ミーとケイが絶唱する、興奮と熱狂の後楽園スタジアム実況録音盤

真夏の夜の夢!音楽史上最大のエキサイティング・ショーのすべて

(LPレコード帯のコピー)

 

ピンク・レディーのオリジナルアルバム12作品が、主要音楽配信サービスで聴けるようになって、間もなく1年になる。この間、各アルバムをリリース順に取り上げてきたが、今回から6作目のアルバム「’78ジャンピング・サマー・カーニバル」について書いてみたい。

 

この作品は、1978年7月23日に後楽園球場で開催された同名のコンサートを収録したライブアルバムである。今回は、コンサートが行われた当時の状況と開催の経緯、そしてアルバムの特徴について概観する。

 

 


<基本情報>

タイトル:’78ジャンピング・サマー・カーニバル

発売日:1978(昭和53)年9月5日

形式:ライブアルバム

曲数:13曲(メドレーは1曲とする)

 

<ポイント>

①「7万人」の衝撃!PLブームの頂点を体現した最大のライブ

②ディスコサウンドを前面に出した選曲

③日米のミュージシャンがハイレベルな共演

 

プロ野球の聖地がライブ会場に

 

コンサートが行われたのは東京・文京区にあった後楽園球場。読売巨人軍などの本拠地として、プロ野球の試合を中心に87年まで使われていた。88年に日本初のドーム球場、東京ドームがオープンするまで実に50年もの間、日本のプロ野球の歴史とともにあり、数々の名勝負、ドラマがここで生まれた。昭和の野球ファンにとっては忘れられない聖地である。

 

その後楽園球場で初めてコンサートを行ったのは、ジュリーこと沢田研二さんがボーカルを務めたザ・タイガース。68年8月のことだった。その後70年代には、グランド・ファンク・レイルロード(71年)、エマーソン、レイク&パーマー(72年)といった外国のバンドによる日本公演や、何組ものミュージシャンが一堂に会するロックフェスティバルが開催されている。77年まではコンサート会場としての使用は、年に1回程度だった。

 

それが78年になると、いきなり日本人歌手4組のライブが相次いで開かれる。その口火を切ったのは、4月に行われたキャンディーズの解散コンサートだった。さらに、大阪球場で74年から毎年コンサートを開いていた西城秀樹さんも、この年初めて後楽園球場に進出。ピンク・レディーの1日前、7月22日の開催だった。そしてピンク・レディー、8月には矢沢永吉さんもコンサートを行った。今では数多くのアーティストによって当たり前に開かれるようになったスタジアムライブだが、日本で定着していく出発点となったのが、この年だと言えよう。

 

コンサート会場に見る“出世双六”

 

ピンク・レディーが行った主要なコンサート(ライブアルバムになったもの)の会場を見ていくと、77年3月の郵便貯金ホールから始まり、田園コロシアム、日本武道館、ラスベガス(トロピカーナ・ホテル)、そして後楽園球場となる。会場の規模や話題性という尺度で見れば、出世双六のように、人気の拡大に比例して(短期間ではあるが)段階を踏んで大きくなっている。非常にわかりやすく、ファンにとっても彼女たちの成長を実感でき、応援するモチベーションにもなっただろう。

 

いつのまにか、日本のエンタメ界では、こういう「身の丈に合う」「分を弁える」といった感覚が失われたように思う。デビュー前の新人がいきなり武道館とか、紅白出場決定とか、プロモーションのためなら「なんでもあり」になり、全く有り難みが感じられなくなってしまった。

 

それはさておき、後楽園球場は東京のど真ん中にあり、収容人数(スタンド)は4万2千。大規模なイベントを開催する上で、当時としてはこれ以上無い、最高の舞台であった。もっとも当初の企画では、甲子園球場での開催が有力だったようで、スポーツニッポン(スポニチ)は同年1月23日の記事で「7月甲子園5万人ショー」と見出しに打っている。その後3月14日の記事に「七月二十三日の後楽園コンサート」との記述があるので、この時期までにプランが変更されたようだ。

 

振り返ると、この後楽園球場でのライブが、恐らくピンク・レディーにとっては約2年あまり続いたブームの頂点で、残念ながら出世双六で言うなら実質的な「アガリ」であったと言わざるを得ない。ただしブーム自体はここで急に萎むことはなく、しばらくは堅調に推移していく。

 

「モンスター」と呼ばれて

 

この時期のピンク・レディーは、6月25日にリリースした8枚目のシングル「モンスター」がまたも大ヒット。オリコン週間チャート1位獲得の連続記録を7に伸ばした。当時の全国紙の学芸欄に「怪物ピンク・レディー」と題した特集記事が掲載されている。

 

「ピンク自身の歌がついに出た」、とある大手プロダクションの宣伝マンがいったものだ。レコードを出せば、業界のこれまでの常識では考えられないほどの売れ方をする二人を「怪物」と言ったのだ。

事実「モンスター」の発売日には、レコード店に行列が出来て、一日で六十万枚が売れたと翌日の新聞は報じた。数字がオーバーだとしても、何カ月かかけて三十万枚も売れればヒットといわれるこの世界では驚異的である。(中略)

二人がいま出ているテレビCMは十本以上。レコードの売り上げと無縁ではない。こんなに同時にたくさんのCMに顔を出した例もかつてない。

(朝日新聞 78年7月15日付)

 

ミーちゃんケイちゃんの爽やかで親しみやすいキャラクター、さらに彼女たち自身がCMソングを歌えるという強みもあり、広告業界からも引っ張りだこだったピンク・レディーだが、この異常な人気ぶりが、思わぬ事態に発展する。

 

「7万人」問題で追加公演

 

このエピソードは前にも書いたが、元々7月23日(日)だけの予定だったコンサートは、開催の4日前になって急遽、24日(月)にも追加公演を行うことが、所属事務所T&Cから発表された。

 

当時のスポニチによると、実売チケットとCMのスポンサー各社に割り当てた招待券が合わせて7万枚出回っていたという。後楽園球場の収容人数は4万2千だが、グラウンド(アリーナ席)を使えば立見も含めて7万人を入れるのは可能だとT&Cでは考えたのだろう。現に4月のキャンディーズの解散コンサートは、5万5千人の観客が集まったとされている。同じ会場でやるならキャンディーズを超えたい、と関係者が意気込んでいたことは想像に難くない。

 

だが、それを聞きつけた所轄の富坂警察署や消防署から「待った」がかかる。結局たまたま球場が空いていた翌24日に追加公演を行い、7万人の観客を2回に分けて、来てもらうことになったのである。T&Cの貫泰夫社長は「私どものミス」と認めた。ステージ設営費4千万円、照明費用など2千5百万円といった追加公演の費用は欠損になるとスポニチは報じている。スタジアムライブが、日本でまだそれほど行われず、ノウハウも定着していない時代ならではのトラブルである。

 

ミーちゃんケイちゃんはといえば、「二回公演?最初は冗談かと思っていました。体力には自信がありますから大丈夫。でも、球場でのリハーサル時間が少ないのが心配です」(スポーツニッポン 78年7月20日付)と健気にコメントしている。

 

ちなみに24日の記事によれば、初日の23日の観客数は5万6千5百人だったが、主催者発表は4万8千人。普通は主催者の数字が実数よりも多いものだが、控え目に発表したのは、恐らく警察などの目を気にしたのだろう。

 

大型スクリーンのない時代

 

今や、スタジアムライブをはじめ、大規模な会場のイベントに欠かせないのが、大型スクリーン(モニター)を使った演出である。離れた席でも、演者の表情をアップで見ることができる。

 

しかし、この時はまだ後楽園球場に大型スクリーンは無かった。(81年3月に同じ後楽園で行われた彼女たちの解散コンサートで、初めて「オーロラビジョン」が使われた。)集まったファンの大半は、ステージ上の2人の姿を豆粒のようにしか見ることができない。そこでどうしても普段のコンサートとは違う、大がかりな演出が必要になってくる。

 

このコンサートの模様は、ラスベガス公演に続き、日本テレビの「木曜スペシャル」枠で「7万人大集合!ピンクレディー真夏のジャンピングフェスティバル」として放送された。映像の一部は2011年に発売された「Singles Premium」のDVDに収録されている。

 

ヘリコプターからの映像を見ると、球場の中央、セカンドベースあたりにステージが設置され、そこから十字型に花道(?)が張り出して、電飾で縁取られている。オープニングでは、夜空に向かって大量の風船が放たれる中、ミーちゃんケイちゃんが2台のオープンカーに分乗して登場。少しでもファンに近くで見てもらえるように、フェンス沿いに作られた架設道路上を1周回ってから、ステージに駆け上がっている。

 

またアルバムには収録されていないが、「ペッパー警部」から「渚のシンドバッド」まで、初期のヒット曲のメドレーでは、ステージの各辺にマイクスタンドが組まれ、2人が1曲ごとにせわしなく移動して、四方の観客から見て正面になるよう、向きを変えて歌っている。

 

ただでさえ、激しいアクションで歌い踊り続けるピンク・レディーのステージだが、大会場では遠くからもわかるよう、振りも大きくしなければならず、体力的には普段以上にハードだったのではないか。気のせいか、後半などは他のライブアルバムと比べて2人の息が弾んでいるようにも聴こえ、それがかえってリアルにライブ感を味わえる魅力にもなっている。

 

洋楽カバーはディスコブームを反映

 

コンサートのプログラムには、メドレー曲の数え方が上とは若干異なるが、曲目として26曲が記載されている。この内アルバムに収録されているのは約6割、収録時間は約53分である。

 

洋楽カバーについて言えば、このライブで特徴的なのは、特に前半部分は、ディスコサウンドを前面に出していることである。時は70年代後半の世界的なディスコブームの真っ只中。奇しくもコンサート前日の7月22日は、ブームを象徴する大ヒット映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(77年、米)の日本公開の日であった。さすが流行に敏感なPLプロジェクト、映画のサウンドトラックから「ステイン・アライブ」「愛はきらめきの中に」「恋のナイト・フィーバー」をセットリストに取り込んでいる。

 

また、往年のディスコファンには懐かしいアラベスクの「ハロー・ミスター・モンキー」やビートルズの楽曲をディスコアレンジしたメドレーも披露。さらに、77年にアルバム1枚を発表しただけで終わったニューヨークのユニット、モーメント・オブ・トゥルースの曲を2曲もカバーしているあたりに、選曲者のこだわりを感じる。

 

日本で子どもたちを中心に大ブームを巻き起こしたピンク・レディーだが、そろそろ次の展開を考える時期に来ていた。端的に言えば、育ての親、相馬一比古氏(当時T&C制作部長)がスカウト時から掲げていたアメリカ進出である。アップテンポな楽曲とユニークな振り付けを売り物にしてきたピンク・レディーにとって、ディスコサウンドは親和性が高く、当然PLプロジェクトは次の展開、アメリカ進出への糸口として意識していたのであろう。

 

またこの時、後楽園球場のネット裏の貴賓席には、後にアメリカでのプロモーションを任せることになるポール・ドリュー氏がいた。ドリュー氏は6月に行われた東京音楽祭に合わせて来日し、ピンク・レディーを徹底リサーチ、アメリカでの成功に自信を持ったという。雲を掴むような話だったアメリカ進出が、ここに来て俄然現実味を帯びてきたのである。ディスコナンバーに力を入れたのは、ドリュー氏へのアピールの意味もあったのかも知れない。

 

日米の強力ミュージシャンがコラボ

 

アメリカと言えば、もう一つ特筆すべきことがある。一塁側に設けられたバンド席には、4月のラスベガス公演でバックを務めたチャック・レイニー・リズム・セクションの面々の姿があった。

 

ベーシストでリーダーのチャック・レイニー(Chuck Rainey)氏をはじめ、ギターのミッチ・ホルダー(Mitch Holder)氏とドラムのポール・ライム(Paul Leim)氏はラスベガス公演の時のメンバー。キーボードは新たにラリー・ナッシュ(Larry Nash)氏、さらにパーカッションのルイス・コンテ(Luis Conte)氏が加わっている。

 

彼らと、これまでピンク・レディーのバックを務めてきたお馴染みの「稲垣次郎とソウル・メディア」が、この時共演を果たしている。ジャズロックやファンキージャズのファンにとっても興味深いのではないか。

 

面白いことに、稲垣氏らとチャック・レイニー・リズム・セクションは後楽園での2日間のステージの後、25日と26日に東芝EMIのスタジオでアルバムを収録している。そこには、やはりバックを務めた伊集加代子さん達の女性コーラスグループ、シンガーズ・スリーも参加した。アルバムは、稲垣次郎とチャック・レイニー・リズム・セクション名義で、タイトルは「大ヒット作品」を意味する「BLOCKBUSTER 」。収録曲には「UFO」のカバーも含まれている。

 

このコンサートがなければ恐らく実現しなかったであろう日米の強力ミュージシャンのコラボ。ピンク・レディーという存在は、アイドル歌謡の枠を超えて、当時の音楽シーンの多様な展開においても、意外な役割を果たしていたのである。両方のアルバムを聴き比べてみるのも面白いだろう。

 

ミーちゃんケイちゃんの意気込み

 

「ジャンピング・サマー・カーニバル」と題した後楽園球場でのコンサートと、その日から始まる夏の全国ツアーに向けて、この時はいつものツアー以上に時間をかけて、入念なレッスンが行われたようだ。

 

彼女たちは多忙なスケジュールの合間を縫って、12日から14日までは軽井沢で合宿、さらに18日から22日まで、三重県の「合歓の郷」(現・NEMU RESORT)で合宿を行っている。

 

ヤマハリゾートが運営していた「合歓の郷」は、ミーちゃんケイちゃんが歌手を目指してヤマハのレッスンに通っていた高校生の頃にも、合宿で訪れている所縁のある場所である。デビューから間もなく2年。「モンスター」と呼ばれるまでの大ブームの渦中にあって、2人にはもう一度原点を見つめ直そうという気持ちがあったのかもしれない。

 

(追記:上のスケジュールは貫氏の著作に書かれたものだが、当時の記事や映像から7月19日と20日には、2人が都内で取材を受けていたことが確認できる。「合歓の郷」での合宿が、予定通り実施されたかは定かでない。)

 

そんな2人が、コンサートを前に心境を語ったインタビューがプログラムに掲載されているので、最後にご紹介する。

 

ミー どんな場合でも、未知のものにチャレンジする時って、とっても不安よね。でも後楽園は昨年のサマーツアーでの経験を生かせると思うの。

ケイ そうね、わたしたち昨年の田園コロシアムで仕事に対する自主性を持つキッカケをつかんだような気がするの。それにラスベガスでのショーやこの1年間の仕事が私達を成長させてくれたと思うわ。とにかく昨年より今年は1歩でも前進したいし、しなきゃいけないのよね。応援してくださるファンの方のためにも。

(中略)

ミー だからこんどのサマーカーニバルのスタート後楽園のステージはいままで以上にファンのみなさんと一体となってすばらしいショーにしたいわね。それにわたしたちを支えてくれているスタッフのみなさんにも、ピンク・レディーがラスベガスを始め、大きなステージを積んできた成果をファンのみなさんに観てもらうことで“ピンク・レディーも成長したな”っていわれるようにしなくちゃ。

ケイ ケイも!同じ考えよ。そしてファンの人たちやスタッフのみなさんの応援に、わたしたちの気持ちを伝えるためにも、ラスベガスでつかんだことをこれから始まるサマー・カーニバルの中でうまく生かして行きたいと思ってるの

ミー そうね。サマー・カーニバルでは昨年歌わなかったものもたくさん予定されているし、ソロの曲でも、わたしたち2人の個性をうまく出せるようにガンバリたいし…

ケイ うん、まだまだこんなこと言うのは生意気だけど段々に自分たちの歌いたい曲も選べるようにしたいし、とにかく私たち全力でガンバリます。

(続く)