今から31年前、昭和が終わり平成が始まった年に、お笑いやバラエティ番組を中心に昭和のテレビ史を回顧する『昭和のTVバラエティ』(太田出版、1989)という本が刊行された。監修・執筆者は、放送作家の高田文夫氏である。この中で高田氏は、昭和53年(1978)のテレビ界を振り返り、こう記している。

 

時代のキーワードはなんたってお笑いではなく、ミーとケイのピンクレディー。このふたりの売れ方のものすごさというのも前代未聞。まさに寝る暇もないといった感じで1日十数本の番組をかけもち、本番直前にとび込んできてサッと歌って踊って嵐のように去っていく。私がやっていた番組で収録中に何度もNGがありケイが倒れ、そのまま車で運ばれたが、あとできいたらスタジオで倒れるのもスケジュールの中に組み込まれていたとか。すぐ次の番組へ行かなくては間にあわないのに、1時間も押された日にゃたまったものではないと段取り通り倒れたとか。いやあこれには参った。

 

ケイちゃんが「段取り通り倒れた」というのは、たぶん当時の業界内で面白おかしく脚色して語られたジョークの類いであろう。だが、過労による体調不良と睡眠不足で、ケイちゃんがよく倒れていたのは事実で、ご本人によれば「周囲も慣れていた」そうだ。普通なら倒れて車で運ばれる先は病院と決まっているが、彼女たちの場合、車内でちょっと休んでそのまま次の仕事へ、ということはおそらく何度かあったのだろう。

 

ことほど左様に、ピンク・レディーといえば「超過密スケジュール」が代名詞になるくらい、当時の過酷な状況を物語るエピソードには事欠かない。腹膜炎の手術をしたケイちゃんが、傷がまだ開いたままの状態で上からラップを巻いてステージに立った話など、その最たるものである。

 

もちろん前提として、当時は今とは「働き方」に対する考え方が全く違っていたことを考慮しなければならない。1970年代後半といえば、日本にはまだ週休2日制さえ定着しておらず、朝から晩まで働きづめで家庭もろくに顧みない「モーレツ社員」が大手を振って歩いていた時代である。日本の労働者の平均年間総実労働時間は2100時間前後で、今より約400時間も多かった。

 

また、当時は歌謡曲の全盛時代で、テレビの歌番組が各局とも今よりもずっと多かった。ピンク・レディーだけでなく、百恵ちゃんもジュリーもキャンディーズも、第一線で活躍していた人気歌手は、それぞれが超多忙だったことに変わりはない。売れていれば、それだけオファーが入ってくるのだから、忙しくなるのは当たり前ではある。しかし、やはりピンク・レディーの尋常でない忙しさには、他の歌手とは違った特殊な事情があった。彼女たちの場合、人気が出たから忙しくなったのではなく、むしろその前から既に多忙な状況は生まれていたのである。

 

今でもテレビやネットで、当時のピンク・レディーの超多忙エピソードが紹介されると、世間では「所属事務所がとんでもないブラック企業で、彼女たちを働かせるだけ働かせて搾取していた」という見方をされがちである。だが、物事はそう単純ではない。当時の様々な状況を整理してみると、もちろん所属事務所T&Cのやり方には多々問題があったのだが、「超過密スケジュール」が生じた背景には、そうならざるを得ないような事情がいくつか重なっていたといえる。思いつくままに箇条書きにすると以下のようになる。

 

1・T&Cは創業したばかりの小さな事務所で、とにかく仕事が欲しかった


2・所属タレントが少なく、最初から2人に期待するしかなかった


3・2人の芸能界入りが、ギリギリのタイミングだった


4・T&Cとレコード会社(ビクター)が並行して仕事を入れていた

 

(平凡Premium 「We are ピンク・レディー」より)


1・新興事務所の“強迫観念”

 

T&Cといえば、ピンク・レディーの一大ブームとともに、所属事務所として注目を集めたものの、グループ解散の約5か月後(81年9月)には倒産。まさにピンク・レディーと運命をともにした異色の会社だった。その成り立ちに関しては、経営者だった貫泰夫氏の『背中から見たピンク・レディー』に詳しく書かれている。

 

要約すると、証券会社出身の貫氏が芸能ビジネスへの参入を思い立ち、76年3月15日に東京・赤坂に事務所を設立したのがT&Cの始まりである。貫氏は当初、中学の同級生だった総会屋の小川薫に、1億円を超える銀行融資の紹介や出資の協力を得た。間もなく小川とは決別するが、その後執拗に嫌がらせを受け続け、手切れ金として1億円を渡すなど、79年に恐喝罪で告訴するまで苦しめられることになる。

 

それはさておき、設立から半月後の4月2日、貫氏は大手プロダクション芸映の社長の紹介で、前年芸映から独立して「アクト・ワン・エンタープライズ」という芸能事務所を立ち上げていた相馬一比古氏と会う。そして4千万円の負債も含めて、タレント、社員ごとアクト・ワンを買収した。このアクト・ワンの相馬氏が、2月の「スター誕生!」第16回決戦大会(放送は3月14日)でスカウトしていたのが、他ならぬミーちゃんケイちゃんの2人組であった。彼女たちは4月12日に静岡から上京してくるのだが、2人にしてみれば就職先の会社が、来てみたらいきなり違う会社になっていた訳で、さぞ驚いたことだろう。

 

ところで、もしあなたがそんな風に会社を新たに作ったとして、一番恐ろしいことは何だろうか?それは言うまでもなく、「仕事がない」ことである。既に安定した取引先があり、経営が軌道に乗っている先行企業とは違い、じっとしていたら仕事は来ないし、社員を養うこともできない。当然、営業に力を入れ、顧客を開拓していくことが最初の課題となる。


新興のT&Cが、大手も含めた既存の芸能プロダクションと渡り合い、生き残っていくには「とにかく仕事を取る」、「来た仕事は断らない」という姿勢が何よりも求められたことは想像に難くない。そうやって取引先と信頼(Trust)を築き、良心(Conscience)に従って仕事をする。まさに「T&C」である。


そのうち仕事が増えてきて、スケジュールがいっぱいになれば、余計な仕事は断ればよさそうなものだ。だが、狭い業界では付き合いが大切であり、また人気は水物でもある。これを断って仕事がもらえなくなったら…かくして半ば強迫観念のようにオファーを受け続けることになる。こうした新興ならではの企業気質が、全ての根幹にあったのではないか。

 

2・人材不足

 

T&Cが買収した相馬氏のアクト・ワンは、75年6月頃に設立されたようだ。相馬氏に関しては情報が少ないのだが、元々は芸映でいしだあゆみさんや西城秀樹さんのマネージャーを務めていたという。相馬氏がアクト・ワンを立ち上げるにあたり、所属タレントとして浅田美代子さんが芸映から移籍している。

 

浅田さんは73年、17歳の時にテレビドラマ「時間ですよ」でデビュー。挿入歌「赤い風船」が大ヒットして一躍人気アイドルとなった。浅田さんのデビュー時から、マネージャーとして面倒を見ていたのが相馬氏だった。なぜ浅田さんが相馬氏についていく形でアクト・ワンに移籍したのか、理由は定かではないが、この頃には吉田拓郎氏との交際が始まっており、結婚に向けて徐々に仕事を整理し、芸能界からフェードアウトしていく過程だったのかもしれない。T&Cがアクト・ワンを買収してすぐ、浅田さんから契約解除の申し入れがあり、それが貫氏の「芸能界最初の仕事」になったという。

 

アクト・ワンには、他に有砂しのぶ(宝塚音楽学校出身。オーディション番組「全日本歌謡選手権」でグランドチャンピオンとなり、75年「港のホテル」でデビュー)、原ゆう子(71年、朋ひろことしてデビュー。75年のTBSドラマ「ばあちゃんの星」の挿入歌「風物語」が代表作)という2人の女性歌手がいたが、残念ながら多くは望めなかった。看板スターだった浅田美代子さんが早々に退社したため、新興の小さな芸能事務所T&Cは、静岡から上京してきたばかりの2人組に、その命運を託すしかなかったのである。

 

3・ギリギリのデビュー

 

これは以前にも書いたが、当時の女性アイドルは中学、高校在学中にデビューするのが当たり前だった。それは、この時代の女性の仕事や結婚に対する価値観が、今とは大きく異なっていたことと無関係ではない。当時はまだ男女雇用機会均等法(86年施行)すらなく、社会の中で女性が長く仕事を続けることは今よりもずっと困難だった。女性は結婚したら家庭に入るものという考えが、一般的だったのだ。芸能界も例外ではない。山口百恵さんは14歳でデビューし、21歳で引退、結婚している。

 

ちなみに76年の女性の平均初婚年齢は24.9歳。最新の2016年が29.4歳だから、今よりも4~5歳早く結婚していたことになる。「スター誕生!」の応募者の大半が10代の少女だったのは、彼女たちが自分自身の夢に挑戦できる時間が限られていたからであり、芸能プロダクションやレコード会社にとっても、スターを作り出すには、出来るだけ年齢の低いうちにスカウトし、育て上げるのが成功への道だった。「スター誕生!」決戦大会に出た時点で、ミーちゃんケイちゃんは卒業を間近に控えた高校3年生。デビューして3年になる百恵ちゃんよりも、学年は1つ上だった。そういう意味では、かなり出遅れていたのである。

 

同じ大会で14社からスカウトされ、グランドチャンピオンになった清水由貴子さんは、当時16歳の高校1年生。そこから準備に1年もの時間をかけ、満を持して翌77年3月にデビューする。一方、ミーちゃんケイちゃんにはそんな余裕はなかった。特にケイちゃんは9月には19歳になるのだった。レコード会社ビクターの担当ディレクター、飯田久彦氏は「女の子は現在いいと思っても、翌年になると変わってしまうものである」という経験から、2人のデビューを早めたとしている。(「放送文化」79年1月号)

 

T&Cとビクターは、ピンク・レディーのレコードデビューを8月25日に設定した。この年の新人賞レースに間に合うかどうか、ギリギリのタイミングである。ビクター上層部は「ペッパー警部」を「ゲテモノ扱い」し、2人にさして期待はしていなかった訳だが、だからこそ逆に現場のスタッフは燃えた。なんとか新人賞を獲らせようと、なりふり構わない売り出し作戦に出たのである。ビクターの宣伝担当だった大橋忠氏はこう回想している。

 

僕は事務所の制作部長だった相馬一比古氏と親しかったので、ピンク・レディーの担当になったんですが、キャンペーンと称してずいぶん無茶なことをやりましたよ。夏の月山に行って、水着姿でスキーをやらせたり、銀座で“一日キャバレーホステス”なんて企画をやったり。もちろんいかにメディアに露出するかを考えていたからなんですが、2人には嫌な思いもさせてしまいましたね。(「Singles Premium」ブックレットより)

 

2人が雪山でビキニでスキーのポーズを取っているグラビア写真はよく知られているが、デビュー前に撮影されたものだったのである。このようにとにかく露出を増やすため、超多忙な状況が始まったのは、ケイちゃん(増田惠子さん)の「あこがれ」によれば、7月ごろだという。

 

もうすでに、この頃からたいへん忙しくなっていた。(中略)何がなんでも露出作戦ということで、七月からは、ダブル、トリプルブッキングの連続だった。もう何がなんだかわからない。テレビ、ラジオ、雑誌のグラビア撮影、地方のキャンペーンなど、この頃から睡眠時間が三時間になった。

 

こうしてデビュー前から、いわばアクセルを目いっぱい踏み込んで全速力でスタートした2人の芸能生活は、その後も初動の勢いのまま、減速することはなかったのである。

 

4・ブッキングの二元構造

 

貫氏は前述の著書の中で、当時「日常のNHKの出演交渉」についてはプロダクションではなくレコード会社が窓口になっていた、と書いている。そういう慣例があったのかどうかは定かではないが、彼女たちの仕事のブッキングは、T&Cだけでなく、ビクターも並行して行っていたことは間違いない。ビクターでは宣伝担当の大橋氏が、T&Cの相馬氏とは別にブッキングにあたっていた。

 

メディアの出演枠を確保するのが相馬と僕の仕事でした。お互いに得意分野を生かしてブッキングしてたんだけど、相馬というのは頼まれると断れない性格の男でね。すぐにダブルブッキング、トリプルブッキングが当たり前になってしまって、移動中や待ち時間にも取材を受けたりしていました(苦笑)。怒る人もいっぱいいたけど、勢いがあったし、みんなピンク・レディーに出演して欲しかったから、出入り禁止にはならずにすみましたけどね(笑)。

(「Singles Premium」ブックレットより)

 

現代であれば、例えばオンラインでスケジュール管理を行うなど、もう少しスマートに対処できただろう。だが、当時は携帯電話はおろか、一般にはファックスさえ普及していなかった時代である。手書きのスケジュール帳と固定電話のやり取りだけで、T&Cとビクター、それぞれに日々舞い込む多数のオファーを調整し、完璧にスケジュールを管理していくのは不可能に近かったはずだ。

 

ピンク・レディープロジェクトは、所属事務所とレコード会社ががっちり手を携え、一丸となって取り組んだことで、大きな成功を勝ち取った。一方で、2つの会社による「ブッキングの二元構造」が、慢性的な超過密スケジュールを生み、誰にもコントロールできていなかったのではないかと推測する。

 

以上、ピンク・レディーはなぜ超忙しかったのか、4つの観点から見てきた。当時の人気アイドルの中でも、大手の芸能プロダクションに所属していた人たちとは、違った環境にあったことは間違いない。どんなに過酷な状況にあっても、ミーちゃんケイちゃんとも、仕事がつらいと言ったことは一切なかったそうだ。ただ一つ、事務所に要望していたのは「もっとレッスンの時間がほしい。」そのプロ意識には、ただただ頭が下がる。これこそがピンク・レディーなのである!