1979年にリリースされたアルバム「ピンク・レディーの不思議な旅」は、「世界を巡る恋の旅」をコンセプトに、阿久悠氏が作詞を手がけ、7人の作曲家が競作した実験的な作品である。
前年までの大ブームが一段落して、この年本格的にアメリカでレコードデビューを果たしたピンク・レディー。アメリカ進出の話題に隠れたせいか、この「不思議な旅」については、当時の情報がほとんどなく、今となっては謎多きアルバムとなっている。
こうしたことを、前回の記事で書いた。こちらもお読みいただければ幸いである。
今回から、個別の楽曲について書いていく。まずは最初の4曲に耳を傾けてみたい。
1:オープニング・テーマ
ヨガの瞑想を思わせるような、神秘的なシンセサイザーの響きで静かに始まる。シンセサイザー奏者でもあった深町純氏の作・編曲によるインスト曲である。当時シンセサイザーは日本ではまだ物珍しく、それまで聴いたことのないような不思議な音色が何種類も重なり合って独特の雰囲気を醸すこのオープニングは、とても鮮烈な印象を与えたに違いない。
深町氏は2010年に亡くなったが、現在もある公式サイトには<アメリカから「夢の電子楽器」として初めて輸入された3台のシンセサイザーのうち一台が深町に託され>と書かれている。70年代の話だと思われるが、文字通り、日本のシンセサイザー奏者の草分けだった深町氏が、どういう経緯でピンク・レディーとコラボすることになったのか、非常に興味深いが、残念ながら全くわからない。
「瞑想」のような演奏が1分45秒ほど続いたところで、ミーちゃんケイちゃんの語りが入る。
2人:夢があります
ミー:大きいか小さいかは、まだわかりません
ケイ:でも一つだけ確かなこと
2人:私たちの夢は実現するために見る夢なんです
ケイ:1枚の切符には、いつも夢の入り口があります
ミー:あなたは旅をする時、どんな乗り物に乗りますか?
2人:私たちの乗り物は、リズム、そしてメロディーです
ケイ:国が違っていても、言葉が違っていても
ミー:音楽はいつも世界の扉をノックしています
2人:音楽は愛、私たちの愛は音楽です
これがアルバム全体に込められたメッセージであろう。おそらく阿久悠氏が書いたものと思われるが、クレジットがないので何とも言えない。
「私たちの夢は実現するために見る夢」という部分が、当時目指していたアメリカ進出、さらには世界の音楽マーケットに打って出ることを指しているようにもとれるが、このメッセージが言わんとしているのは、そういう即物的な「目標」とは少し違うように思う。
国境や言語の違いを超えて世界中の人が楽しめる音楽の素晴らしさ。その音楽に愛を込めて真摯に向き合っていきたいという、ピンク・レディーとしての改めての決意宣言ではないか。そしてこのアルバムはその新たな一歩となるものだったはずだ。
最後の「私たちの愛は音楽です」のひとことをきっかけに曲調が変わり、女性コーラス(ミーちゃんケイちゃんの声が入っているのかは判別できない)が、<♪Love is song,Song is love>(あるいはsongではなくsoulかもしれない)と繰り返し歌いながらフェードアウトする。
2:リオの女王
世界を巡る恋の旅、最初はタイトルに示されている通り、ブラジルのリオデジャネイロが舞台のようだ。リオといえば、カーニバル。サンバのリズムに乗せた情熱的な踊りで知られるが、主人公の「リオの女王」とは恋多き女性ダンサーのことらしい。
「お嫁サンバ」「マツケンサンバ」「てんとう虫のサンバ」など、日本では時々サンバの名のついた曲がヒットする。そういえば阿久悠氏の名を世間に知らしめた初期の大ヒット作は、森山加代子さんの「白い蝶のサンバ」(70年)だった。情熱とリズムのサンバ的な世界は、その後都倉俊一氏とのコンビで手がけた山本リンダさんの作品群にもつながっていった。
♪もう駄目なの とめられない
このからだが踊る
「リオの女王」のこの歌い出しを聴いて、すぐに連想したのは、「どうにもとまらない」(72年)である。阿久・都倉コンビによるリンダさんの大ヒット曲だが、もともと阿久氏がつけたタイトルは「恋のカーニバル」だったという。
つまり、阿久氏にとって「リオの女王」は、ゼロから未知の世界を描くことに挑戦したというよりも、自分の引き出しの中にあった得意のモチーフを取り出してきて、その延長線上で創作したというところだろう。
ただアルバム全体に共通することだが、歌い手のピンク・レディーにしてみれば、それまでのヒット曲の歌詞とは、明らかに違っている。この曲では<♪名前も知らぬひとに 強く抱かれたわ ブルーの月が少し欠けたわ>とか、<♪もう私は私じゃない 恋人が呼びとめてみても 戻って行けない そうよ>といった歌詞がそうだ。
それまでは、例えば「ペッパー警部」や「渚のシンドバッド」など、多少色っぽい要素が入っても、どこかアメリカンコミック的で「カラッと明るいお色気」という程度だったのが、このアルバムでは、官能や背徳、恋愛そのものの狂気性といった、よりドロドロしたものを感じさせる表現にまで踏み込んでいる。
ある意味、70年代前半あたりの古い歌謡曲に戻ったような気もするのだが、これらのドロドロした要素も、ピンク・レディーが異国の地を舞台に歌うことで、違って聴こえるのではないか?阿久氏はそういう新しい可能性を探ろうとしたようにも思える。
作曲・編曲は佐藤準氏。前回書いたように、アルバムに参加した7人の作曲家の中で、最も若い24歳であった。作詞は超大物の阿久悠氏、おまけに歌はピンク・レディーである。アルバムとはいえ、相当緊張し、力が入ったに違いない。
詞と曲、どちらが先だったのか、これも全くわからない。阿久・都倉コンビの場合は、打ち合わせで阿久氏がいくつかタイトルを提示して、これだというタイトルに合わせて都倉氏が曲を作り、後から阿久氏が詞をつけていくというやり方が多かったようだ。このアルバムも、そのやり方を踏襲したのかもしれない。
佐藤氏はサンバらしく、リズミカルなパーカッションを多用し、イントロからブラスが派手にリードするカッコいいサウンドに仕上げている。さらに注目すべきは、中盤に出てくる<♪名前も知らぬひとに 強く抱かれたわ>の部分で、いったんサンバのリズムをやめて、曲調を落ち着いたAOR風に変えている点である。
ちょうどこの頃、大人向けのサウンドとして流行しつつあったAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)を、歌詞のストーリーの重要な展開に当たるパートにうまく取り入れているのだ。後半は再びサンバに戻るのだが、この「AORパート」を挟むことで、一本調子にならず、構成にメリハリが生まれた。
この曲に限らず、ミーちゃんケイちゃんのデュオによるボーカルも、アルバムを通して完成度が高い。もともと一発勝負のライブでも、激しいフリ付きであれだけ歌える人たちが、スタジオで集中して歌うのだから、さらにクオリティが高まるのは言うまでもない。(ほんとうはこの曲などはライブにも向いていると思うのだが、おそらくこれまで披露されたことは、ほとんどないのではないか…)
3:チャイナ・タウン
ブラジルの次は中国…かと思いきや、よく考えると「チャイナ・タウン」は世界中の大きな都市に存在している。アジアンテイストではあるが、どこにあるのかわからない、無国籍的な場所を想定しているのかもしれない。
歌っているのは、名前も知らない相手との恋である。風が吹くままこの街に流されてきた2人。白い霧の中に港の灯りがにじんで見えるホテルでの逢瀬を描いている。
作曲・編曲は梅垣達志氏。「ジャーン」というチャイニーズ・シンバルから始まる、いかにも中国音楽風の軽快なサウンドは、いわゆる「ヨナ抜き音階」(ド・レ・ミ・ソ・ラの5音)である。ただ、この曲も前の「リオの女王」と同じように、途中で曲調が変わる。
<♪チャイナ・タウンの夜は クロスワードの文字が 赤いネオンにゆれて 謎をまき散らす>と歌うサビの部分になると「ヨナ抜き」の縛りを外し、やはりAORというか、メジャーセブンスコードも駆使したシティ・ポップ風のサウンドになっているのだ。梅垣氏も佐藤氏も、70年代歌謡曲の枠を越えて、80年代へと向かう音楽の新しい潮流を積極的に取り込んでいるのがわかる。
そしてこのサビ部分では、ミーちゃんケイちゃんの真骨頂である2人のハーモニーが楽しめる。特にケイちゃんの低音の響きが、独特の味わいを生んでいる。
4・悲しき草原
前の2曲とは違い、草原を馬で旅立って行った恋人の帰りを、じっと待ち続ける女性の歌である。歌の中に具体的な地名は出てこないが、<♪深い雪にうずもれた>や<♪水がぬるみ氷がとけ>といった歌詞から寒い土地であることが窺え、曲調から考えると、おそらく舞台はロシアだろう。
作曲・編曲は佐藤準氏だが、木管楽器(クラリネットかサックス?)のソロで始まり、シンプルに力強くリズムを刻むマイナーな曲調は、ロシア民謡風でもあるし、どこか大瀧詠一さんの名曲「さらばシベリア鉄道」(80年)にも似た雰囲気を持っている。
そして、ここも佐藤氏の工夫が感じられるのだが、曲の終盤の繰り返し部分で、ロシア民謡の「カリンカ」などでよくある、いったんスローなテンポに落としてから、徐々にテンポを上げていくアッチェレランドの手法を取り入れている。
♪私は忘れない あの言葉を忘れない
悲しき草原を ただひとりで見つめてる
この部分のミーちゃんケイちゃんの歌い方が、また特徴的である。「わ・た・し・は」「か・な・し・き」のように、一音一音を短く切って、歌っているのだ。このスタッカートで無機質に歌うことで、かえって悲しみのあまり感情が消えてしまったような、主人公の痛々しさが伝わってくるようだ。
基礎がきちんとできていないと、結構キツイ歌い方でもある。「ペッパー警部」や「カルメン‘77」のレコーディングで、都倉俊一氏からスタッカートで歌うように指導されたというが、そのことがここで見事に生かされたのである。(続く)