令和最初の7月、東京は梅雨前線の影響で日差しが少なく、特に前半は記録的な日照不足だったそうだ。39年前、1980年の7月もいわゆる冷夏で、似たような傾向にあったらしい。農作物への被害は、日本全国で戦後最大の7千億円近くに上った。


その年の七夕、7月7日の東京の天気は、曇り時々雨だった。天の川は見えなかったに違いない。その夜に放送された「夜ヒット」、赤のコスチュームで登場したピンク・レディーは5月の出演に続き、「世界英雄史」を歌った。



 

♪ナポレオンもシーザーも始皇帝も死んだ

  ジンギスカン アルカポネ カメハメハもいない

  その名は英雄 斗う男

  イエヤスもコジローも キヨモリも死んだ
  私だけ愛してた あのひともいない
  Come back, hero come back
  Hero come back, I love you so


何と言っても歌詞が異彩を放つ「世界英雄史」。作詞した伊藤アキラ氏は1940年生まれ。阿久悠氏より3つ年下である。「冗談音楽」で知られ戦後のラジオやCMの草分け的な存在だった放送作家・三木鶏郎氏の事務所に学生時代から出入りし、放送や広告の仕事に携わった。CMソングの世界では、日立の「この木なんの木」(73年)など多くのヒットを生み、78年には「かもめが翔んだ日」(渡辺真知子)を手がけるなど、歌謡曲にも進出していた。広告代理店勤務や放送作家を経て作詞家となった阿久氏の経歴と重なるところがある。


当時のビクターのディレクター、飯田久彦氏によれば、この「世界英雄史」は、伊藤氏の方から「こういうのが書きたい」とアプローチがあり、「面白そうなので是非」という話になったという。前年に阿久氏が休筆に入ったのを機に、ピンク・レディーから離れていた状況もあり、伊藤氏としてはあわよくば自分が後を、と思っていた節もあったのだろうか。


歴史上の人物の名前が次々と登場する歌詞は、歌謡曲としては異色で、「企画性で勝負」という点では、確かに阿久氏の「おもちゃ箱路線」に通じる部分もある。だが、こういう歌もあってはいいとは思うが、シングル曲として発売するには、ちょっと無理があったようだ。


決して子どもが飛びつく内容ではないし、かといって「〇〇も〇〇も死んだ」と人物名を羅列する歌詞が、歴史ファンに受けるとも思えない。なんだか教科書の暗記をさせられているような気分にもなる。要は「ちょっとしたアイデア」の域を超えないのだ。


この曲を渡された時、ミーちゃん(未唯mie さん)は大いに困惑したという。

 

「それまでは詞を読めばその世界がフッと思い浮かぶような作品が多かったんですけど、このときばかりは何度読んでも『何が言いたいのかな』って。『この人たちがどんな人なのか、まず知ろう』と思って調べたりもしたんですが、やっぱり『?』っていう感じで。『なにか隠れた意味でもあるのではないか』と何日も考えていたような気がします。ということは、そういう時間はこのときあったということですね(笑)」(「Singles Premium」ライナーノートより)

 

一方、ケイちゃんはといえば、ナポレオンやシーザーどころではなかった。実はこの曲を歌っている時期に、彼女はピンク・レディーを辞める決断をしている。ミーちゃんと直接話し合った訳ではなく、一人で決めて「精神的にもう無理なんだ」と事務所に伝えたという。


この日の「夜ヒット」のパフォーマンスからは、彼女たちがそんな切迫した状況にあったことは、みじんも感じられない。ピンク・レディーらしく、笑顔で明るく歌い踊っているのは、やはりプロ意識なのか。あるいは、ある種の諦観というか、もうどうにもならないことを悟っていたからこその笑顔だったのかもしれない。


前日の7月6日には、夏のコンサートツアーが始まっていた。ツアー名は「ターニングポイント」。それまでと大きく違ったのは、まずいきなりミーちゃんのソロパートで始まり、続いてケイちゃんのパート。ここまでで全体の半分ほどの時間を割き、後半でやっと2人揃って歌うという構成だったようだ。この段階ではまだ、表向きは解散を否定していたものの、まるで解散後の展開を見据えているかのような印象を、ファンに与えたのは間違いない。


さて、伊藤アキラ氏の名誉のために言っておくと、氏は「世界英雄史」だけではなく、ピンク・レディー、というかケイちゃんに、珠玉の名曲を書いている。少し先走るが、翌81年3月、ピンク・レディー解散の1週間前に発表された3枚組のベストアルバム「 PINK LADY 」(通称:銀箱)に収録されたケイちゃんのソロ曲「カリフォルニア・ブルー」である。


♪一度カリフォルニアを訪れた人は
  空が忘れられずに いつの日か戻る
  花は散ってしまうし住む人も変る
  けれど空はまぶしく永遠のブルー

  California blue それはあなたの愛
  ふりむけばいつも そこにあなたがいた
  California blue 遠く離れてても
  気がつけば私 つつまれていた
  帰ってきたの 帰ってきたの
  私の心 今はただのブルー


こちらの歌詞は、最初から情景が目に浮かんでくるし、物語も感じさせる。考えてみれば「かもめが翔んだ日」の歌詞(♪ハーバーライトが朝日に変る その時一羽のかもめが翔んだ)も極めて映像的だった。その意味では、この「カリフォルニア・ブルー」の方が、伊藤氏らしさが現れているのかも知れない。


サウンドも歌詞に劣らず、よく練られている。作曲・編曲を手がけたのは、梅垣達志氏。洋楽にはタイトルに「カリフォルニア」が入った名曲がいくつもあるが、メジャーコードで始まる前半は「カリフォルニアの青い空」(アルバート・ハモンド)にどことなく雰囲気が似ている。そして、マイナー調に変わる後半のサビは、明らかに「夢のカリフォルニア」(ママス&パパス)へのオマージュだ。ドラマチックなコーラスをバックに、堂々と歌い上げるケイちゃんのボーカルが素晴らしい。「♪帰ってきたの 帰ってきたの」と、あえて字余り気味にした歌詞が、また秀逸だ。この部分の語りかけるようなケイちゃんの歌声が、切ない。前にも書いたが、ソロシンガーとしてのケイちゃんのポテンシャル、特に表現力は相当なものだったと実感させられる。そういえば、ケイちゃんが「サマー・ファイア‘77」でソロで歌った「ホテル・カリフォルニア」もすごかった。


なんだかカリフォルニアに縁のあるケイちゃんだが、彼の地への思いは複雑だったようだ。山際淳司氏のルポによれば、NBCの仕事を全てやり終え、ロスを発つ飛行機の中で、ケイちゃんは「二度とここには来るもんか」と思っていたそうだ。日本語も使わせてもらえないストレスフルな環境で、プレッシャーにも晒され、精神を擦り減らす過酷な日々だったことだろう。もちろん、後から見れば、人生の糧ともなる非常に貴重な経験だったと言えるだろうが、当時はそんな風に俯瞰できる余裕はなかったに違いない。


では、日本に帰ってから、心の安定が取り戻せたかといえば、決してそうではなかった。所属事務所T&Cとの間に生まれた深い溝は埋まることなく、不信感は募るばかりだった。紅白辞退やNBC出演など、話題性を重視し、大きなことをぶち上げるばかりの事務所のやり方に、ケイちゃんはついて行けなくなっていた。それだけではない。


この頃、作曲家の都倉俊一氏が、印税400万円が支払われていないと、T&Cを告訴した。ミュージシャン達への支払いもされていないとして、まずは自分が声を上げることにしたというのだ。ケイちゃんもミーちゃんも、これにはかなり心を痛めていたはずだ。T&Cの経営状態は、それだけ悪化していた。アメリカ進出のために行った投資は充分に回収出来ず、国内でも人気の低下とアメリカ進出による不在が長期にわたったことで、売り上げが激減した。(都倉氏の訴訟は後に取り下げられる)


だが、これらのこと以上に、ケイちゃんを苦しめていたのは、事務所の幹部との確執である。「ピンク・レディープロジェクト」の中心的役割を担い、コンサートの構成も手がけていたこの人物は、ケイちゃんの恋愛を快く思っていなかった。詳細は「あこがれ」(増田惠子著)に書かれているので触れないが、ケイちゃんはこの幹部から「冷たい仕打ち」、今なら間違いなくパワハラに当たるような嫌がらせ的行為を受けていたようだ。


幹部は当時、山際氏の取材に対して、ピンク・レディーがうまくいかなくなったのは、ケイちゃんと某歌手の恋愛騒動が原因だったと、露骨に発言している。そして前回も触れたが、ミーちゃんに対しては、アメリカ滞在中から「ソロでやらないか」と打診していたのである。


ピンク・レディーの解散説を報じていた各芸能マスコミは、その理由として「ミーケイ不仲説」を書き立てた。だが、実際には2人の関係というよりも、この幹部を中心とした事務所とケイちゃんとの問題の方がはるかに大きく根深いものだった。


デビューから4年。どんよりとした冷夏の曇り空の下、ピンク・レディーとプロジェクトは、もう後戻り出来ない「ターニングポイント」を迎えていた。