氏が、まさに阿吽の呼吸で引き受けたということではないだろうか。


“白い風船”については、阿久氏は上の著書で<ビクター・レコードが、最初に彼女たちに用意した名前>だとしている。阿久氏がそう思ったのは、検討会で出たこの名前を、ビクターの飯田氏から聞かされたからであろう。飯田氏はレコード会社のディレクターとして、阿久氏、都倉氏とこまめに連絡を取り、橋渡し役を務めていた。


話を聞いた阿久氏は、“白い風船”の名は<フォークそのもの>であり、<フォーク・ソングに拘泥わる以上、絶対に売れないだろう>と完全否定。さらに、フォークソングは一種の草の根運動であり<テレビのオーディション番組でスタートして、草の根の支持を得ようっていうのは、ムシが良すぎるよ>と自論を展開したという。


だが、そう言いながらも、同じグランドチャンピオン大会で「なごり雪」を歌って優勝し、満を持して翌77年春にデビューした清水由貴子さんには、阿久氏はフォーク調のデビュー曲「お元気ですか」(作曲は三木たかし氏)を書いている。上の自論と明らかに矛盾しているのだが、まあ何事にも例外はあるということか。


ともかく阿久氏としては、それ以前にも実績のある都倉氏と組んで、ミーちゃんケイちゃんという未知の素材で、おもちゃ箱をひっくり返したような、非日常のエンターテインメント路線を展開したかったのである。


ピンク・レディー誕生


ほどなく阿久・都倉コンビによって「ペッパー警部」が作られ、都倉氏の指導でミーちゃんケイちゃんのレコーディングが行われる。そしてグループ名は都倉氏がカクテルの名前から思いついた“ピンク・レディー”に決まる。(阿久氏の前出の著書では、ピンク・レディーの名前が決まってから「ペッパー警部」を作ったように書かれているが、恐らく記憶違いだろう)


ミーちゃん(未唯mieさん)は、2006年のインタビューでこう語っている。


曲の振り付け中にピンク・レディーになりました。6月の頭くらいに楽曲ができあがって、私たちだけのための振り付けの練習が始まっていて。その途中くらいでしょうか。

(「プラチナ・ボックス」ブックレットより)


それまで日本テレビ音楽学院でのダンスレッスンは、他の生徒たちと一緒に受けるものだったが、「ペッパー警部」のレコーディング後、2人だけを対象にした土居甫氏の特別レッスン、あのユニークな振付の猛特訓が始まった。その最中に、ピンク・レディーが誕生したのである。


土居氏に振付を依頼したのは相馬氏だった。土居氏によると、最初は相馬氏から「キャンディーズのイメージで売り出したい」と言われたという。土居氏はこれを否定し、キャンディーズのような可愛らしさではなく、ミーちゃんケイちゃんの「ワイルドな感じ」を生かす振付を目指した。


そして「ペッパー警部」の例の振付が生まれ、その振付がまた物議を醸すなど、デビュー前の話に限ってもまだまだエピソードは尽きないが、キリがないので、それらについてはまた別の機会に譲ることにしたい。


ケイちゃんに叱られる!(別館)ピンク・レディーをもっと知る!リンクkayrose65.wp.xdomain.jp