1977年のある時期から約2年ほどは、テレビでピンク・レディーを見ない日は、ほとんどなかった。歌番組もさることながら、とにかくコマーシャルへの出演が多かった。
a)牛乳石鹸
b)ナショナル
タイトルは「メドレー」となっているが、実際はメドレーではなく、ミーちゃんケイちゃんの会話によるMCを前後に交えながら、2つのCMソングを1曲ずつ分けて歌っている。
a)は牛乳石鹸がこの年2月に新発売したシャンプーとリンス「シャワラン・ビューティー」のCMソング。シーズン毎に違うバージョンが放送されたが、この時は夏の歌詞となっている。作詞は藤公之介氏。
♪太陽キラキラです 噴水キラキラです
街中がまぶしくて 揺れてる恋心
生まれたばかり きらめきの夏です
シャワラン・ビューティー
ブラスが16分音符を刻む、どこかで聴いたことのあるようなイントロ。「〜です」を「でっすっ!」と強調する歌い方。そう、いかにも「カルメン‘77」をイメージさせる作りになっているのだ。作曲は、なんと本家の都倉俊一氏が自ら手がけている。最後の<♪シャワラン・ビューティー>の印象的なハモりが懐かしい。
シャワランのコマーシャルと言えば、2人の決め台詞も親しまれた。ミーちゃんが澄んだ声で「髪いきいき」と言うと、ケイちゃんがハスキーボイスで「ツヤツヤ」と続ける。後年、小堺一機氏がケイちゃんと共演すると、ネタにしていじっていたものだ。
日本人の多くが毎日髪を洗うようになったのは、実は90年代だと言われる。70年代はまだ洗髪の頻度は週2、3回程度だった。しかしこの頃から、女性たちを中心に髪を傷みから守り、ツヤツヤに保つヘアケアの習慣が広まっていった。そのニーズを掘り起こした商品の一つが、シャワランシリーズだった。ピンク・レディーの爽やかで健康的なキャラクターも手伝って、ヘアケア時代の到来を象徴するヒット商品となったのである。(追記:ピンク・レディーの起用によって「シャンプーの使用年齢がグンと下がり、小、中学生にも飛ぶように売れる」と、当時牛乳石鹸の担当者が語っている。)
b)はナショナル(現パナソニック)がやはりこの年に新発売したペッパーラジオのCMソング。作詞は杉山政美氏、作曲はこれも都倉氏。
ミーちゃんケイちゃんが唱える前半の不思議なフレーズは、英語圏の童謡集「マザー・グース」に出てくる早口言葉<Peter Piper picked a peck of pickled peppers...>をモチーフにしている。いたずらな妖精が耳元でささやいているようだ。後半は打って変わって、<♪恋はタイミング>とピンク・レディーらしく、リズミカルに歯切れよく歌い上げる。
ペッパーラジオは、シャツのポケットにも入る極小サイズを初めて実現した携帯用ラジオで、当時は非常に画期的だった。70年代のオイルショックを機に、日本のものづくりは「重厚長大」から「軽薄短小」にシフトしていったが、その先駆けとなった商品である。ペッパーというネーミングは偶然の一致だと思うが、前年「ペッパー警部」でデビューしたピンク・レディーをCMに起用したことで、その名は瞬く間に全国に広まった。
ところで、このCMソングのコーナー、アルバムでは後半のこの位置(2枚目B面1曲目)に収録されているが、実際のコンサートでは、前半の「乾杯お嬢さん」と「S・O・S」の間に披露されていたことが、台本で確認できた。ミーちゃんケイちゃんのおしゃべりも含めて、気軽に楽しんでもらう企画なので、前半に置かれていたのは頷ける。
コンサートの流れを考えると、前回書いた12分超の圧巻の洋楽メドレーからそのまま「カルメン‘77」「渚のシンドバッド」へ雪崩れ込み、一気に盛り上げるのが自然である。ただ、LPレコードは収録時間の制約もあり、盤面を裏返すタイミングもあるので、いろいろ考慮してこの位置に置かれたのだろう。ちなみに台本を見ると、ケイちゃんの「ホテル・カリフォルニア」もコンサートでは意外と前半の早めの時間帯(「恋はOK」の後)に歌われていたことがわかった。あんなテンションなのに…
2-B-②:カルメン’77
ここからファンお待ちかねのヒット曲が2曲続く。コンサート最大のクライマックスである。まずは「カルメン’77」。演奏のテンポは、オリジナルのシングル盤よりは速めだが、「チャレンジ・コンサート」の時とほぼ同じくらい。2小節ごとに、会場は「ミーちゃん」「ケイちゃん」の大合唱だ。
2人の熱唱を盛り立てる「稲垣次郎とソウルメディア」の演奏は、ブラス・ロックとしても大いに聴き応えがあり、楽しめる。都倉俊一氏の回想によれば、イントロのフレーズは難度が高く、テレビの歌番組ではバンドのトランペット奏者が「こんなの吹けない」と言い出して揉めたこともあったというが、そこは一流揃いのソウル・メディア、自分たちも楽しみながら演奏している感じが伝わってくる。ちょっと張り切りすぎてトーンが上擦っているところもあるが、それもまたライブらしい臨場感を生んでいる。
2-B-③:渚のシンドバッド
この時期、リアルタイムでヒットしていたデビュー4枚目のシングル「渚のシンドバッド」が、ここでやっと披露される。テンポはシングル盤とほぼ変わらない。やはり「ミーちゃん」「ケイちゃん」の大合唱で、会場はヒートアップ。2人のボーカルは「カルメン」の熱唱とは対照的に、良い意味で力が抜けている感じがする。サビの独特のハモりは、聴けば聴くほど不思議で、この味わいはやはりピンク・レディーならではだろう。
ところで6月10日にリリースされた「渚のシンドバッド」は、6月27日付オリコン週間チャートで1位になるが、7月18日付で「勝手にしやがれ」(沢田研二)にその座を奪われ、2位となる。翌週には「イミテイション・ゴールド」(山口百恵)にも抜かれて3位に。このまま失速するかと思われたが、8月に入るとまた売れ行きが戻り、15日付のチャートで1位を取り返すのである。そして9月19日付チャートで新曲「ウォンテッド(指名手配)」と入れ替わるまで、1位をキープし続けた。
こじつけかもしれないが、「渚のシンドバッド」の売れ行きが8月に再び勢いを取り戻したのは、この田園コロシアムで始まった「サマー・ファイア‘77」のツアーで、約1か月間に全国25か所を回ったことも少なからず影響しているのではないか。このツアーで、生のピンク・レディーに初めて接したという人たちも多かったに違いない。ピンク・レディーブームをさらに加速し、日本中に浸透させるのに「サマー・ファイア’77」は大きな役割を果たしたのである。
2-B-④:イット・マスト・ビー・ヒム
メインディッシュが終わり、ここはしっとりしたナンバーでクールダウンという感じである。
<It must be him>は、67年にアメリカの女性歌手ヴィッキー・カー(Vikki Carr)が英米でヒットさせ、「この恋に生きて」という邦題でも知られているが、もともとは66年にフランスの国民的歌手ジルベール・ベコーが自ら作曲してリリースしたシャンソン<Seul Sur Son Étoile>(邦題「ひとり星のもとに」)を英語でカバーしたものである。
英語の歌詞では、電話のベルが鳴り「あの人だわ」(It must be him)と揺れる女性の心の内をドラマティックに歌っている。相手は別れても好きな恋人なのだろうか。現代であれば、スマホの着信画面で、かけてきたのが誰なのか瞬時にわかってしまうので、逆にこういう心の機微を歌う名曲は生まれにくくなったかもしれない。
岡田冨美子さんの日本語詞も、英語詞の大意に沿って書かれている。歌い出しはまずミーちゃん、続いてケイちゃんがソロで歌う(ケイちゃんの声は、また少し泣きが入っているようにも聴こえる)。そしてサビの部分で、2人のハーモニーをたっぷり聴かせる。
♪電話のベルが鳴るたびに
あなたね あなたねと
受話器を取るのに
あの声が あの声が
聞こえてこないの あなたの
間奏部分では、ミーちゃんケイちゃんがそれぞれファンへの感謝を込めたメッセージを語っている。
ミー:私たちピンク・レディーはファンの方、みなさんあってのことだと思っています。いつも、いつまでも汗まみれで、一生懸命がんばるつもりです。
ケイ:みなさんの応援がなければ自信がありません。どうか最後までピンク・レディーを見守っていて下さい。
2-B-⑤:グッド・バイ・ジミー・グッド・バイ
コンサートも終わりに近づいてきた。しんみりと名残を惜しむムードを演出する選曲である。
<Goodbye Jimmy, Goodbye>は、アメリカの女性歌手ケーシー・リンデン(Kathy Linden)が、59年にヒットさせたオールディーズの名曲。タイトルの通り、遠くへ旅立つ恋人を見送る惜別のワルツである。
この曲も岡田さんの詞で歌っているが、原詞の< Goodbye Jimmy, Goodbye>を、<♪Goodbye, see you, Goodbye>と置き換えて、コンサートに来てくれた「あなた」に向けて語りかけている。ここも2人のハーモニーが美しい。
サビ以外の部分では、ケイちゃんがソロで主旋律を歌い、ミーちゃんはハミングで対旋律(オブリガード)を歌っている。デュオとして、様々な表現にチャレンジしようという真摯な姿勢が感じられる。
2-B-⑥:バイ・バイ・ベイビー
「チャレンジ・コンサート」と同様、ラストはこの曲。曲目の詳細は前にも触れたので省略する。今回はセリフ部分はカットし、よりシンプルに構成されている。最後は「さようなら」「ありがとう」と1万人を超える大観衆に向かって繰り返す2人の声が、フェードアウトして終わっていく。
ミーちゃんケイちゃんコンサート総括!?
最後に77年後半に編集された『ピンク・レディー2 ケイとミーの作った本』から「サマー・ファイア’77」についての2人の発言を紹介する。
ケイ (前略)でもさ初日の田園コロシアムは難しかったと思わない?
ミー 難しいっていうより、ステージが真ん中でお客様が四方にいるから。
ケイ そう、背中にもたくさんのお客様の目を感じるから、いつもより気をつかったっていうかなあ、とにかく勉強になったわね。
ミー 今、思い出してみると、あの暑さはすごかったね。
ケイ リハーサルのときね、30度はらくに越えてたみたい。スタッフの人達もみんな上半身裸になって汗だくだったもん。
(中略)
ミー 25の都市のこと全部をいちどきには思い出せないけど、今になっても断片的に、あの時はあんなことがあったなーって、ふっと思い出すことがある…
ケイ 私も、やっぱりそういう意味でもサマー・ファイアー’77が私達にとっての大きな蓄積になったと思う。
ミー そうね、じかにあんなに大勢のファンの人達と接することができたんだから。
ケイ サマー・ファイアー’77以来、コンサートに対していろいろ積極的に考えるようになった気がする。
ミー うん、ミーもそう思う!それにいろんな仕事、たとえば雑誌の取材とかテレビドラマの仕事に対してもすごく興味が出てきた。
「サマー・ファイア‘77」は、その後もさらなる飛躍を遂げる2人にとって、特別な意味を持つコンサートツアーであり、ライブアルバムだったようだ。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。