ピンク・レディーのファーストアルバム「ペッパー警部」についての私的メモを続ける。今回はA面の4曲目から。このペースだと、最後まで到達する前に折れてしまうかも知れないので、できるだけ簡潔に行きたいところではある。


(近代映画社「ピンク・レディー・メモリアルブック」より)

A-4:ピンクの林檎


2枚目のシングル「S・O・S」のB面曲。もう43年も前だが、この歌を初めて聴いた時のことを、なぜか今も憶えている。


当時、10代の男子を中心に、ラジオで外国の短波放送を聴くBCL(Broadcasting Listening)というものが、ちょっとしたブームになっていた。大手メーカーが短波ラジオの新モデルを次々と発売し、専門の雑誌もあった。BCL向けのラジオ番組もあったほどで、司会は自身も短波マニアのタモリさんだった。(この頃のタモリさんの“密室芸”にも「世界の短波放送」というネタがある)


小学校5年生だった僕も、このBCLにのぼせていたのだが、ある時どういう訳か、住んでいた田舎町にナショナル(松下電器=現パナソニック)のお姉さんが、短波ラジオのプロモーションにやってきた。そのお姉さんがとてもキレイな人だったので、ちょっと恋心を抱いた僕は、後日友だちを誘って、県庁所在地にあった「ナショナルショールーム」にもう一度会いに行ったのである。その時、ショールームの店内で流れていたのが、この「ピンクの林檎」だった。「S・O・S」と交互に、繰り返しかけられていたように思う。レコード発売元のビクターが松下電器系列だったからなのか、たまたまだったのかは定かでない。


♪ピンクの林檎を ピンクの林檎を食べたのね

  ピンクの林檎を ピンクの林檎を食べたのね


サビの部分のミーちゃんケイちゃんのハーモニーは、いつまでも聴いていたいくらい心地よく、可愛らしい。あの時の、甘酸っぱい感覚が蘇るような気もする。都倉俊一氏がピンク・レディーに書いた曲にしては珍しく、フォークソングのような素朴さ、懐かしさも感じる。


阿久悠氏の詞はやはりA面の「S・O・S」と呼応していて、A面で「♪男は狼なのよ 気をつけなさい」と警告したにもかかわらず、B面では「ピンクの林檎」を食べてしまい「♪もう恋の中毒よ」という訳である。


ところで「ピンクレディー」というリンゴがあるそうだ。まさしく「ピンクの林檎」じゃないかと思ったのだが、元々オーストラリアで開発されたらしく、直接は関係ないようだ…などと書いているとどんどん長くなるので、次へ行く。


A-5:ゆううつ日


ミーちゃんのソロ曲。Aー2「インスピレーション」と同様、阿久氏都倉氏によるオリジナルである。


タイトルの通り、ピンク・レディーの弾けるイメージとは180度違う、落ち着いたテンポの悲しげな曲で、恋人に会えずにいる女の子の淋しい気持ちをミーちゃんがしっとりと歌い上げている。昭和の女性アイドルで言うと、岩崎宏美さんとか「冬の色」の頃の山口百恵さんが歌っても似合いそうな、じっくり聴かせるタイプのアイドル歌謡である。


「インスピレーション」が明るく開放的なのに対して、「ゆううつ日」の方は文字通り、女の子の憂鬱な気分を歌った暗めで内向的な曲である。前者をケイちゃん、後者をミーちゃんが歌っているのは、ピンク・レディーブームを知る多くの人が持っている2人のイメージからすると、逆ではないか、という声が聞こえてきそうである。


僕自身もそう思っていたのだが、ミーちゃんの方が背が高く、踊りもダイナミックで、いつも笑顔で快活な印象だった。一方のケイちゃんはデビューしてから急激に痩せて、病気やケガでよく倒れたこともあり、か弱くて影のある女の子という固定観念が、世間一般には広まってしまった感がある。


だが、実際は必ずしもそうではない。「近代映画」1977年2月号(76年末に発売されたと思われる)で、「ペッパー警部」でやっと注目され始めた頃の2人が作家の落合恵子さんと対談しているのだが、その中にこんな発言がある。


落合 そうね、見ているとケイさんの方が姉貴的で、ミーさんが妹みたいな感じがするわね。

増田 そうなんです。性格がまるで逆なんです。ミーはおっとりしていて少し頼りないところがあるんだけれど、ケイは男まさりでしょう。どうしてもケイが引っぱって行くって感じになるんです。

根本 ケイが“動”でミーは“静”なのね。


つまり、デビュー前後の彼女たちと接していたビクターのディレクター飯田久彦氏や阿久氏、都倉氏が、ケイちゃんに「インスピレーション」、ミーちゃんに「ゆううつ日」を歌わせたのは、2人の性格に合わせて、ごく自然に決まったのではないだろうか。ちなみにこの記事では、発言者の表記が本名の「根本」「増田」となっているのが面白い。まだこの時は「ミー」「ケイ」という呼び名すら、業界内でも定着していなかったことが推測できる。


また、2人が高校生だった頃、静岡で受けたヤマハのオーディションや「スター誕生!」の予選会ではそれぞれがソロで歌う機会があった。ケイちゃんがペドロ&カプリシャスの「ジョニイへの伝言」や朱里エイコさんの「恋の衝撃」など大人っぽい歌を歌ったのに対して、ミーちゃんは麻丘めぐみさんの「アルプスの少女」を歌っている。ミーちゃんの中に、清純派アイドルを志向する部分が強かったのかもしれない。その意味でも「ゆううつ日」の方がミーちゃんに向いていたように思える。

 

A-6:S・O・S


ご存知2枚目のシングル曲。77年2月、ピンク・レディーはこの曲でオリコン週間チャートで初めて1位を獲得する。だがレコーディングの段階で、この快挙を予想できた人は、ほとんどいなかったのではないか。


飯田氏によれば、レコーディングは76年9月頃で、まだ「ペッパー警部」は全く日の目を見ていなかった。レコーディングの時、作曲の都倉氏が、何か面白い音はないかと言うので、エンジニアの山口照雄氏が、当時ビクターのスタジオに入ったばかりのARPというシンセサイザーで、SOSのモールス信号を真似て録音した。


飯田氏は、何とか話題になればと、これを曲の冒頭に入れ、発売前に放送局に配布する見本盤を制作。船舶などが発信する本物の遭難信号と間違える恐れがあると言うので、あるラジオ局ではこの部分をカットして放送した。それが新聞の記事になったので、飯田氏は「してやったり」と喜んだという。(「Singles Premium」ライナーノートより)


今でも「『S・O・S』は放送禁止になった」という話がネット上で語られているが、実際はそれだけのことに過ぎない。当時このことが世間の話題になっていたという実感は、僕自身には全くないし、雑誌の記事などにも記述は見当たらない。この曲が発売された頃には、ちょうど「ペッパー警部」がヒットし始め、ピンク・レディーは大胆な振り付けで歌い踊るミニスカートの2人組として、既に存在自体が世間の大きな注目を集めつつあった。なので、飯田氏のこの“仕掛け”は「S・O・S」のヒットにほとんど影響していないと言っていいだろう。


楽曲としては「ペッパー警部」ほどの過激さはなく、ミーちゃんケイちゃんも曲をもらった時は、いささか拍子抜けだったらしい。だが、これはこれで、阿久・都倉コンビの特徴がよく出ていて、特に子どもでも一緒に歌える親しみやすさという点では、非常に優れた作品である。


飯田氏は都倉氏に、構成をあまり難しくせず「必ず繰り返しが出てきて覚えやすい」王道のポップスを求めたという。都倉氏は注文に忠実に、明るく軽やかで覚えやすい楽曲に仕上げている。


キャッチーなサビの繰り返しのメロディは、後から阿久氏が「♪S・O・S、S・O・S」の詞をはめ込むことを想定して書かれたものと思われる。アレンジも都倉氏らしく、イントロは得意のストリングスの駆け上がりで華やかに、その後のブラス、サックス(?)の掛け合いも楽しい。


Bメロ(♪この人だけは 大丈夫だなんて…)でミーちゃんケイちゃんがハモるのだが、どっちが主旋律でどっちがハモりなのか、僕などは未だにわからない。あえて50:50のバランスでミックスしているのではないだろうか。


ここにキャンディーズとの違いがあらわれる。3人組のキャンディーズは、主旋律を歌うセンター(初期はスーちゃん、「年下の男の子」以降は主にランちゃん)がいて、両サイドの2人はコーラスパートを担当する。それに対して、ピンク・レディーの場合は、出来るだけメインとサブをはっきり区別せず、2人の声を1つに融合させ「ピンク・レディーの声」として聴かせるような音作りが意図的に行われていたように思える。


レコーディングの際も、2人が別々に録音するのではなく、基本的にはミーちゃんケイちゃんが同じブースに入って、2人で一緒に歌うスタイルを取っている。もう、どんだけ仲がいいねん!


そんな訳で、アルバム「ペッパー警部」のA面では、性格も声質も対照的なミーちゃんケイちゃんそれぞれの個性も楽しみつつ阿久悠・都倉俊一という稀代のコンビが引き出すピンク・レディーの初期の魅力を、存分に味わえる。次回は、やっとB面へ。(続く)