年が明けて1981年。解散まで2か月を切った2月9日、ピンク・レディーは「夜ヒット」に出演し、前回と同じく「リメンバー」を歌った。この日の新聞ラテ欄の番組表には、久しぶりに「ピンクレディー」の文字があった。
緑と赤に染めた羽を縫い込んだコスチュームで歌う2人の背景には、ミラーボールといくつかの光源が配置され、「夜ヒット」お得意のクロスフィルターを使った光の演出が施された。今回もワンコーラス歌ったところで、後方の共演者たちが席から立ち上がって盛り立てる。間奏では、当時の生放送では珍しく、コマ送りのような映像エフェクトも使用するなど、番組サイドは解散間近の彼女たちに気を遣って、それなりに手をかけているように思える。
解散発表から5か月が過ぎたこの頃、彼女たちは最後のコンサートツアー「さよならピンク・レディー」で全国各地を回っていた。だが、コンサートに足を運ぶファンは別として、世の中的には今ひとつ盛り上がっていなかった。キャンディーズ解散や百恵ちゃん引退の時に「フィーバー」が起きたのとは対照的だった。
目ぼしい話題もなく、司会者の芳村真理女史も、この日の歌唱前のトークでは、ミーちゃんケイちゃんに何を聞けばいいのか、思い浮かばなかったようだ。
芳村「えー、3月31日解散」
2人「はい」
芳村「間近ですね、もうね」
2人「はい」
芳村「どうですか?」
あまりにも雑な問いかけに、2人は苦笑気味。一瞬、間が空いた後で、当たり障り無く答える。
ミー「最後までピンク・レディーらしく頑張ります」
ケイ「頑張ります」
芳村「そうよね。というわけでございます。さ、それじゃがんばって」
井上順「お願いします」
芳村「どうぞ」
この時期、話題になるような動きが全く無い訳ではなかった。1月21日には、21枚目のシングル「Last Pretender」(ラスト・プリテンダー)をリリースした。作詞は、コピーライター出身で、前年ジュリーが歌ってヒットした「TOKIO」の作詞を手がけるなど、幅広い活躍で注目されていた糸井重里氏。作曲は、当時テクノポップブームで日本を席巻していたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の高橋幸宏氏。まさに時代の先端を走っていた2人がコンビを組んだ訳で、本来ならそれだけでも話題性は充分にあったはずだ。
しかしながら、この曲のレコード売り上げ枚数は、なんと7800枚。つい3年前にはミリオンセラーを連発していたピンク・レディーのシングルとしては、信じられない数字である。
そもそもこの曲、レコーディングしてシングルリリースしたものの、テレビやコンサートでは全く歌われなかった。上に書いたように、この日の「夜ヒット」でも、彼女たちが歌ったのは、12月発売の「リメンバー」である。売れ行きを見る限り、「Last Pretender」については、恐らくこれといったプロモーションが行われなかったに違いない。
では、なぜ前のシングルが出て間もない時期に、わざわざ発売する必要があったのだろうか?解散を前に、所属事務所T&Cとレコード会社ビクターとしては、企画、制作サイドと宣伝、営業部門が一体となって盛り上げを図っていくべき大事な時期だったはずなのに、なんともチグハグな印象は拭えない。もはや、チームはバラバラ、迷走の極みだったと言わざるを得ない。
2011年に発売されたCDボックス「Singles Premium」のライナー・ノートを執筆した濱口英樹氏によると、この「Last Pretender」を「どういう経緯で制作したか、なぜシングル曲として発売したかについて関係者の記憶は定かではない」という。
なんとなく推測できるのは、解散後も引き続きT&Cに残留し、ソロシンガーとして活動することが決まっていたミーちゃんに、今後の可能性を探る意味で、試しに当時流行りのテクノでも歌わせてみたらどうか、と誰かが思いついたのが、企画の発端だったのではないか。
実は、高橋幸宏氏による曲は、書き下ろしではなく、高橋氏が作曲してRajieさんという女性シンガーが前年にシングルとして発表した「偽りの瞳」という作品と同じものだ。そこに糸井氏が新たに詞をつけたのが「Last Pretender」である。既存の曲を再利用したのは、もう解散の日程が決まっていて、新曲を依頼して一から作ってもらうには、時間的な余裕がなかったからかもしれない。
何も知らないでこの曲を聴くと、典型的なテクノサウンドで、しかもボーカルにエフェクトがかかっているので、ピンク・レディーが歌っているとはまず気がつかないだろう。恐らく歌い出しのAメロだけは2人で歌っているが、サビ(と言っていいのか微妙だが…)からはミーちゃんのソロになり、ケイちゃんは何度か英語の短いセリフをボソボソつぶやいているだけである。
歌声を加工していることもあり、確かにライブ向きの楽曲ではないだろう。ファンの間では有名だが、2003〜05年に行われた再結成ツアーの最終ステージの終盤で、ミーちゃんが「2年間のツアーでまだ歌っていないシングル曲が2曲ある」と指摘。すかさずケイちゃんが「その内の1曲は抹消しました!」と宣言した。このMCの後で、まだツアーで歌われていなかった「リメンバー」が披露された。つまり、ついに歌われなかった「Last Pretender」こそ、抹消(“封印”ではない)された1曲なのである。(ただし、その後ミーちゃん=未唯mieさんは、自身のライブで歌ったこともあるようだ)
「Singles Premium」のライナー・ノートで、ケイちゃん(増田惠子さん)は次のように言っている。
「私のなかでは存在しないことになっている曲です(笑)。『解散間際になぜこの曲なんだろう? 』と思ったこと、それからレコーディングのときに私のやる作業がほとんどなくて、『解散を決めた私のいる場所はもうないんだな…』と寂しく感じてしまったこともありますね」
大好きだったレコーディングでも居場所がなくなったと感じていたケイちゃん。解散発表後のさよならコンサートツアーでは、ケイちゃんのソロパートの構成は考えてもらえず、着替えのアシスタントもつけてもらえなかった。ここでも、ことごとく彼女に辛くあたっていた例の事務所幹部(X氏とする)の存在が浮かんでくる。
解散発表直後、ルポライター山際淳司氏が本名の犬塚進名義で書いた「週刊サンケイ」の記事で、「ピンク・レディー プロジェクト」を牽引してきたX氏は、こう言い放っている。
「日本の女性の歌い手は、たいてい根本的なところですごく日本的なんですよ。ある時期、歌手として華やかな世界にいてもまだ花があるうちに幕を下ろして普通の人になりたいと思っているんだな。(中略)ケイも、結局のところ、それなんですね。普通の女性としての幸せみたいなものを、まず考えてしまう。それじゃ、アメリカという巨大な音楽マーケットに出ていくことはできませんよね。フットワークが足りない。ぼくは、一度、ピークを迎えたピンク・レディーにさらにムチを入れた。ミーはそれに乗って走り続けたけど、ケイは走り切れなかった。解散ということを考え始めたのはそれからですね」
解散が決まったとはいえ、まだ事務所に所属して活動しているタレントを、本来守るべき立場にある事務所の幹部が、不祥事を起こした訳でもないのに、メディアに出てこれだけ冷たく突き放すとは。ケイちゃんが読んだとしたら、大いに傷ついただろう。なぜX氏は、彼女にこれほど厳しい態度を取っていたのか?
元々ケイちゃんとX氏の関係は、悪くなかったどころか、むしろ親密だった。出会いは、ミーちゃんケイちゃんの芸能界入りのきっかけとなった76年2月収録の「スター誕生!」決戦大会にまで遡る。デビュー翌年の77年の後半にまとめられたと思われるタレント本「ピンク・レディー2 ケイとミーの作った本」(78年1月発行)の中で、ケイちゃんはX氏のことをこう語っている。
Xさんは私達の大恩人。スタ誕の決勝の時にいち番前でいち番最初にプラカードを上げててくれた人なんです。『君達が二十二、三歳になった頃を思うと、とっても夢がある、とにかくいっしょにやってみないか』って言ってくれたのが忘れられません。歌手になれた、いち番大きな力だと思います。仕事にはすごく熱心で厳しくていつも『今の自分を大切にしろ』と言ってくれます。でも仕事を離れるとお父さんみたいにやさしくて、とにかくXさんの言うことなら、何でも素直になって聞くことが出来ちゃう、とっても大好きです。
ケイちゃんは、3歳の時にお父様を亡くされている。そのケイちゃんが「お父さんみたいに」思って信頼し、慕っていたのがX氏だったのだ。
ケイちゃん(増田惠子さん)が2004年に出版した『あこがれ』によれば、デビュー翌年の春、ピンク・レディーが初めての単独公演「チャレンジ・コンサート」を行った時、ケイちゃんが曲の合間にふと舞台の袖を見ると、X氏がボロボロ泣いていたのだという。
それを見たら、どんなことでも頑張ろう!!この人のために頑張ろう!そう思った。そして、自分でも気づかぬうちにこの思いは「恋」へと形を変えていった。(『あこがれ』より)
この時、ケイちゃんは19歳。純真だった。毎日朝から深夜まで10数本の仕事に追われ、睡眠時間も満足に取れない超ハードスケジュールが続いていたが、大好きなX氏の喜ぶ顔を見るのが、彼女のモチベーションになっていた。売れっ子アイドルと事務所のプロデューサー兼マネージャーの関係。当時、X氏は30代前半で妻子がいたが、自分を慕うケイちゃんを憎からず思っていたのだろう。どこまで本気だったかわからないが、「奥さんと別れる」と言い、ケイちゃんはその言葉を信じていたという。
だが、多忙さがますますエスカレートする中、ケイちゃんは次第に不安を抱くようになる。X氏は仕事のために、自分の恋心を利用しているのではないか?X氏を信じたいが、ほんとうに信じていいのか?それで幸せになれるのか?
そんな時に、ケイちゃんは腹膜炎で緊急入院する事態に。病院に、お見舞いの花を贈ってきたのが某人気男性歌手(Y氏とする)だった。「UFO」を歌っていた頃、Y氏からアプローチを受けたケイちゃんは、その優しさに惹かれていく。そして悩んだ末、妻子あるX氏への思いを断ち切ることにした。「サウスポー」の頃、X氏に「終わりにしたい」と告げ、Y氏の元へ走ったのである。
X氏は男として、当然面白くなかっただろう。それからケイちゃんの行動を厳しく監視し、交際をけん制。Y氏のことを中傷する言葉も吐いた。そして「ジパング」の頃に、ケイちゃんの熱愛報道が出てからは「仕事と結婚、どちらを取るのか?」と二者択一を迫り、その後も事あるごとに、彼女に辛くあたった。まさに「可愛さ余って憎さ百倍」である。
X氏やT&Cにとって、特に厄介に思えたのは、Y氏が同業者だったことだろう。ケイちゃんにとっては業界の先輩でもあり、実際仕事に関しての相談もしていたようだ。推測だが「君の事務所、仕事入れ過ぎだよ。オカシイんじゃないの?」くらいのことを、Y氏が言っていたとしても不思議ではない。X氏たちは、ケイちゃんが事務所に反発するようになったのは、Y氏が余計な入れ知恵をしているせいだと考え、敵視していたように思える。
もちろん、リアルタイムでピンク・レディーブームを支えた当時の10代のファンたちが、そんな裏事情を知る由もなかった。僕たちもそうだったが、人々の多くは、彼女たちが解散するのは、ブームが終わって人気が落ちたから仕方ないのだろうくらいにしか考えていなかった。
ケイちゃんが解散を選んだ直接的な理由としては、「仕事か結婚か」と迫られ、歌手Y氏との結婚を望んだから、という部分がやはり大きいだろう。表向きは交際の事実を認めてはいなかったが、週刊誌やワイドショーも、ケイちゃんとY氏の関係に関心を持っていた。
だが、こうして一連の経緯を改めてたどると、ケイちゃんを解散に向かわせた根本的な要因は、Y氏の存在以上に、X氏との複雑な関係にあったように思えてならない。ケイちゃんにしてみれば、歌手になる夢を叶えてくれた大恩人であり、最も信頼し、一時は恋愛感情まで抱いた人物から、手のひらを返したように、容赦ない「仕打ち」を受けるようになり、最後には居場所さえ奪われたのである。なんともやりきれない。
この日の放送を終え、ピンク・レディーとして「夜ヒット」に出演するのは、あと1回となった。最後の出演は、解散の前日だった。詳しくは、次回。