1980年9月1日。ミーちゃんケイちゃんは赤坂プリンスホテルで記者会見を行い、翌81年3月末をもって、ピンク・レディーを解散することを発表した。2人とも「ピンク・レディーとしての活動は使命を果たし終えた」と考えたこと、そしてそれぞれの価値観が違ってきたので、次のステップに進むため、別々の道を歩むことにしたと、解散の理由を語った。

会見の様子を伝える当時の記事によれば、2人とも「終始にこやかに笑顔を絶やさなかった」(スポーツニッポン)といい、「新しいものへの出発を発表する場のような雰囲気だった」(週刊女性)。解散の苦悩、悲しさ、寂しさから、2人が涙を流す姿を想像していた芸能担当の記者たちは、いささか拍子抜けだったようだ。

思い返せば、キャンディーズの解散や山口百恵さんの引退には、世間の話題を集める物語性があった。ランちゃんが解散宣言の際に叫んだ「普通の女の子に戻りたい!」という有名なフレーズは、昭和の時代、誰もが憧れる雲の上の存在だった人気アイドルが、まさかそんなことを考えていたなんて、と衝撃を持って受け止められた。「アイドルも人の子なんだ」(当たり前のことではあるが…)と彼女たちを応援するムードが日本中で高まり、キャンディーズの人気は解散に向けて盛り上がっていった。そして、芸能界で築き上げたトップスターの地位を惜しげもなく捨てて、友和さんとの愛を選んだ百恵ちゃんの決断もまた、広く共感を呼んだのは言うまでもない。

ところが、ピンク・レディーの解散発表には、世間が飛びつくようなドラマティックな要素が乏しかった。芸能メディアは、何とか読者の関心を引こうと、記事の中に例の「ミーケイ不仲説」を持ち出したりしているのだが、仕事に対する考え方や価値観の違いに言及するのみで、「不仲」の中身はまるで書かれていない。書けないのは当たり前で、不仲なのは「ミーちゃんVSケイちゃん」ではなく「ケイちゃんVS所属事務所T&C」だったのだ。

もう一つ、会見に詰めかけた記者たちが期待していたのは、ケイちゃんが某歌手との婚約、もしくは結婚を前提とした交際を明らかにするといったサプライズだったろう。だが、この日ケイちゃんから、これについての発言はなかった。当然ながら、何か発言するには、相手方の所属事務所も含めて、関係者の事前の了解が必要となる。実際、この時点では、具体的に何かが決まっていた訳でもないので、何も言いようがなかっただろう。

ただし、ケイちゃん(増田惠子さん)の著書『あこがれ』によれば、この頃には相手の男性から「もういいよ、もう仕事はやめて結婚しよう」と言われていたという。ミーちゃんも、ケイちゃんから交際が結婚を前提に進んでいることを聞かされ、解散を考える大きな理由となったようだ。後年、ミーちゃん(未唯mieさん)は次のように回想している。

ケイに心から愛する人がいて、事務所から結婚か仕事か、どちらかを選びなさいと迫られていました。その頃、ケイから「解散することになってもいいかな?」との問いかけがあり、私は一も二も無く「ケイが幸せになれる事だったら、もちろんいいよ」って答えました。(「ピンク・レディー プラチナ・ボックス」フォトブックより)


解散発表の後、初めて彼女たちが「夜ヒット」に出演したのは、4週間後の9月29日。すでに「さよならコンサート」と銘打ったツアーも始まっていた。この日は解散について、司会者と次のようなやりとりがあった。

芳村真理:この間解散をするっていう話を聞いてからね、今日なんか歌うの聞いててね。なんかこう寂しいなあ、なんて思うよね。やっぱりファンのみなさんもそうなんだ。すごいんですってね、みんなもう
ミー・ケイ:…はい

2人は、何が「すごい」と言われているのか、ピンと来ていない様子。はいと答えるまで、ちょっと間があった。

井上順:ケイの方はこれから女優さんの方をめざすっていうことでしょ
ケイ:(慌てて)まだ決まってないです
井上:ミーの方はアーティストとして頑張るからね
ミー:(笑顔で)はい、歌を歌います

解散後、ケイちゃんは女優に転身するという話が、この頃スポーツ紙などで報じられていた。ただケイちゃん自身は、将来について「何とは決めていないが、芸能界で仕事をしたい」と、あえて曖昧に説明していた。解散する翌年3月末でT&Cとの契約が切れるため、ケイちゃんは他の事務所への移籍を望んでいた。将来の活動は移籍してから考えたいとの思いがあったのだろう。さらに言えば、先に書いた通り、結婚して引退という可能性も濃厚だったのである。

井上:とにかくこれからどうなるかわからないけどね。今までのピンク・レディーっていうのはね、第一歩のスタートであって、これからがほんとうに、また大変なことがいっぱいあるんじゃないか…
芳村:これから長いから、これから頑張ってほしい
井上:乗り切ってね、頑張らないとね
芳村:そういう意味じゃ、すごくうれしいわ。でも時々さ、そのうち二人でまた歌ったりなんかしてね
ミー・ケイ:ウフフ…(笑顔でうなづく)


この日、エレガントな白いドレス姿で登場した2人。記者会見の時、ケイちゃんは解散を発表したことで「気持ちが楽になった」と言ったが、ほんとうに肩の荷が下りたような、穏やかな表情が印象的だ。

スタジオに用意された赤や黄色に色づく秋の樹々を背景に歌ったのは、19枚目のシングルとして8日前にリリースした「うたかた」。前年アメリカで発表したアルバム≪Pink Lady≫に収録された1曲≪Strangers When We Kiss≫(作詞作曲:マイケル・ロイド、ジョン・ダンドリア、編曲:ジョン・ダンドリア)を、オリジナルの日本語詞とアレンジでセルフ・カバーしたものである。

消えゆく キャメルのコートに
  手をふる 女が一人
  ひと夜だけ肌を暖めたわ
  ポケットに入れた指の先 誰も届かない 
  ’Cause we’re strangers when we kiss
  うたかたの恋でもいいの wow wow
  Strangers when we kiss
  出逢う時 誰もが他人よ

詞を手がけたのは、三浦徳子さん。この年、作詞した松田聖子さんのデビュー曲「裸足の季節」と次の「青い珊瑚礁」がヒットし、新人アイドル聖子ちゃんとともに、一躍その名が知られるようになっていた。

若さが弾けるような聖子ちゃん作品とは全く違い、「うたかた」はしっとりとした大人の曲だ。原曲のタイトルは「キスする時も他人」。恋のゲームを演じながら、お互いにあえて相手の中に踏み込まない大人の恋の関係を匂わせる原曲のニュアンスを保ちつつ、三浦さんは「キャメルのコート」や「ポケットに入れた指先」といった原曲の英語詞にはない視覚的な言葉を巧みに使って、一編の外国映画のような世界を浮かび上がらせている。(これが岡田冨美子さんなら、またテイストが違っただろう)

そして編曲は、川口真氏。前作「世界英雄史」の作曲、編曲も手がけた川口氏は、弘田三枝子さんの名曲「人形の家」の作曲でも知られ、昭和の歌謡界を第一線で支える音楽家だった。

原曲は、ディスコ調ではあるが、ストリングスとピアノを中心とした、どちらかと言えば柔らかいサウンド。2人のボーカルも、プロデューサー、マイケル・ロイドの指示で、例の「ファルセットで2人の声質を合わせたウィスパー唱法」となっており、確かに耳に心地よいのだが、彼女たちの個性が少し薄れたきらいがある。

これに対して、川口氏のアレンジは、ホーンセクションとリードギターで曲の輪郭を際立たせ、2人のボーカルも前に出てくる感じで、わかりやすい「歌謡曲仕様」に仕上げている。実を言うと、ミーちゃんもケイちゃんも、原曲≪Strangers When We Kiss≫の方が気に入っているそうで、再結成時のコンサートでもそちらを歌っている。

だが「うたかた」の方も、これはこれでカッコいいし、昭和の歌謡曲に携わったクリエイターたちのレベルの高さを示す好例だと思う。何よりも聴かせる大人のデュオとしてのピンク・レディーの魅力を引き出すことに、大いに成功している。(解散が決まった後では、ほとんど誰も気をとめなかっただろうが…)この時の映像を今改めて観ると、解散発表の翌日に23歳になったケイちゃん、ハッとするくらい美しい。

さて、ピンク・レディーは、この翌週の10月6日にも、2週連続で「夜ヒット」に出演している。この時は「サヨナラ山口百恵」と題した特集で、引退する山口百恵さんの最後の出演となった伝説の回である。「花の中3トリオ」時代からの盟友である森昌子さん、桜田淳子さんをはじめ、新御三家やジュリーなど、この時代の歌謡界を百恵さんとともに支えた錚々たる歌い手たちに混じって、彼女たちも登場。百恵さんを2人で囲んで、ご本人のヒット曲「絶体絶命」を歌った。残念ながら、僕自身はこの時の映像は見ていない。恐らく権利の関係で、DVDにも収録されず、以前CSで再放送された際も、彼女たちの出演シーンはカットされていたようだ。

この頃結婚を意識していたケイちゃんは特に、2つ年下の百恵さんの決断に、共感を寄せていたに違いない。この年の11月(百恵さんたちの結婚式が行われたばかりの頃)、スポーツニッポンの記者に結婚について聞かれ、ケイちゃんはこう答えている。

「山口百恵さんとも話したことがあるの。お互い不遇な家庭だったことについて…彼女も私もすごく家庭にあこがれているんです。ですから、私も母のことをちゃんとしてあげたいし、結婚したら器用じゃないから家庭を大事にしたい」

ケイちゃんは3歳の時に、事故でお父様を亡くされている。お互いに忙し過ぎて、百恵さんとそれほど親しくなることはなかったとは思うが、2人には何か通じ合うものがあったのかもしれない。

そういえば、つい先日、百恵さんが39年ぶりの自著として出版したキルトの作品集が話題になっている。よく見ると、著者名は「三浦百惠」と記されている。あれ?ケイちゃんの現在の芸名「増田惠子」と同じ「惠」の字じゃん?…と思って調べたら、どうやら百恵さんの本名は、正式にはこの「惠」の字らしい。

ピンク・レディー時代、本名の「増田啓子」をそのまま使っていたケイちゃん。先回りするが、翌81年3月の解散コンサート後の記者会見で、「『啓』は敵を作りやすいというので、違う字に変えたい」と発言している。ケイちゃん、そんなに敵を作っちゃったのか?あるいは、周囲の人たちが敵に見えてしまっていたのか?…いずれにせよ、事務所との問題がいかに根が深く、壮絶なものだったのかと思うと、胸が痛くなるのだが、そんなケイちゃんは解散後、ソロになってしばらくは、芸名を平仮名で「けい子」とし、さらに「惠子」と改名している。「惠」の字にしたのは、もしかして百恵さんを意識したのだろうか?事情をご存知の方がいらっしゃったら、ご教示いただけると幸いである。