ピンク・レディー、伝説の武道館ライブを収録したアルバム「バイ・バイ・カーニバル」。前回は1977年、ピンク・レディー旋風が吹き荒れたこの年にリリースされたヒット曲4曲を、一気に歌い上げた後半のクライマックス部分をご紹介した。その余韻の内に、コンサートもいよいよ大詰め、残すはあと3曲である。



(近代映画社「ピンク・レディー・メモリアルブック」より)

19(B-⑤):忘れたいのに


77年3月、ピンク・レディーがデビュー7か月にして初めて挑んだ本格的コンサート「チャレンジ・コンサート」では、オープニング曲に選ばれている。ただしこの時はバンドによるインスト曲として演奏されただけだった。その9か月後、彼女たちが大きな飛躍を成し遂げたこの年の総決算とも言える武道館のステージの終盤で、改めて日本語詞をつけて、歌われている。PLプロジェクトの中に、よほどこの曲に思い入れがある人がいたのだろうか。


原題は<I Love How You Love Me>。61年にアメリカの女性3人のグループ、パリス・シスターズ(The Paris Sisters)が放ったヒット曲。スローテンポで3連符をベースとした、いわゆるロッカ・バラードの名曲である。68年には、同じくアメリカの男性歌手、ボビー・ヴィントン(Bobby Vinton)もカバー、ヒットさせている。


日本では、69年に深夜のラジオ番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のパーソナリティとして人気があった3人組、モコ・ビーバー・オリーブ(高橋基子さん、川口まさみさん、シリア・ポールさん)が日本語バージョンをリリースし、リスナーの若者たちを中心に広く親しまれた。この時に「わすれたいのに」という邦題がつけられている。


英語の原曲は「あなたが私を愛する方法を私は愛す」というタイトルの通り、恋人の仕草や振る舞いが好きだと歌うシンプルなラブソングだが、日本語版の「わすれたいのに」では、今はいない恋人のことを忘れたくても忘れられない女性の悲しい恋心を歌っている。日本人にはその方が受けると制作陣が考えたのだという。


ピンク・レディーによるカバーは、モコ・ビーバー・オリーブによる日本語版とは異なり、コンサートの他のカバー曲と同様に、岡田冨美子さんが書いた詞で歌われている。


あなたと逢って あなたを知って

  街の景色が明るくなった

  道ばたの花にも 足をとめる心の余裕ができた


岡田さんの詞は「忘れたいのに」という日本語タイトルを踏襲しながらも、失ったかつての恋人への断ち切れない思いというよりはむしろ、運命の人に出会ったことで、人生が素晴らしいものに変わっていく恋の喜びを歌っている。


ついさっきまで「UFO」など4曲のヒット曲を一気に歌い踊り、会場の盛り上がりが最高潮に達した後、いわばクールダウンするように、しっとりとしたこの曲で、ミーちゃんケイちゃんが美しいハーモニーをじっくり聴かせてくれる。振り付けや衣装などビジュアル面の話題が先行したピンク・レディーだが、本来はこういった曲も歌いこなせる実力派女性デュオなのである。


あなたを愛し

  人の弱さを美しいと思いはじめた 

  美しいと


最後のこの一節にハッとさせられる。人の弱さが美しいとは、恋人たちにどんな出来事があったのか、想像をかき立てられる。当時ミーちゃん19歳、ケイちゃん20歳。多感な年頃の2人が歌うことで、より伝わってくるものがあるように思う。この曲、その後もピンク・レディーのコンサートでは、定番のレパートリーとなっていく。

 

20(LP収録なし):アイ・ビリーブ


原題は<I Believe>。53年にアメリカの歌手で女優のジェーン・フローマンが自身が出演するテレビ番組で歌い、さらに一世を風靡したテレビドラマ「ローハイド」のテーマ曲でも知られる男性歌手フランキー・レイン(Frankie Laine)がリリース、ヒットした。


この曲もまた3連符ベースのロッカ・バラード。まずはケイちゃんがソロで歌い出し、続いてミーちゃんのソロ、サビからは2人で歌っている。後半はバックの演奏も相まって、ドラマティックに盛り上がっていく。


♪急ぎ足の青春は 虚しく 淋しく 哀しい

  愛を信じ  I believe 


岡田さんの歌詞は、青春の真っ只中の苦しみと、それでも愛を信じて前を向いて歩いていこうという決意を歌っている。まさにこの時、「急ぎ足の青春」の日々を全速力で駆け抜けていたピンク・レディー、彼女たち自身の姿が歌に重なる。毅然と、力強く歌いあげる2人。最後の<♪I believe>は、ケイちゃんがお得意の低音を響かせ、決めている。

 

21(B-⑥):蛍の光~エンディング


2時間のコンサートも、いよいよエンディング。年末ということもあってか、最後は定番の「蛍の光」である。デビュー2年目のピンク・レディーにとっても激動の77年。前奏をバックに、ミーちゃんケイちゃんが1年を振り返る。もちろん予め用意された台本の通りに語っているのだが、作家がテキトーに作文した訳ではなく、当時の彼女たち自身の心境がわりと反映されているのではないか。


(ミー)短い一年でした。長い一年でした。知らないうちに空の彼方へ飛んで行ってしまった自分の心を、見失うまいと必死にすがりついていました。もう一人の自分に。

(ケイ)つらい、さみしい。恋人がほしい。それでもステージに立ってみなさんの声援を前にすると、歌わなければと思う毎日でした。歌うこと、歌えることは素晴らしいことだと思う毎日でした。

(ミー)今、私は胸を張って言うことができます。青春の真っただ中にいるということを。

(ケイ)泣きたい時には泣かせてください。笑いたいときには一緒に笑ってください。

(ミー)1977年もあとわずかで暮れようとしています。来年もみなさんが健康であることを祈りながら、お別れをしたいと思います。さようなら。ありがとう。

(ケイ)ありがとう。

(2人)ほんとうにどうもありがとうございました!

(ミー)それではみなさん、最後にこの「蛍の光」を一緒に歌ってお別れしたいと思います。一緒に歌ってください!


さあこれから歌、というところで「ウー、ウー、ウワーン」と咽び泣く声が。ケイちゃんが感極まったのである。もともと感受性が強く涙もろいケイちゃん、これまでのコンサートでもエンディングで声を詰まらせることはあったが、今回はもう全く歌どころではない。ミーちゃんが気丈に「みなさん一緒に歌って下さい!」と会場に呼びかける。


泣き崩れるケイちゃんは、まるで幼い子どもが、人混みで迷子になってしまい、必死でお母さんを探し回ってやっと再会した時のような感じ。緊張感と不安から解放され、我慢していた感情がドッと溢れ出たようである。


腹膜炎手術を終え、退院したばかり。まだ傷口が縫われないままの状態で、上からサランラップを巻いて務め上げた2時間のコンサート。普通なら絶対にあり得ない無茶な話だが、ケイちゃんは「死んでもいい」と覚悟して、自ら志願してステージに立った。強い責任感に加えて、入院している間「1人ピンク・レディー」でカバーしてくれたミーちゃんへの申し訳ない気持ちと感謝。そして、いつお腹が破裂するかわからない不安と戦いながら、大きな仕事を最後までやり遂げたのである…いや、ほんとうはまだ「蛍の光」が終わっていないのだけれど、まあ細かいことは言うまい。ケイちゃん、がんばったね!女性アイドルでこんな壮絶な経験をした人は、後にも先にもいないのではないか。


ちなみにケイちゃん(増田惠子さん)自身は、後年の著書『あこがれ』の中で、このアルバムに収録された「蛍の光」について「聴くに堪えない。あまりにもひどい歌だ」「もう少しまともに歌っておけばよかった」とユーモラスに書いている。


だが、仮に「蛍の光」を2人が予定通りに無難に歌っていたとしても、これだけの感動は生まれなかったであろう。ファンにとってみればこのボロボロの「蛍の光」こそが、何万倍も胸を打つのである。



(近代映画社「ピンク・レディー・メモリアルブック」より)


「死んでもいい」と覚悟して大舞台を務め上げたケイちゃん。コンサートが無事終わって、せめてこの夜くらいはゆっくり休めたのだろうと思いきや、実はこの後もフジテレビで番組収録があり、そこでなんと再び倒れる。翌日から2日間休養し、なんとか大晦日のレコード大賞と紅白歌合戦には出演したが、NHKによる紅白出場の判断は前日ギリギリになった。この年大旋風を巻き起こしたピンク・レディーは、こうしてはからずも最後の最後まで世間の注目を集めたのである。


6回にわたって「バイ・バイ・カーニバル」について書いてきた。40年以上経った今も伝説のライブとして語り継がれるピンク・レディーの武道館コンサート。その壮絶なドラマの記録として、外すことのできない価値あるアルバムである。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。